artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

ヨコハマトリエンナーレ2011

会期:2011/08/06~2011/11/06

横浜美術館、日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)ほか[神奈川県]

「世界はどこまで知ることができるか?」をキャッチフレーズに、いよいよ「ヨコトリ」が開幕した。11月初めまで、いろいろな企画が逐次開催されることになるが、まずはオープニング当初の様子を報告しておくことにしよう。といっても、絵画やインスタレーション作品については、他の方が触れると思うので、ここでは写真作品を中心に書いてみたい。
横浜美術館では田口和奈、荒木経惟、杉本博司、ミルチャ・カントルらの作品を見ることができた。ルーマニア出身のカントルは、映像やインスタレーション作品も発表しているが、日常に潜む陥穽を細やかな手つきであぶり出していた。他は国内では発表済みの旧作の展示が中心なので、あまり新味はない。日本郵船海岸通倉庫では野口里佳が新作の「人と鳥」のシリーズを出していた。例によって人と鳥の姿を大きなスケールの風景の中に小さく配置して、象徴的な映像世界を構築している。
全体に、絵画と彫像のようにたたずむ女性がゆっくりと回転する映像作品を並べたミヒャエル・ボレマンス(「ウエイト」)や、手のクローズアップのスローモーション映像を流し続けるツァイ・チャウエイ(「洗礼」)のように、映像作品と写真作品との間の境界線が、さらに消失しつつあるように感じた。やはり映像と写真のインスタレーションだが、タイのアピチャッポン・ウィーラセタクンの日常と神話の空間を接続させる試みがなかなかよかった。
新港ピアの倉庫群を改装した「新・港村」でも、いくつかの写真展企画がかたちをとろうとしていた。「八戸レビュウ88」は「八戸市民と3人の写真家、梅佳代、浅田政志、津藤秀雄によるコラボレーション・プロジェクト」。8カ月にわたって、延べ400人以上の市民がポートレートの被写体となり、それぞれの想いを綴った。八戸での展覧会の会期中に東日本大震災が起こったことで、写真の意味があらためて問われることになる。その展示を再構成して「横浜版」の展覧会としてよみがえらせた。他にエグチマサル、藤本涼、横田大輔、吉田和生による「Expanded Retina」展、BankART School飯沢ゼミ有志による「いまゆら」展などが開催中だが、まだ会場設営が進行中なので、これから本格的にスタートというところだろうか。

2011/08/07(日)(飯沢耕太郎)

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小栗昌子「フサバンバの山」

会期:2011/08/05~2011/08/27

ギャラリー冬青[東京都]

岩手県・遠野で暮らしながら、その土地に根ざした写真のあり方を探ろうとしている小栗昌子。今回展示されたのは2010年に『日本カメラ』に連載していた「フサバンバの山」のシリーズである。27枚の11×14インチサイズのモノクロームプリントが、ギャラリーの空間に気持ちよく並んでいた。
たまたま知り合った老夫婦を6年前に撮りはじめたのだが、「爺々」が亡くなり、「フサバンバ」だけが残されて一人暮らしをはじめた。小栗はつかず離れずの絶妙の距離感で、老婆の日常を細やかに追いかけていく。「フサバンバ」の背を丸めた小さな姿は、まるでアイヌの伝説に登場してくるコロボックルのようだ。縁側にちょこんと座ったり、フキの葉を頭の上に掲げたりすると、ますます妖精めいて見えてくる。残念なことに、「フサバンバ」は今年になって体調を崩して、これ以上の撮影は難しくなっているようだ。このシリーズは、2009年の傑作写真集『トオヌップ』(冬青社)に続く写真集として、ぜひ刊行してほしいと思う。
会場に小栗のこんなメッセージが掲げられていた。3月11日の震災を経験して、「あらためて『命』という存在の重みを感じた」のだという。
「途方もない数の人達が一瞬にして亡くなり、その人生が途絶えてしまった。あたりまえのことだが、ひとつひとつのかけがえのない『命』である。私は今、そんな『命』を想い、自分自身のありようを確かめている。また、写真への思いを確かめている。そして、表現する者として、ここに伝えるべきことがあるとかんがえている」。
ここにも震災の体験を「表現する者」として受けとめ、投げ返そうとする営みがある。「フサバンバの山」に充溢する「命」の表現を。「震災後の写真」のひとつのあり方としてとらえ直すべきだろう。

2011/08/06(土)(飯沢耕太郎)

荒木経惟「彼岸」

会期:2011/07/22~2011/09/25

RAT HOLE GALLRY[東京都]

以前もこの欄で書いたことがあるが、荒木経惟の作品世界の基本原理は「エロトス」である。エロス(生、性)とタナトス(死)へ向かう力は、彼の作品のなかで引力と斥力のようにせめぎあっており、そのバランスはぎりぎりの緊張感において保たれてきた。ところが、RAT HOLE GALLRYで開催された今回の「彼岸」展を見ると、そのバランスが微妙に壊れはじめているように感じる。タイトルが示すように、タナトスへの指向が作品全体を覆い尽くしはじめており、エロスの躍動や華やぎが影を潜めているように見えてくるのだ。
展示作品は「彼岸」(モノクロームとカラー)、「楽園」の二つのシリーズである。「彼岸」の中心になるのは走行中、あるいは停車中の自動車の窓越しに撮影した写真群で、これまでも1990年代から「クルマドトーキョー」と題して発表されてきた。だが以前にも増して、今回展示された写真群には不思議な浮遊感が漂っている。魂がふわふわ漂いながらどこか遠くに飛び去って行くような気配というべきだろうか。その「彼岸」の眼差しをずっと辿っていくと、次第に現実感が薄れ、向こう側に連れ去られそうになってくる。なんとも怖い、背筋が凍る写真としか言いようがない。
「楽園」はおなじみのバルコニーと花のシリーズ。だが、「楽園」というタイトルが皮肉に見えるほどの、饐えた荒廃の雰囲気が画面全体を支配している。以前はチャーミングな魅力を発していた人形や恐竜のフィギュアも。不気味なオブジェに変質してしまった。このヒエロニムス・ボッシュ風のグロテスクな世界は、むしろ現代の「地獄絵」のようにすら見える。とはいえ、ずっと見続けているとなぜか笑いがこみ上げてくる。いっそ地獄の底の底まで見せつけてやるという「写狂人」荒木の心意気が伝わってくるのだ。こうなったら、行くところまで行っていただくしかないだろう。

2011/08/03(水)(飯沢耕太郎)

垂見健吾「新琉球人の肖像」

会期:2011/07/27~2011/08/05

えすぱすミラボオ[東京都]

沖縄・那覇在住の写真家、垂見健吾は、1993年に『琉球人の肖像』(スイッチパブリッシング)という写真集を刊行した。沖縄に生きる人びとを4×5インチの大判カメラで正面から撮影したポートレートのシリーズだが、タイトルが示すように今回の「新琉球人の肖像」はその続編にあたる。
だが見た目の印象はかなり違う。以前はモノクロームだったが、今回はカラーフィルムで撮影しているので、はっとするような華やかな色彩が画面にあふれている。また、被写体になっているのは世界各地に移住した「琉球人」の2世~4世たちで、外観はほとんど西洋人という人もいる。つまり「タルケン」こと垂見健吾がもくろんでいるのは、従来の「琉球人」の枠を拡大して、「血的文化的な混じりあい」によって生まれた「新しいうちなーんちゅ」のあり方を、写真を通じて探り出すことなのだ。その意図はかなりうまく実現されているのではないだろうか。三線、太鼓のような楽器や、エイサーや空手のような身体表現、またウチナーグチ(沖縄ことば)の伝承を通じて、父祖たちの文化とつながっていこうとする「新琉球人」の思いが伝わってくるいいシリーズだと思う。ただ、まだ被写体となる人たちの数が少なく、地域的にもハワイやアメリカに片寄っている。もう少し長く続けることで、より広がりとふくらみを備えたシリーズとして成長していくのではないだろうか。
そういえば、2011年3月~5月に開催された高桑常寿「唄者の肖像」展(キヤノンギャラリーS)も、4×5インチ判のカメラによるポートレートのシリーズだった。沖縄の人たちの力強いくっきりとした顔貌は、大判カメラの精密描写でもびくともしない存在感があるということだろう。ただし、高桑の「剛」に対して垂見の「柔」というか、対象のつかまえ方には違いがあると感じた。

2011/08/02(火)(飯沢耕太郎)

ジャン=ルイ・トルナート「Between II, Bad Dreams」

会期:2011/07/18~2011/07/31

PLACE M[東京都]

ジャン=ルイ・トルナートは1969年生まれ。1996年にアルル国立写真大学を卒業し、現在はパリを中心に活動している。2009年12月にも、PLACE Mで赤外線フィルムを使用して睡眠中の男女を撮影した「Between」シリーズを発表しているが、本展はその続編にあたる。ベッドで眠っている人の姿を定点観測的に撮影するというコンセプトに変わりはないのだが、今回はそれに「波動や煙、液体、亡霊のような形といった抽象的で奇妙な風景の写真」が付け加えられている。そのことによって、眠りの世界で、人間がいわば「気体化」して、ふわふわと宙を漂っているような感覚が強調されているようだ。まさに現実と夢の「中間(Between)にいる経験」の見事な視覚化といえるだろう。
これはまったく偶然なのだが、今月、吉行耕平の「The Park」に続いて、赤外線フィルムを使った作品を見ることができたのが興味深かった。むろん、デジタル的な処理を施しても同じような視覚的効果は得られるかもしれないが、目に見えない赤外線を感知することができるこのフィルムに写し出された世界は、被写体そのものが内側から発光しているような奇妙な生気に満たされている。闇の世界に分け入る手段として、さらなる可能性を孕んだ手法といえるのではないだろうか。
なおPLACE Mの階下のM2ギャラリーでは、トルナートのもうひとつの作品「Burned Land」が展示されていた。山火事にあった森を撮影したカラー写真のシリーズである。飛行機の残骸らしき物体が点在する黙示録的な光景もまた、「中間にいる経験」の表象化といえそうだ。

2011/07/26(火)(飯沢耕太郎)