artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

齋藤亮一「佳き日」

会期:2011/08/27~2011/09/06

コニカミノルタプラザ ギャラリーC[東京都]

齋藤亮一はこれまでバルカン半島、中央アジア、キューバ、インドなど、世界中を旅して写真を撮り続けてきた。あまり目的のある旅ではなく、人々や風景との偶然の出会いを、精度の高いスナップショットの技術で写し止めていく。写真展の開催や写真集の刊行もコンスタントに積み上げており、優しく温かみのあるその作品世界は完成の域に達している。だが逆にここ数年、どこか吹っ切れない思いが強まっていたのではないかと想像できる。真面目な作家だけに、これから先どのように写真を撮り続けていくのかという悩みもあったのではないだろうか。その答えが、今回の展示で完全に出たとは言い切れない。だが、壁にカラーピンで無造作に留められた写真を眺めているうちに、齋藤が何かを みかけているように思えてきた。
今回のシリーズ「佳き日」のテーマになっているのは、「日本の各地に脈々と受け継がれてきた『はれ』の日」の情景である。青森県の八戸えんぶりから香川県の中山農村歌舞伎まで、全国の祭りや民間行事を丹念に撮影している。日常生活のなかに押し込められていた「佳きエネルギー」が爆発するようなそれらの写真を包み込むように、「はれ」の日のなかの「はれ」の日というべきお花見の場面が並ぶ。それを見ると、咲き誇る桜の花が、やはりどこか心をワクワクさせるような不思議な力を秘めていることがよくわかる。これらの写真を通じて齋藤が確認しようとしているのは、やや月並みな言い方になってしまうが、日本人の感性のルーツ1だろう。世界中を回遊する日々の果てに、もう一度写真家としての原点に回帰したいという思いに至ったのではないだろうか。
人々の晴れやかな笑顔を見ていると、これらの写真の持つ意味がやはり震災後に切実なものに変わってしまったと感じざるをえない。かまくら(秋田県)、みちのく芸能祭り(岩手県)など、東北地方で撮影された写真が多かったので、そう感じたのかもしれない。この時期だからこそ発表したかったという齋藤の気持ちが伝わってきた。なお写真展にあわせて、手にとりやすい同名の写真集もパイインターナショナルから刊行された。

2011/09/01(木)(飯沢耕太郎)

谷敦志「ポップでフェティッシュな日常が今日もダラダラ続く!」

会期:2011/08/27~2011/09/05

ポスターハリスギャラリー[東京都]

大阪出身の谷敦志は、今どきむしろ絶滅種に近いフェティッシュ=エロティシズム系の写真家。『BURST』『夜想』『トーキングヘッズ』などの雑誌を舞台に、耽美的で危ない写真作品を発表し続けてきた。近年は音楽や演劇関係のジャケットやポスターの仕事も精力的にこなしており、コアなファンも多い。
今回の展覧会のタイトルが、彼の現在の心境をよく示していると思う。「ポップでフェティッシュな日常が今日もダラダラ続く!」。自分でも「B’zの歌詞みたい」といっていたが、半ばやけくそでこのうっとうしい時代を突っ走っていきたいという気概と覚悟が感じられる。たしかに以前のエロスのダークサイドのうごめきを探り当てようとしていた作品と比較すると、今回のシリーズには「ポップでフェティッシュな」気分が強調されている。大阪人らしく、こてこての笑いを取ろうという意欲も感じられる。
とはいえ、ラテックス製のチューブを巻きつけた奇妙な衣裳に身を包み、どぎついメーキャップを施され、ぎくしゃくしたマネキン人形のようなポーズをとらされている人物たちから透けてくるのは、どす黒い血の匂いであり、時代の暗部をぎりぎりまで抉り続けようとする姿勢にはまったく揺らぎがない。この「Coolでおバカで大丈夫な写真たち」が、ふたたびまったりと弛緩しつつある震災後の日常に、非日常的な裂け目を入れ続けることを期待したい。さらに走り続けていくと、もっととんでもない写真の世界が見えてきそうな予感もする。

2011/09/01(木)(飯沢耕太郎)

熊谷聖司「THE TITLE PAGE」

会期:2011/08/22~2011/09/04

ギャラリー蒼穹舎[東京都]

熊谷聖司が2009年に刊行した写真集『THE TITLE PAGE』(MATCH and Company)のページをめくった時、これは「俳句的」な写真集だと思った。写っているのはごく身近な日常的な場面で、それをあまり肩に力を入れずすっと切り取っている。そこに軽やかさとともに、「世界をこのように見ている」という認識のひらめきが感じるのがいかにも「俳句的」だ。それと、写真一枚一枚に短い言葉=タイトルがついていて(それが『THE TITLE PAGE』という写真集の題名の所以だろう)、その選び方にやはり知性と切れ味を感じる。最初の写真は窓辺の花瓶の花を撮影したもので、タイトルは「Flower is…」。これはロバート・フランクの写真集から取ったものだ。魚の切り身の写真に「Picasso」。ピカソの絵の骨のモチーフの変奏だろうか。ショーウィンドーの写真に「Twins」とあるのは、実物とガラス窓に写る影が二重映しになっているからだろう。このような、日常の断片を深みのある象徴的な場面に変質させる「俳句的」なレトリックこそ、日本の写真家たちの得意技だ。このシリーズは、それを高度に洗練させた営みと言えるだろう。
今回の展示には、その『THE TITLE PAGE』収録の写真に加えて、同時期(2006~2009年)に撮影された別なカットも選ばれている。それを見ても、熊谷が現実世界からイメージを切り出してくる手つきが、既に「芸」の域に達していることがわかる。8×10インチくらいに小さく焼かれたプリントも、このシリーズにふさわしい凝縮して詰まった感じを醸し出している。ただ残念なことに、あの魅力的なタイトルがはずされていた。展示でも写真と言葉との響き合いを見たいと思ったので、会場にいた熊谷にそれを伝えたら、「さっそくプリントアウトして貼っておきます」とのことだった。

2011/08/22(月)(飯沢耕太郎)

レオ・ルビンファイン「傷ついた町」

会期:2011/08/12~2011/10/23

東京国立近代美術館[東京都]

2階の常設展の横の会場に入ると、かなり大きな152.4×182.9�Bのインクジェットプリント35点が、通路を区切るように天井から吊り下げられている。この会場構成に、レオ・ルビンファインの周到な配慮を感じる。写真に写っているのは、世界各地の都市でストリートスナップの手法で撮影された人々の姿だ。東京、モスクワ、ソウル、ロンドン、ムンバイ、ナイロビ、モンバサ、ジャカルタ、マドリッド、カサブランカ、マニラ、エルサレム、コロンボ、クタビーチ(バリ島)、カラチ、ヘブロン(パレスチナ)、そしてニューヨーク──ルビンファインがカメラを向けたこれらの都市は、なんらかのかたちでテロの被害にあった「傷ついた街」(Wounded Cities)である。彼自身、ニューヨークで2001年9月11日の同時多発テロに遭遇し、それをきっかけにしてこれらの群像写真を6年間かけて撮影したのだという。
われわれは、等身大以上に大きく引き伸ばされた人々の顔に向き合う。それがどこか不安げで、寄る辺ない表情を浮かべているように見える。もともと街頭でスナップされた人々の写真は、そのような不安定で、どちらかといえばネガティブな感情を引き起こしやすい。それぞれの人物か、その時間にそこにいた目的や理由が、ある意味暴力的な切断によって宙吊りにされるからだ。それに加えて、今回の展示では写っている人々の表情を意図的に限定し(笑っている者はほとんどいない)、観客を圧倒するスケールに大伸ばしし、「傷ついた街」という文脈をあらかじめ提示している。そのため写真を見る者は、いやおうなしに「9・11」以後の世界のあり方を生々しく突きつけられ、写真を前に自問自答せざるをえないところに追い込まれてしまう。
このような強制的な写真の見せ方に対しては、僕はずっと否定的な見解を表明してきた。だが、今回の展示についていえば、ルビンファインはそのような観客の反応をあらかじめ予想したうえで、あえて威圧的なプレゼンテーションのやり方を選びとっているのではないかと思う。「9・11」以後の「なぜこんなことが起こったのか」という堂々巡りの思考の果てに、彼はとにかくこのような写真を撮ってみようと心に決めたのだろう。カタログを兼ねた写真集に、こんなふうに記している。
「群衆の中の人間の顔を見て、一国の運命がわかるはずがない。そんなことは私だって知っている。しかし、とにかく私は写真を撮り続けた。確信できないながらも、そこには『何か』があるはずだと思えてならなかった。自分の目で真剣に、一心不乱に見つめれば、耳で聞いただけでは得られない『何か』を得られるはずだと思ったのである」
彼自身も答えが見えていたわけではないだろう。それでも「何か」に突き動かされるように、これらの写真を撮り続けなければならなかったということは伝わってくる。まず「傷ついた街」の人々の顔に向き合ってみること。そしてそこにいるのが「彼ら」ではなく、「世界に一人しかない『彼』か『彼女』」であることを実感すること──その体験を共有することを願って、ルビンファインはわれわれを柵の中に囲い込み、それぞれの顔から発する視線に貫かれるような、会場のインスタレーションを試みたのではないだろうか。

2011/08/21(日)(飯沢耕太郎)

宇井眞紀子「アイヌ、風の肖像」

会期:2011/08/17~2011/08/30

銀座ニコンサロン[東京都]

小栗昌子の「フサバンバの山」もそうなのだが、このところ腰を据えて特定の地域、人物などを撮影するドキュメンタリー写真のあり方が気になってきている。宇井眞紀子が新泉社から刊行した同名の写真集の刊行にあわせて開催した「アイヌ、風の肖像」展でも、写真撮影の行為の“原点”を志向するような営みに、強く心惹かれるものを感じた。小栗も宇井も女性の写真家なのは偶然ではない気がする。女性の方が繰り返し、うねりながら続いていく被写体の生のリズムに、無理なく同調することができるのではないだろうか。
宇井眞紀子は1992年に、偶然の機会から、北海道沙流郡二風谷でアイヌ民族のコミューンを組織するアシリレラ(「新しい風」という意味、日本名は山道康子)に出会う。彼女の凛としたたたずまいと、大家族を束ねる包容力に魅せられた宇井は、以後20年近く子連れで二風谷に通い詰め、アシリレラ・ファミリーを記録していった。彼らの暮らしの細部のほか、アイヌの聖地を破壊する二風谷ダムの反対運動、伝統儀式、世界各地の先住民族との交流など、アシリレラさんを中心に撮影した写真をまとめたのが今回の展示である。
モノクロームとカラーを併用する撮影のスタイルには、自然体でまったく気負いがない。もちろん個々の写真には、それぞれの場面のバックグラウンドがきちんと写り込んでいるのだが、それらを読み解き、解説していこうとするよりは、その場を共有してシャッターを切っている写真家の心の躍動が、ストレートに伝わってくるのだ。20年の年月とともに、写真家も被写体となったファミリーの状況も、少しずつ変わっていく。それを無理なく受けとめて写真に編み込んでいく、息の長いドキュメンタリーのスタイルが、既にできかかっているように感じた。

2011/08/17(水)(飯沢耕太郎)