artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
大沼洋美「くもがうまれるところ」
会期:2011/07/21~2011/07/26
谷口雅企画の現代HEIGHTS Gallery DENの連続展示の第四弾。山形の東北芸術工科大学を卒業して当地で活動している大沼洋美の作品は、文字通り「くもがうまれるところ」を扱っている。山間で煙、霧、靄などが立ちのぼる場所を撮影しているのだが、大地から流れ出る気流のかたちに神経を集中している様子がしっかりと伝わってくるいい写真だった。地面に近い場面は床に近づけて、山頂のあたりの場面は天井近くに展示するというインスタレーションも、よく考えられていた。
それとは別に、同時に展示されていた「谷口雅写真展」の最終回「水面を眺めてばかりいる」もなかなかよかった。谷口の記憶のなかに流れ、淀み、渦巻き、変化していく「水面」のイメージを、ふと目にした嵐の後の川面や、バルコニーの床に叩きつける雨粒などと重ね合わせて撮影していったシリーズである。「句読点のように置かれた水の記憶。撮り損なってばかりいる水。あるいはだからこそいまだに水面を眺め続けシャッターをきりつづけているのだろう」。写真から言葉へ、そしてまた写真へと「切断し旋回」していく思考と感情の流れが、繊細かつ的確に定着されていると思う。
少し気になったのは、写真がA4のコピー用紙にプリントアウトされた状態で、上の二カ所だけをホッチキスで止めて壁に並んでいること。なるべく大げさになることを避けて、軽い感じで展示したいという気持ちはわからないではないが、逆に衒いが目につき過ぎる気もする。普通のプリント、普通のフレームでよかったのではないだろうか。
2011/07/24(日)(飯沢耕太郎)
藤岡亜弥「Life Studies」
会期:2011/07/23~2011/08/20
AKAAKA[東京都]
ニューヨークに居を移して活動している藤岡亜弥の里帰り展である。帰国に合わせて急遽企画された展示だったが、なかなか面白かった。近作の「Life Studies」はニューヨークでの日々の暮らしを綴ったもので、光と影のくっきりとしたコントラストの合間にヒトやモノが寄る辺なく浮遊している。どこで撮影したとしても、光景の片隅へ、片隅へと視線が動いていくのが藤岡の写真の特徴で、その先に現われてくる眺めが、時に傷口を逆なでするような痛みをともなって迫ってくる。タイトルはアメリカの小説家スーザン・ヴリーランドの伝記小説のタイトルを借用したもの。内容的には小説と直接のかかわりはないが、「生の研究」というのは、藤岡の写真家としての基本姿勢といえるのではないだろうか。
同時に展示されていた「アヤ子江古田気分」は、また別な意味で感慨深かった。藤岡は日大芸術学部写真学科に入学した1993年から、8年間にわたって江古田の小さな家の2階で暮らしていたのだという。階下には大家でもある82歳のおばあさんが住んでいた。西陽がきつく射し込む、一畳半の板張りの暗室がある部屋の、どこか奇妙に歪んだ日々の記憶が、ニューヨークであらためて焼き直したというプリントから浮かび上がってくる。誰もが身に覚えがありそうな、不安と希望と悔恨とが複雑にブレンドされた微妙な味わいの日常の断片だが、のちに写真集『さよならを教えて』(ビジュアルアーツ、2004)、『私は眠らない』(赤々舎、2009)で開花する彼女の才能が、既にしっかりと表われている。
なぜ個人的に感慨を覚えたかというと、今回展示された写真の何枚かは僕が最初に藤岡に会った時に見せられたものだったからだ。じわじわと食い込んでくるような写真に妙に引きつけられて、当時編集していた女性写真家16人のアンソロジー写真集『シャッター&ラヴ』(インファス、1996)に収録した。それが藤岡の写真家デビューだったわけだ。これらの写真を見ていると、もうこの時点で彼女の「Life Studies」が開始されていたことがよくわかる。
2011/07/23(土)(飯沢耕太郎)
八木清「sila」
会期:2011/07/01~2011/08/27
フォト・ギャラリー・インターナショナル[東京都]
八木清は1994年から15年以上にわたって、アラスカ、カナダ、グリーンランドなど、北極圏の厳しい自然の中で生きるイヌイットの人々とその暮らしの諸相を撮影してきた。今回のフォト・ギャラリー・インターナショナルでの展示は、その集大成というべきものである。タイトルの「sila」はイヌイット語で「外にあるものすべて」を意味するが、世界や宇宙そのものの秩序を表わす言葉であるともいう。
8×10インチの大判カメラを被写体の正面に据える、きわめて厳格かつ緻密な手法で撮影されたネガは、19世紀から20世紀初頭にかけて広く用いられたプラチナパラジウムプリントに焼き付けられている。その結果として、八木の写真はきわめて古典的な記録写真のように見えてくることになった。ただし、たとえそれが19世紀末から滅びゆくネイティブ・アメリカンたちの姿をとらえたエドワード・S・カーティスらの写真を思わせたとしても、八木のスタイルは彼らとは異なっているのではないだろうか。カーティスのロマンティシズム、あるいは他の人類学者たちの被写体を上から見おろすように分類していくような視点は彼にはない。八木の写真はもっとつつましやかなものであり、そこには被写体をリスペクトする姿勢が貫かれている。
それがもっともよく表われているのは、イヌイットの人々の生活用具を撮影した写真群であろう。儀式に使う仮面や道具、ホッキョクグマの毛皮のブーツ、水鳥の足を縫い合わせた籠、さまざまな形の銛やナイフなどは、簡素な、だが力強い造形美を強調して丁寧に撮影されている。また雪上に凍りついたホッキョクギツネの死骸やトナカイの頭骨なども強い存在感を放つ。だが、ポートレートや風景では、その古典的な手法が諸刃の剣になっているようにも感じた。実際に被写体の前に立った時の八木の感情の震えが、隅々まできちんと整えられた画面からは伝わってこないのだ。あえて、頑固に「時代に逆行するかのような手法」を貫き通しているのはよくわかるのだが、20世紀末から21世紀にかけての現在の空気感をもっと取り込んだとしても、彼の仕事のクオリティは充分に保てるのではないだろうか。
なお、展覧会の開催にあわせて、写真集『sila』が限定400部でフォト・ギャラリー・インターナショナルから刊行された。印刷に気を配った、ゆったりとした造本の大判写真集である。
2011/07/21(木)(飯沢耕太郎)
川内倫子『ILLUMINANCE』
発行所:フォイル
発行日:2011年5月22日
川内倫子のデビュー写真集『うたたね』(リトルモア、2001)の刊行から10年が過ぎた。この間の彼女の活躍はめざましいものがあった。2005年のカルティエ財団美術館(フランス・パリ)での個展、2009年のニューヨークICPの「インフィニティ・アワード、芸術部門」受賞など、森山大道、荒木経惟の世代以降の若手作家としては、海外での評価が最も高い一人だろう。本書はその川内の『うたたね』以前の作品を含む15年間の軌跡を辿り直すとともに、彼女の今後の展開を占うのにふさわしい、堂々とした造りのハードカバー写真集である。
ページを繰ると、川内の作品世界がデビュー以来ほとんど変わっていないことにあらためて驚く。6×6判の魔術的といえそうなフレーミングはもちろんだが、日常の細部に目を向け、その微かな揺らぎや歪み、「気」の変化などを鋭敏に察知してシャッターを切っていく姿勢そのものがまったく同じなのだ。とはいえ、作品一点一点の深みとスケールにおいては、明らかに違いが見えてきている。また、どちらかといえばそれぞれの写真が衝突し、軋み声をあげているように見える『うたたね』と比較すると、『ILLUMINANCE』ではよりなめらかに接続しつつ一体感を保っている。光=ILLUMINANCEという主題が明確に設定され、そこに個々のイメージが集約していくような構造がくっきりと見えてきているのだ。写真集の編集・構成という点においても、彼女の成長の証しがしっかり刻みつけられているのではないだろうか。
なお、写真集の刊行にあわせてフォイル・ギャラリーで開催された「ILLUMINANCE」展(6月24日~7月23日)には、映像作品も出品されていた。数秒~数十秒の単位で日常の場面を切り取った画像をつないでいくシンプルな構成の作品だが、逆に写真を撮影するときの川内の視線のあり方が生々しく伝わってきて面白かった。
2011/07/17(日)(飯沢耕太郎)
尾仲浩二「Tokyo Candy Box」
会期:2011/07/08~2011/08/06
EMON PHOTO GALLERY[東京都]
尾仲浩二の写真集『Tokyo Candy Box』(ワイズ出版、2001)を最初に見た時のショックはよく覚えている。尾仲といえば、やや寂れた地方都市のさりげない光景を、旅をしながら撮影し、端正なモノクロームプリントで発表する作家というイメージがあった。それがいきなり、東京をテーマとした妙にポップなカラー写真の写真集が登場したので、目が点になってしまったのだ。
一人の写真家の仕事をずっと辿っていくと、なだらかに継続性を保ちながら進んでいく時期と、大きく飛躍し、変化していく時期とが交互にやって来ることがよくある。尾仲にとって、1990年代後半の「世紀末」は、まさにその後者の時期だったのだろう。時代が大きく変わりつつあることへの予感と、たまたまカラーの自動現像機を手に入れたことが重なって、モノクロームからカラーへ、地方から東京へ、静から動へ、というような化学反応が起こっていった。こういう思っても見なかったような大転換は、作家本人にとっても、写真を見るわれわれにとっても実に楽しいものだ。このシリーズには、発見すること、つくることの弾むような歓びがあふれているように感じる。
ところが、写真集の刊行にあわせた展覧会も含めて、これまで尾仲はスライドショーや大伸ばしのデジタルプリントでしか、このシリーズを見せてこなかった。自分にとっても実験作だったので、写真集の印刷とどうしても比較されてしまう印画紙の作品の展示は、封印してきたということのようだ。ところが昨年、常用してきたコダックのカラー印画紙が発売中止になり、ストックがあるうちにということで、あらためてこのシリーズのプリントを焼き直した。それらを展示したのが今回の「Tokyo Candy Box」展である。
作品を見ると、この10年の東京の変化が相当に大きかったことがわかる。彼自身が既に刊行時に予感していたように、それはもはやノスタルジックな色合いすら帯び始めているようだ。東京の無機質化はさらに進行し、もはやこの都市はおもちゃ箱を引っくり返したようなポップなCandy Boxではなくなりつつある。逆にいえば、二度と見ることができない眺めを、写真という魔法の箱の中に閉じ込めておくのが写真家の大事な役目なわけで、尾仲のこのシリーズも、箱から取り出すたびにさまざまな形で読み替えられていくのだろう。10年くらい後に、もう一度この「東京の世紀末の晴れの日の光景」をじっくり眺めてみたいものだ。
2011/07/16(土)(飯沢耕太郎)