artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
成層圏 風景の再起動 vol.3 下道基行
会期:2011/07/09~2011/08/13
gallery αM[東京都]
gallery αMで開催されている、3人のキュレーターによる連続企画展「成層圏 Stratosphere」。今回は高木瑞木のキュレーションで、「風景の再起動」の3回目として下道基行の作品展が開催された。下道は2004年から日本各地に残る戦争遺跡を「再利用して」記録していく「Re-Fort」のシリーズを制作しており(リトルモアから2005年に写真集『戦争のかたち』として刊行)、今回はその第6回目の展示の予定だった。ところが、「3.11」以降に心境の変化があり、急遽用水路などに架かっている小さな板きれのようなものを撮影した写真を展示することになったのだという。A4判ほどにプリントされた各写真には、「11/05/17 09:18」といった撮影の日時が付されている。実は下道はいま、日本全国を震災直後に購入した小さなバイクで移動しており、これらの「橋」を見つけるとすぐに撮影し、データをギャラリーのプリンターに送信し続けている。プリンターから出力された写真は、随時壁に貼り出され、その数は会期中にどんどん増えていくわけだ。
旅の途上にある下道自身の移動と発見の状況を、ヴィヴィッドに定着していくその方法論は、とても洗練されていて気がきいていると思う。作品そのものも、一点一点の撮影のコンディションとクオリティが的確に保たれており、それぞれの風景の差異と共通性を見比べていく愉しみがある。下道が会場に掲げたコメントに書いているように、これらの「橋」たちは「生活/風景に必要な最小単位の物体であり、行為のひとつ」である。このような、さりげなくもささやかな営みの意味が、震災以降に変わってしまったことを確認していくのはとても大事なことだと思う。この作品が、今後の彼の制作活動において、新たな大きな水脈となっていくのではないかという予感もする。
2011/07/15(金)(飯沢耕太郎)
森花野子「lines. dots.」
会期:2011/07/14~2011/07/19
谷口雅の企画による現代HEIGHTS Gallery DENの連続展の第3弾。第2弾のシンカイイズミ「いつ どこで だれが」(7月7日~12日)を見過ごしたのは残念だったが、今回の森花野子の展示を見ても、各作家の作品のレベルがかなり高いのがわかった。
森が撮影しているのは、祖父や祖母が遺した器の類である。「戦時中に防空壕に埋めたという大皿」や「祖父がワインをたしなんでいたというグラス」などをクローズアップで、近親者の手の一部とともに撮影し、マット系の紙に大伸ばししたプリントが4枚、天井から吊り下げられている。写真の裏から強い光を当てているので、それがプリントの表面に滲み出し、モノクロームの微妙な陰翳をより際立たせている。森は武蔵野美術大学の出身ということだが、インスタレーションとしてなかなか工夫された展示といえるだろう。
日常の器に目をつけた視点もいいと思う。皿やグラスや壷は、それを使っていた家族の思い出とともに次の世代へと受け継がれ、また違う経験や記憶が付け加わっていく。その時、器は食べ物や飲み物の容器という実用的な役割を超えて、いわば「生と死を盛る器」としての存在感を強めていくといってもよい。その有り様をしっかりと見つめ、丁寧に写しとっていこうという態度が、きちんと貫かれていて気持ちがいい。このような身近な素材に注目する視点の取り方は、やはり作家の女性性のあらわれといえるのではないだろうか。次の展開にも期待したい。
2011/07/14(木)(飯沢耕太郎)
齋藤陽道「絶対」
会期:2011/07/06~2011/08/12
A/A gallery[東京都]
齋藤陽道は聾唖のハンデキャップを背負いながら活動している写真家。2009年に写真新世紀で佳作を受賞してデビューし、2010年には同優秀賞(佐内正史選)を受賞した。秋には赤々舎から写真集の刊行も決まり、いま最も注目を集めている若手の一人である。その彼の新作展が、「障害のある作家の作品を扱う日本初のコマーシャルギャラリー」である、アーツ千代田3331内のA/Agalleryで開催された。
実は2009年の写真新世紀で彼の作品を佳作に選んだのは僕で、その「タイヤ」には度肝を抜かれた。大型トラックのような車輛の巨大なタイヤを、走行中に至近距離で撮影した作品である。審査の時には、彼が聾唖者であることはまったく知らなかったのだが、後で聞いて、その衒いのないまっすぐな撮影のスタイルにあらためて共感を覚えた。今回展示された「絶対」のシリーズは、逆光気味に光を見つめて撮影したポートレート作品であり、やはり齋藤のストレートに被写体に向き合う姿勢がよく表われていた。車椅子の障害者を含む老若男女を撮影した写真の多くには、丸い光の輪(レンズのフレアー)が写っている。その波動が「いつかどこかでかならず、ひかりとともにお会いしましょう」というコメントと共振して見る者に迫ってくる。
たしかに心地よい写真ではあるが、以前の強引さ、力強さがやや薄れていることが気になる。「タイヤ」のような、わけのわからない衝動に突き動かされた作品をもう一度見てみたいと思う。被写体を受けとめるだけでなく、こちらからももう少し踏み込んでいくべきではないだろうか。
2011/07/13(水)(飯沢耕太郎)
森村泰昌 新作展「絵写真+The KIMONO」
会期:2011/07/06~2011/07/25
日本橋タカシマヤ6階 美術画廊X[東京都]
最近はマッチョ系の男子への変身が多かった森村泰昌の新作は、ひさびさに女性をモデルとするセルフポートレート作品だった。元になる原画は金沢出身で大阪を中心に活動した日本画家、北野恒富の「《キモノの大阪》春季展覧会」(高島屋大阪長堀店、1929)のポスターである。束髪の若い女性が着物を肌脱ぎにして肩と片方の乳房を見せている、なんとも大胆な図柄であり、駅などに貼り出されたものはその日のうちに全部なくなってしまったという。大阪生まれで、いまも活動の拠点を大阪に置いている森村にとって、この北野のポスターの「でろり」とした濃密なエロティシズムには、かなりの親近感があったのではないだろうか。その「日本画なのに写真みたいな描き方」も彼の「絵写真」の手法にぴったりしていると思う。
今回の出品作は6点で、「恒富風桃山調アールデコ柄」「上品會/豊公錦綾文」「百選会/ロマン・ド・ラ・ローゼ」「百選会/小磯良平風に」「アレ夕立に/栖鳳風に」「森村作/構成主義風に」と、着物の柄をたっぷりと見せる構図になっている。北野恒富の原画に加えて、「上品會」や「百選会」のような高島屋主催の着物発表会の出品作、高島屋所蔵の小磯良平や竹内栖鳳の名作、森村自身の抽象的なシルクスクリーン作品がデザインされた着物それ自体が、画面の中でそれぞれしっかりと自己主張している。「高島屋創業一八〇周年記念」の展覧会にふさわしいものであり、ここまで「衣裳を見せる」ことにこだわったシリーズは、森村のこれまでの作品にもなかったのではないだろうか。
なお、本展は高島屋新宿店十階美術画廊(8月10日~22日)、同大阪店六階ギャラリーNEXT(12月28日~2012年1月10日)に巡回する。
2011/07/13(水)(飯沢耕太郎)
吉行耕平「The Park」
会期:2011/06/29~2011/07/18
BLD GALLERY[東京都]
吉行耕平の「公園」のシリーズを最初に見たのはいつだっただろうか。1970年代前半に『週刊新潮』に掲載されてかなり話題になったのを覚えているし、1980年に刊行された写真集『ドキュメント 公園』(せぶん社)も購入しているので、探せば家のどこかにあるはずだ。初めから、これはかなり面白いシリーズだと思っていたし、その印象はいつ見ても変わらない。奇妙にしぶとい魅力を発し続ける作品といえるだろう。
赤外線フィルムを入れたカメラで闇の中を透視するという手法は、吉行の専売特許というわけではないのだが、このシリーズはそれ抜きでは考えられない。公園の夜陰にまぎれて密かな行為をおこなおうとするカップルを、ハンターのように狙ってシャッターを切っている。そこに写ってくるのが、当事者のカップルだけではないのがポイントだろう。そこには、カップルの近くに群がっている「覗き」のグループの姿もくっきりと浮かび上がってくるのだ。しかも、ただ覗いているだけではなく、時には行為に没入している女性の体に触ろうとする者までいる様子が実におかしい。人間という生きものの本性というべき、滑稽で切実なふるまいを、見事にとらえきったドキュメントといえるだろう。
「覗きたい」という欲望は、考えてみれば写真を撮影するという行為の原動力でもある。純粋な好奇心に突き動かされて撮影し続けた結果として、「公園」シリーズは単なるスキャンダルを突き抜けた表現性を獲得することができた。2000年代に入ってから、吉行の作品が欧米のコレクターたちの間で大きな話題を集め、ニューヨークをはじめとして個展や写真集の刊行が相次いでいるのも当然というべきではないだろうか。
2011/07/12(火)(飯沢耕太郎)