artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

ホンマタカシ「between the books[Mushroom…]」

会期:2011/05/02~2011/05/15

LimArt[東京都]

ホンマタカシからの嬉しいプレゼント。東京オペラシティアートギャラリーの「ニュー・ドキュメンタリー」展(4月9日~6月26日)のカタログの巻末に掲載されていたきのこの写真を見て「これは!」と喜んでいたのだが、意外に早くLim Artでの展示が実現した。
僕らきのこフリークにとって、きのこの写真が掲載されている図鑑類はとても大事なアイテムだ。だが写真評論家として見れば、図鑑はあくまでも図鑑であり、たしかに生態的には正確に描写されてはいるが、表現としてのふくらみにおいては物足りない。写真作品としてのクオリティの高さと、きのこの生きものとしての魅力を両方とも満足させてくれるようなきのこ写真がないものかと、以前からずっと思っていたのだが、それが本当に実現した。ホンマタカシの手法は、まさにきのこたちの姿を繊細に描写したポートレートといえるだろう。白バックに一体ずつ精妙なアングルで捉えられ、土や枯れ草がついた根元の菌糸の部分にまでしっかりと目配りされた写真群は、実に愛らしく、しかも凛とした生命力にあふれている。僕にとってのホンマの最高傑作は、1990年代に『S&Mスナイパー』誌に連載された「Tokyo Willie」のシリーズだったのだが、ついにそれを超える作品が登場したといえるだろう。
展示にも工夫が凝らされている。「between the books[Mushroom…]」というタイトルは、アート関係の洋書古書店であるLim Artの本の間に、きのこの写真が並んだり挟み込まれていたりしている展示にぴったりしている。まさに「書棚のきのこ狩り」の気分を味わわせてくれるのだ。写真にはきのこのほかにトケイソウのような植物や山や森の風景も含まれている。それはそれで悪くはないのだが、わがままを言えば、今回はきのこだけに絞ってほしかった。

2011/05/08(日)(飯沢耕太郎)

松本典子『野兎の眼』

発行所:羽鳥書店

発行日:2011年4月15日

奈良県吉野郡天川村。まだ行ったことはないのだが、以前からずっと気になっていた。紀伊半島のほぼ中央に位置し、龍神信仰で知られる大峯山龍泉寺があるこの村は、その名の通り天から流れ落ちる水がゆるやかに巡って、森羅万象を生気づけているような場所なのではないかと思う。写真を撮影する条件はいろいろあるが、土地そのものが発するパワーを、どんな風に受けとめて投げ返すのかも大事なポイントになるのではないか。この天川村に住む少女を撮り続けた松本典子の写真集『野兎の眼』を見ながらそんなことを考えた。
松本は1997年頃、村の秋祭りで14歳の少女に出会った。その瞬間に「何か大きなものにつながっている」気がして、思わず「10年間写真を撮らせて」と話しかけていたのだという。彼女の両親が東京から天川村に移り住んでいたこともあって、それから帰省するたびに待ち合わせて、年に1~2回くらいのペースで彼女を撮影し続けていった。まだ幼さが残っていた少女はみるみるうちに成長し、妖艶な大人の女性になり、結婚し女の子を産む。その10年間のめまぐるしい変化とともに、おそらく千年、二千年といった単位でゆるやかに移り動いていく森や大地や海のたたずまいが対比的に捉えられている。とはいえ、少女も自然もどっしりと安定しているのではなく、微かに震えながら明滅を繰り返しているような「生きもの」として見えてくることには変わりはない。写真集を見た後もその余韻は続いていて、なんだか舟旅を終えた後のように、体に揺らぎが残っている気がしてくる。たしかに「10年」という区切りはつき、写真集も見事に仕上がったのだが、まだここで完結したという感じがしないのだ。少女とその娘の行く末を見つめ続けることで、さらなる「天川サーガ」を編み上げることはできないのだろうか。

2011/04/30(土)(飯沢耕太郎)

市川孝典「FLOWERS」

会期:2011/04/28~2011/05/29

NADiff Gallery[東京都]

特異な才能というべきだろう。市川孝典はまさに「写真脳」の持ち主だ。たしかに、一度目にした場面を、そのままカメラのシャッターを押すように記憶することができる者がごく稀にいる。だが彼のように、幼年時代にまでさかのぼって、視覚的記憶をありありと再現できるというのは驚異的としかいいようがない。しかも、それらは「ふとしたときに勝手に甦る」のだという。それを何カ月もかけて「紙に映る」ところまで育てあげ、画像として定着していく。その画像再現のプロセスもまた、きわめて特異なものだ。彼が考案した「線香画」は、これまた誰にも真似ができないものだろう。「60種類の線香を、温度や太さなどで使い分け、一切の下書きなしに少しずつ紙を焦がしながら絵を描いて」いくのだ。微妙な陰翳を持つ焼け焦げによって形づくられるイメージは、やはりどこか写真を思わせるところがある。まったく寸分の狂いがない画像を、何枚でも「線香画」に仕立て上げることが可能なのだ。脳と身体が直結して、そのままカメラと化しているわけで、こんなアーティストは僕が知る限り前代未聞だと思う。
今回のNADiff Galleryの展示でも、その超絶技巧を充分に堪能することができた。こういった特異な集中力の持ち主は、脳に障害をかかえている場合が多く、それを自分でコントロールするのは難しくなる。だが市川の場合、衝動に身をまかせきっているわけではなく、一面ではかなり冷静に手順を追って自分の作品を完成させていくことができる。今回は、花や蝶の輪郭をくっきりと描き出した「わかりやすい」作品だけではなく、どこか不気味な抽象画のような場面の作品も展示していた。聞けば、それは脳内に再現される記憶がまだぼんやりとしている段階で形にしたものなのだという。そんなこともできるのかと驚くしかないが、それでも彼の能力がまだ完全に開花しきっているようには見えない。もし彼がこのまま表現者として成長し続けていけば、いったいどんな怪物じみた作品が出現してくるのか。途方もない可能性を秘めた才能だと思う。
なお、東京都現代美術館内のWall Gallery/NADiff contemporaryでも、6×3メートルという彼の大作「merry-go-round」が展示されていた(4月6日~5月8日)。こちらも凄いとしかいいようがない。

2011/04/29(金)(飯沢耕太郎)

石井孝典「Nio ヤドリの石」

会期:2011/04/13~2011/05/28

TRAUMARIS SPACE[東京都]

NADiff Galleryの上のTRAUMARIS SPACEでは、石井孝典の個展が開催されていた。石井孝典の母方の祖母が暮らしていた香川県三豊郡仁尾町(現三豊市)の古い家を、6×6判のカメラで撮影したシリーズである。
石井孝典は小説家のいしいしんじの実弟であり、この仁尾の家についてはいしいの「小四国」(『熊にみえて熊じゃない』マガジンハウス、2010年所収)というエッセイに以下のように描写されている。
「それは広大な屋敷で、土蔵が二棟建ち、昔綿羊を飼っていたという菜園、日本庭園がふたつあり、昔の田舎屋敷がどこもそうであるように、家のなかでまだ足を踏み入れたことのない部屋が土間の向うや向い屋敷の奥にいくつもあった。昼間は海やすいかや鱚やでそこらじゅう喧しいが、夜は便所までの長い回廊が子ども心におそろしく、半透明に浮きあがるなにかの影を石灯籠や古いガラス面の上に幾度も見たとおもった。綿羊がいた菜園に、母の記憶によると戦前には象がいた」
石井孝典がここ10年ほどかけて、何度も通い詰めて撮影したという土蔵のある「広大な屋敷」の写真群を見ると、まさにこのいしいしんじの記述の通りの眺めで、その中に誘い込まれ、吸い込まれていくように感じた。庭のあちこちに石やら壷やら瓶やらが転がっていって、それらが大地から生え出しているように見えるのが実に興味深い。まさにアニミスムの生気に満たされた空間であり、屋敷そのものが神寂びた生き物のようにうごめき、いまなお不可思議な気配を発しているのだ。この屋敷を横糸に、それにまつわる家族の歴史を縦糸にして、さらに複雑な絵模様の写真シリーズを織り上げていけそうな気もする。

2011/04/28(木)(飯沢耕太郎)

原田晋「The Ghost」

会期:2011/04/16~2011/05/07

art & river bank[東京都]

本展のキュレーションを担当した友岡あゆ子が、リーフレットに東日本大震災後にテレビで放映され続けた被災地の映像について書いている。最初の頃は衝撃的な映像に心を痛めていたのだが、次第に見続けることに疲労感を覚えていく。「繰り返し放送されることで、実際に被災していない人が精神的なダメージを受けてしまう」ということも起こってくる。たしかに、日々とめどなくテレビの画面から送り届けられる映像に晒され続けていると、心身が麻痺状態に陥っていくように感じる。それはたしかに、さまざまな刺激を与えてくれるよくできたスペクタクルなのだが、反面あらゆる情報が寸断され、等価値に並べ替えられてしまうということでもある。現実感の喪失や無感動状態、また逆に過剰反応による「精神的なダメージ」が、そこから生じてくるのだ。
原田晋が2002年の初個展「window-scape...face」(Space Kobo & Tomo)以来ずっと試みてきたのは、この垂れ流し状態のテレビの画面を写真で撮影することで「逆操作」しようとする試みだった。動画が静止画像に変換され、さらにコラージュ的に再構成されることで、テレビを見ている時には気がつかなかった、映像そのものの無意識や身体性のようなものが浮かび上がってくる。その「逆操作」の手つきは、個展の開催を積み重ねることで、より洗練されたものになっていった。今回の5台のテレビモニターで作品を上映する「Ghost」では、画面の切り替えの速度をコントロールすることで、むしろ麻痺状態や「精神的ダメージ」を強化してしまうようなインスタレーションが設定されている。ただ、ザッピングされている映像がおおむね美しく穏当なものなので、その試みがまだ中途半端に終わっていることが惜しまれる。映像の強度をもっと上げて、観客に暴力的な揺さぶりを掛けるような仕掛けを、本気でつくってみてはどうだろうか。

2011/04/27(水)(飯沢耕太郎)