artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
須田一政「雀島」
会期:2011/09/01~2011/10/29
フォト・ギャラリー・インターナショナル[東京都]
須田一政が覚悟を決めたようだ。週3回の透析が必要とのことで、体の調子はあまりよくないようだが、「写欲」は衰えるどころかさらに昂進している。
今回の個展のテーマである「雀島」は千葉県いすみ市津々ヶ浦にあり、「海蝕によって『岩』に変わり、いつしか消滅する運命にある」小島だ。須田はこの何の変哲もない波打ち際の島が妙に気になり出し、2010年1月から7月にかけて執拗に撮影し続けた。夜、急に思い立って車を飛ばすこともあったというから、何かに取り憑かれたとしかいいようがないだろう。6×6判のモノクロームフィルムによる撮影は、実質的なデビュー作といえる1970年代の「風姿花伝」シリーズ以来慣れ親しんだものではあるが、決定的に異なっているのは、常に揺れ動いていた「通過者」の視点が、「雀島」の一点に定まっているということだ。とはいっても、作品の一点一点から受ける印象はかなり大きな幅があり、島全体をシルエットのように捉えたもの、ぬめぬめと光を反射する岩の一部にクローズアップで迫ったもの、果ては白い水着姿の何ともなまめかしい女性の姿が写り込んでいるものまである。結果的に「雀島」は幻影とも現実ともつかない場所に宙吊りになり、「私のかつて追い求めてきたモノの象徴」として、写真のなかに再構築されていくのだ。意欲的な実験作であり、須田の新たな方向性を開示するシリーズとなるのではないだろうか。
なお同時期に、新宿のPLACE M(9月26日~10月2日)とその階下のM2 gallery(9月28日~10月7日)では「Sign」展が開催された。街をさまよい歩きながら、「私の幼年期から青年期の感受性に揺さぶりをかけたモノのサイン」を探し求める営みの集積。こちらも筋金入りの画像採集者の、張りつめた視線の強靭さを感じさせる意欲作だ。
2011/09/27(火)(飯沢耕太郎)
高松次郎「言葉ともの─純化とトートロジー」
会期:2011/09/16~2011/10/30
NADiff Gallery[東京都]
以前、高松次郎の1972年のサンパウロビエンナーレの出品作「写真の写真」を集成した写真集『PHOTOGRAPH』(赤々舎、2004)を見て、そのかっこよさに痺れた。写真を使うコンセプチュアル・アートの作家は榎倉康二、野村仁などかなりたくさんいるが、高松の写真作品には単純な概念のイラストレーションという役割を超えた、写真そのものとしての魅力があるように感じる。その魅力がどこから来るのかと問われると、なかなか答えるのがむずかしい。だが、そこには写真のクリアーで明晰な描写と、物体の配置のどこか謎めいた魔術性とが、強い説得力を持つかたちで共存している。今回のNADiff Galleryでの個展出品作のほとんどは、ドローイングやコラージュ作品なのだが、そのなかに1点だけ含まれていた写真作品「椅子とレンガ(複合体)」を見て、やはり写真家としての高松次郎は再評価されるべきであると思った。
この写真作品は1972年に発表(1980年に一部再制作)された「複合体〈椅子とレンガ〉改題」を撮影したものだ。会場には同作品も展示されていたので、写真と実物とを比較して眺めることができた。何の変哲もないパイプ椅子の、ひとつの脚の下にレンガが置かれ、その奥のもうひとつの脚が空中に浮いている。それだけのシンプルな状況を、何の操作も加えず撮影しただけの作品なのだが、何度も言うようにそれが奇妙な魅力を発している。撮り方が平静なだけに、逆に狂気めいた微妙なズレがより強く浮かび上がってくるのかもしれない。高松の写真の仕事を、もう一度きちんとまとめて見直すと、日本の写真表現の見過ごされがちな水脈のひとつが姿をあらわすような気もする。
2011/09/18(日)(飯沢耕太郎)
石川直樹「8848」
会期:2011/09/09~2011/10/22
SCAI THE BATHHOUSE[東京都]
前回の同じ会場での個展「POLAR」(2007年)でも感じたのだが、石川直樹はSCAI THE BATHHOUSEと相性がいいのかもしれない。東京・谷中の元銭湯だった天井の高い建物の壁面にゆったりと並べられた作品の雰囲気が、彼の柔らかく伸び縮みする眼差しのあり方にぴったりしているのだ。
彼にとっては2度目になる、世界最高峰、エベレスト登頂の記録というテーマもよかったのではないか。人類学的な志向が強い「ARCHIPERAGO」(2009年)や「CORONA」(2010)年は、視点の拡散によって落着きがなく、締まりのない写真の羅列になってしまっていた。今回の「8848」では、めざすべきエベレスト山頂の三角形のイメージが、何度も繰り返し登場してくることで、写真にくっきりとした方向づけができている。何といっても、標高8,000メートルを超える場所の、極限に近い状況が写真に写り込んでくることで、ぴんと張りつめた空気感が展示全体を引き締めていた。石川直樹には、やはり「冒険家」のポジションがよく似合うということだろう。
それにしても、いつも感じることだが、旅の途上で出会った現地のシェルパ族の人々との交友や、準備段階での日常的な場面の写真は必要なのだろうか。これらの写真を入れ込むことが、どうもある種の決まり事のようになっているように見える。石川にいま必要なのは、何を見せて何を落とすのかをより厳密に判断していく、制作行為におけるストイシズムではないかと思う。
2011/09/16(金)(飯沢耕太郎)
蔵真墨「蔵のお伊勢参り 其の七! 京都・大阪」
会期:2011/09/09~2011/10/08
ツァイト・フォト・サロン[東京都]
蔵真墨から送られてきた展覧会のDMに「悪意ではなく愛です♡」と添え書きがあった。どういうことかといえば、以前彼女の作品について書いた時に、「悪意に満ちた」というような言い方をしたことがあったからだ。「蔵のお伊勢参り」シリーズの番外編というべき、今回の「京都・大阪」の写真群を見て、たしかに彼女の作品には「悪意ではなく愛」がくっきりと刻みつけられていることがわかった。路上にたむろする人々の仕草や表情を、どちらかといえばネガティブに捉えているように見えるのだが、むしろそこにあふれているのは、そのようにふるまってしまう人間たちへの、慈しみや許しの感情なのかもしれないとも思った。
それに加えて、蔵には純粋な好奇心、この現実世界のあり方をとことん探求しようという強い意欲がある。路上スナップには、路上でしか育ってこないものの見方を鍛え上げていくという側面があるのだが、残念ながら、近年そのような志向がやや弱りつつあるのではないかと感じる。よく指摘されることではあるが、路上スナップの撮りにくさが、それに拍車をかけているともいえるだろう。そんな時代状況において、蔵のがんばりは特筆に値する。路上スナップの面白さは、数10年というスパンを経なければ見えてこないところがある。50年後、この「蔵のお伊勢参り」のシリーズを見直せば、たとえば2010年代の都市の住人たちが携帯電話をどのように使用していたのかを知るための、貴重なヴィジュアル資料としても活用できるのではないだろうか。
なお写真展にあわせて、原耕一の装丁で、同シリーズの87点を集成した写真集『蔵のお伊勢参り』(蒼穹舍)が刊行された。
2011/09/16(金)(飯沢耕太郎)
橋口譲二「Hof ベルリンの記憶」
会期:2011/09/14~2011/09/27
銀座ニコンサロン[東京都]
橋口譲二のひさしぶりの新作展である。もしかすると10年ぶりくらいかもしれない。1990年代の精力的な活動と比較して、その沈黙ぶりが際立っていたのだが、ようやく写真家として新たな領域へと向かう準備ができてきたようだ。とはいえ、今回展示された「Hof ベルリンの記憶」は、純粋な新作ともいいがたい。「ベルリンの壁」崩壊直後の1990年から93年にかけて、旧東ベルリンのプレンツラウアー・ベルク地区とミッテ地区の古びた集合住宅を、6×6判と4×5インチ判のカメラで中庭(Hof)を中心に撮影した一群の写真があり、それに2009~2010年に新たに撮り下ろした写真が付け加えられている。まだ本格的な始動の前の助走という感じなのかもしれない。
会場に入って、以前送ってもらっていた同名の写真集(岩波書店刊)の印象と、やや違っているように感じた。橋口本人に確認すると、やはりプリントを大幅に焼き直したのだという。写真集の時には、中判、あるいは大判カメラの視覚的な情報をどれだけきちんと伝えるかに腐心していたのだが、今回の展示のためのプリントの段階で「これではだめだ」と思ったのだという。もっと生々しく、実際に建物や中庭に向き合った時の感情を出すことをめざすようになった。結果として、プリントの陰翳はより濃くなり、陽が差さない中庭の湿り気を帯びた空気感が伝わってくるようになった。
このあたりには、両大戦と旧東ドイツ時代を生きのびた労働者階級の人々が多く暮らしていたのだが、その歴史の重みが壁に残る弾痕など、建物のさまざまな凹凸や歪みから浮かび上がってくる。写真を見ている時に、しきりに「皮膚」という言葉が浮かんでは消えていた。たしかに橋口がこのシリーズでめざしているのは、都市の表層を、ぬめりを帯びた「皮膚」の連なりとして捉え直すことではないだろうか。やや残念なことに、このシリーズには人間の気配は感じるものの、人間そのものは被写体として登場してこない。次はぜひ、橋口の本来の主題である、より直接的に人間の生に向き合い、寄り添った写真を見てみたいものだ。
2011/09/16(金)(飯沢耕太郎)