artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

ダヤニータ・シン「ある写真家の冒険」

会期:2011/10/22~2011/12/18

資生堂ギャラリー[東京都]

インドの写真家といっても、なかなかくっきりとしたイメージは結ばない。情報の偏りというのは必ずあるもので、同じアジア地域でも中国、韓国など東アジアの写真家たちの展覧会はかなり開催されるようになったが、インド以西の国々となると、なかなか作品を見る機会がないのだ。その意味で、今回資生堂ギャラリーで開催されたダヤニータ・シンの個展は嬉しい驚きだった。
驚きというのは、このような写真家がインドにいるということ自体が、やや意外だったからだ。女性の写真家であり、しかもフォト・ジャーナリストとして出発していながら、近作になるにつれてむしろ主観的な作品世界を構築し始めている。むろん、1987~88年にアメリカ・ニューヨークのICP(国際写真センター)で写真を学んだという経歴と、その作風は無縁ではないだろう。彼女の出現が契機となって、インドの写真家たちが大きな刺激を受け、より多様な表現のあり方が生まれてくることが期待できそうだ。
今回の展示作品は「愛の家」と「ある写真家の冒険」。どちらも複数の写真を組み合わせて「物語」を浮かび上がらせようという試みだ。もっとも、単線的なストーリーではなく、写真同士の関係はかなり飛躍があって錯綜しており、簡単にその流れを読み解けるようなものではない。むしろ、あえて謎を謎のまま宙吊りにしていく構成にしているようだ。「ある写真家の冒険」は、写真家としての転機となった作品に註のようなテキストをつけて、「自伝」を編み上げていくシリーズだが、さらにふくらみを増して続いていく可能性を感じた。Steidel社から刊行されている何冊かの写真集、特にこれまた自伝的な内容の『SENT A LETTER』も面白かった。小さな屏風のように折りたたまれた紙に写真が印刷されていて、親密な私信の雰囲気が心地よく伝わってくる。

2011/11/09(水)(飯沢耕太郎)

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齋藤陽道『感動』

発行所:赤々舎

発行日:2011年11月1日

齋藤陽道の作品にはじめて出会ったのは2009年の写真新世紀の審査のときで、その「タイヤ」は僕が佳作に選んだ。走行中のトラックの巨大なタイヤを至近距離で撮影した素晴らしい迫力の作品で、どんな作者なのかと思っていたら、授賞式に現われた彼を見て驚いた。聾唖の写真家だったのだ。齋藤は次の年には「同類」で優秀賞(佐内正史選)に選ばれ、赤々舎からこの写真集『感動』を出すことになった。順調にキャリアを伸ばしているといえるだろう。
聾唖というハンディキャップについていえば、写真撮影においてはそれほど大きな傷害にはならないのかもしれない。むしろ、音のない世界で被写体に対する集中力を高めることができるからだ。福岡に井上孝治(1919~93)という写真家がいて、彼もやはり耳が不自由だった。だが、特に子どものスナップに天才的な能力を発揮し、『想い出の街』(河出書房新社、1989)、『こどものいた街』(同、2001)という心に残る写真集を刊行している。井上もそうなのだが、齋藤の写真を見ていると被写体になる人物や風景をつかみ取るときの強さと思いきりのよさを感じる。ためらいなく、すっとカメラを向け、ぐっと近くに引き寄せてシャッターを切る。その身体感覚の鋭敏さは、もしかすると聴覚障害者に特有のものなのかもしれないと思う。
この勢いと鮮度を保ちつつ、あの「タイヤ」のように、わけのわからない衝動に突き動かされた写真ももっと見てみたい。日本以外の国にもどんどん出かけてほしい。彼に対する期待がどんどん大きくふくらんできている。

2011/11/08(火)(飯沢耕太郎)

米田知子「Japanese House」

会期:2011/10/29~2011/12/03

シュウゴアーツ[東京都]

津田直の展示を見てから、hiromiyoshiiの一階下のシュウゴア─ツへ。米田知子の新作は、戦前の日本統治時代に建てられた台北の日本家屋を撮影している。これらの11点の作品は.2010年に台北で開催された「クアンデュ・ビエンナーレ」の出品作である。
蒋介石政権時代の参謀総長、王叔銘将軍の家、太平洋戦争終結時の総理大臣だった鈴木貫太郎の家、台北北部の北投温泉にあった日本家屋などの部屋の内部を、米田は大判カメラで細部まで舐めるように撮影している。これらの家々はすでに住む人がいなくなって打ち棄てられたり、台湾人が住みはじめて改装されたりして、かなり様相が変わってきている。だが建物の部屋の造りや装飾には、明らかに「Japanese House」としての名残りが、遺香のように漂っているのが見えてくる。その微妙な気配を捉えるため、米田は薄い皮膚をそっと引き剥がすように、部屋の表層の連なりを繊細な色調のプリントに置き換えていく。その「歴史の表層化」とでもいうべき作業によって、普通なら見過ごしてしまうような埃や染みや引っ掻き傷のようなものが、見る者の記憶とシンクロし、過去の時間に引き込んでいく重要な要素として浮上してくる。その微妙な手つきは、さらに洗練の度を増してきているように感じた。津田直の展示もそうなのだが、日本の写真家(写真を使うアーティスト)の隙のない細やかなインスタレーションは、ひとつのスタイルとして定着しつつあるのではないだろうか。

2011/11/02(水)(飯沢耕太郎)

津田直「REBORN “Tulkus’ Mountain(Scene1)”」

会期:2011/10/29~2011/11/26

hiromiyoshii[東京都]

清澄白河のhiromiyoshiiで開催された津田直の新作展。被写体になっているのは、ヒマラヤの仏教国ブータンの森と人々である。
以前の「SMOKE LINE」(2008)などでは、津田の作品を見るときの視線の運動は横方向への広がりが意識されていた。ところが今回のシリーズでは、森の樹木にしても、仏塔にしても、少年僧にしても、縦方向に垂直に伸びあがっていくように撮影されている。そのことによって、天から地へ、逆に地から天へというエネルギーの流れがはっきりと写り込んでいるように感じる。それがよく表われているのは、樹木と僧侶たちとを撮影した写真を5組、二段に重ねるように配置した展示のパートで、ここには明らかに樹木のたたずまいと僧侶たちのたたずまいに共通する要素を抽出しようという意図がうかがえる。このような照応関係は、入口近くに展示された赤い布を吊り下げたインスタレーションと、その対面に置かれた樹の枝から地面に垂れ下がるサルオガセの写真にも感じる。展示の全体に、人間と自然(植物)との、循環しつつ伸び広がっていく、緊密な関係の網の目が投影されているが、それこそが津田がブータンで見出しつつある「再生(REBORN)」の原理なのだろう。
もっとも、それは最初の段階にとどまっていて、まだまだこの先がありそうだ。Scene2、Scene3と回を重ねていくにつれて、その全体像が姿を現わしてくるのではないだろうか。

2011/11/02(水)(飯沢耕太郎)

横浜を撮る!捕る!獲る! 横浜プレビュウ

会期:2011/10/14~2011/11/06

新・港村(新港ピア)[神奈川県]

横浜トリエンナーレにあわせて新港ピアで開催されている「新・港村」。全国各地のアート関係のNPO法人、企業メセナ活動の組織、インディーズスクール、クリエーターたちの常設スタジオなどが、ところ狭しと建ち並び、ひっきりなしにパフォーマンスやダンスの公演、シンポジウムなどが開催されている。7月のスタート時にはまだ閑散とした雰囲気だったのだが、日が経つにつれてだいぶ賑やかになってきた。そのかなり広い会場のあちこちに写真が並んでいる。「新・港村」のクロージング企画として、11人の写真家が横浜を撮り下ろした作品を展示するという「横浜プレビュウ」の企画だ。
参加者は石内都、小山穂太郎、佐藤時啓、鈴木理策、中平卓馬、楢橋朝子、宮本隆司、森日出夫、山崎博、佐久間里美、三本松淳。中平のように「いつもの写真」を展示している者もいれば、三本松のようにスリット状の画像をブラインドのように吊るした新作のインスタレーションを試みる者もいる。佐藤や楢橋や宮本は手慣れた手法で横浜の目に馴染んだスポットを撮影し、鈴木や石内は身辺雑記的な日常のスナップを既成の空間に巧みに配置していた。モザイク状に入り組んだスペースの構造を逆に活かして、作品を会場に溶け込ませつつどう自己主張するのかが腕の見せ所なのだが、全体としてはかなりうまくいっていたのではないだろうか。
なお、有名写真家の顔見世興行的な「横浜プレビュウ」とは別に、東京藝術大学の在校生、卒業生たちの「TEAM それがすき」、BankART School飯沢耕太郎ゼミ有志による「チーム・いまゆら」、若手写真家のエグチマサル、藤本涼、横田大輔、吉田和生が合体した「MP1」など、いくつかの写真家グループが、やはり会場内でゲリラ的な展示を行なっていた。時には「横浜プレビュウ」の展示を食ってしまう作品もあり、カオス的な雰囲気がより強まっていた。

2011/10/28(金)(飯沢耕太郎)