artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

直江沙季「どんづまる」

会期:2011/05/17~2011/05/29

GALLERY SHUHARI[東京都]

DMの写真と「どんづまる」というタイトルを見て、これは面白そうだと思って出かけてきた。インフォメーションにどの写真を使うのか、展覧会のタイトルをどうするのかというのはけっこう重要な問題なのだが、割にいいかげんに決めてしまうことが多い。大事なことなので、充分に留意すべきではないかと思う。
展示の内容はほぼ予想通り。まさに道が行き止まりになって「どんづまる」状況を丹念に採集した写真が30枚ほど並んでいた。このようなコンセプト先行の作品の場合、まずはそのコンセプトをどれだけきちんと成立させているかが問われてくる。直江のこの作品についていえば、カメラの位置、アングル、道とその行き止まりのスペースとの関係、薄曇りの光の条件などがしっかりとそろっていて、ほとんどブレがない。そのことによって、シリーズとしての完成度はかなり高いものになっていた。
ただある程度枚数がそろってくると、それから先が問題になる。次はちまちまとしたアパートが建ち並んでいるような、路地裏の行き止まりの場所を見つけては撮影していく行為が、さらに何かを生み出していく契機になっていくのかどうかが問われてくるだろう。現在の日本の都市の住環境について何かが見えてくるのか、それとももっと個人的な美学に収束していくのか。まだ先は長そうだが、この試みを続けていくことで、新たな発見や認識に結びついていくことを期待したい。

2011/05/24(火)(飯沢耕太郎)

大和田良「FORM」

会期:2011/05/21~2011/07/13

大宮盆栽美術館[埼玉県]

初夏の暑い日差しの日、埼玉県・土呂の大宮盆栽美術館に出かけてきた。大和田良が盆栽を撮影した「FORM」展のオープニングがあったためだが、大宮周辺に「盆栽村」ができていることをはじめて知った。盆栽というものもはじめてきちんと見ることができたのだが、けっこう面白かった。盆栽はいわば自然のミニチュア版といえるだろう。松や真柏のような樹木が、そのままスケールを縮小して盆の上に再現される。その意味では、盆栽は立体化した写真といえなくはない。全体を見ればリアルだが、細部を見れば現実とはかなり異なっているという意味でも、写真と似ているのではないだろうか。
大和田良がやろうとしているのは、いわばその盆栽の「写真的な」あり方を踏まえつつ、再構築するという興味深い試みだった。デジタルカメラによって盆栽の細部のフォルムが精密に捉えられるとともに、やや角度を変えて撮影した画像を「スティッチング」の技術によってコラージュ的につなげるという実験も試みている。このような取組みは、緒についたばかりであり、まだ完成されているようには見えない。だが、盆栽のような日本の伝統文化に着目することは、これから先実り多い成果を生んでいくのではないだろうか。少なくとも、盆栽が本来備えている妖しくも美しい人工美の極致は、写真にはとても相性がいいのではないかと思う。このシリーズをさらに推し進めていくと、写真を通じて日本人に特有の細やかな美意識が浮かび上がってきそうな気もする。
なお、展覧会にあわせて渓水社から『FORM Scenery Seen Through Bonsai』が刊行されている。端正なデザイン、しっかりした造本の完成度の高い写真集である。

2011/05/20(金)(飯沢耕太郎)

写真の地層展

会期:2011/05/18~2011/05/22

世田谷美術館 区民ギャラリーB[東京都]

「写真の地層」展は1990年代から東京綜合写真専門学校の卒業生、関係者によって、世田谷美術館区民ギャラリーで開催されているグループ展。いつのまにか13回目を迎えた。今回の参加者は青木由希子、福田タケシ、五井毅彦、飯田鉄、岩岸修一、加地木ノ実、加地豊、小松浩子、桑原敏郎、鳴島千文、松本晃弘、三橋郁夫、森敏明、本橋松二、村松アメリ、大槻智也、佐々木和、笹谷高弘、田口芳正、谷口雅、寺田忍、潮田文である。ほぼ毎年開催されているのだが、ごくたまにしか見に行くことができない。だが行くたびに「変わりがないな」という感想を抱く。彼らが学生だった頃、また卒業して作品を発表し始めたのは1970~80年代なのだが、そのまま時が止まったような写真が並んでいるのだ。
ひと言でいえば彼らの基本的なスタイルは、「作品」としての完結性の否定ということだろう。写真家が「決定的瞬間」を求めてシャッターを切ることでできあがってくるような写真のあり方を解体することで、あまり意図することなく連続的にシャッターを切ったような写真が並ぶことになる。そのなんとも曖昧な、脱力したようなたたずまいは30年前にはかなり魅力的だった。では、いまはどうかといえば、意外なことにしぶとく輝きを放っているように感じた。さすがにデジタルプリントが多くなってきているのだが、そのなかで小松浩子の現像液の饐えた匂いが漂ってくるロールペーパーの風景や、桑原敏郎の微妙にアングルを変えて連続的にシャッターを切った写真を、隣の壁にはみ出すように増殖させる試みなどが、妙に新鮮なものに感じる。美術館やギャラリーでの写真作品の展示の多くが、一点集中型のタブローと化している現在、逆に作品主義を徹底的に否定し続ける彼らの「変わりのなさ」が貴重に思えてくるのだ。ただ、このままでは「やり続ける」だけで終わりかねない。蓄積された経験や技を、次の世代にうまく引き継ぐことはできないだろうか。

2011/05/19(木)(飯沢耕太郎)

森山大道「Record No.19 -Toscana-」

会期:2011/04/22~2011/05/29

BLD GALLERY[東京都]

森山大道の『記録』のシリーズがいつのまにか19冊目になっていることにちょっと驚いた。『記録』はその時々に偶発的に彼の前にあらわれてくる事象を、拾い集めるようにして撮影していくスナップショットのシリーズで、1972~73年に1~5号を刊行し、その後、長い間をおいて2006年の第6号から再び定期的に刊行されるようになった。ほぼ季刊のペースで既に10冊以上が刊行されており、最新刊が2011年4月に出た第19号である。その出版にあわせて、東京・銀座のBLD GALLERYでは個展も開催された。
森山にとってこのような小出版物は、自分の立ち位置を確認するとともに、大きな仕事への力を蓄えるウォーミングアップの意味を兼ねているのだろう。だがそれ以上に、自分の好きなものをさっと形にしていくこういう作業にこそ、このたぐいまれな嗅覚と動体視力を備えた天性のスナップシューターの力量が、はっきりとあらわれてくるともいえる。今回の「Toscana」のシリーズも、リラックスした雰囲気のなかに、締めるべきところはきりりと締めた見事な出来栄えである。
2010年9月、イタリアのモデナで開催された400点以上の自選作品による大回顧展のときに、モデナと「半日余りカメラを手に、あちこちの街区を撮り歩いた」フィレンツェで撮影したスナップを集成したものだが、街を覆っている装飾的な表層(ポスター、看板、仮面、建築物の外壁など)の処理が実に颯爽としていて決まっている。森山の写真のグラフィカルな魅力がよく発揮されているシリーズといえるだろう。そんな街並を縫うように、これまた颯爽と闊歩しているセクシーな「オネエサンたち」、そのかっこよさに口笛の一つも吹きたくなってくる。

2011/05/18(水)(飯沢耕太郎)

浜田涼「PLATFORM 2011 距離をはかる」

会期:2011/04/16~2011/05/29

練馬区立美術館[東京都]

「現代美術で考え、現代美術を実感する場」として昨年から東京・中村橋の練馬区立美術館で企画・開催されている「PLATFORM」のシリーズ。今年は浜田涼、小林耕平、鮫島大輔の3人がそれぞれ個展を開催した。昨年の寺田真由美に続いて、今年も写真を使う浜田涼が選ばれているのが嬉しい。
浜田は1990年代から、基本的にピンぼけの写真の作品を発表してきた。ボケたり、ブレたりする写真を作品に取り入れる写真家はかなりたくさんいる。だがその多くは、光量が不足していたり、被写体が動いたりすることでたまたまできあがった写真であり、浜田のように「意図的に」その効果を用いている作家はあまりいないのではないだろうか。つまり、彼女はむしろ「日常生活はいろんなものの端っこが混じり合いぼんやりとして曖昧なものだらけで出来ている」という認識を作品化して証明するために、ピンぼけの効果を徹底して利用しているわけで、その作品は一貫したコンセプトに基づいている。「写真家」の仕事としてみるとやや物足りなさを感じてしまうのはそのためかもしれない。写り込んでいる被写体のあり方に鋭敏に反応するよりは、「図柄」としての視覚的効果を重視しているように見えてしまうのだ。浜田の作品は写真をメディウムとして使用してはいるが、やはり「画家」の仕事といえるだろう。
ただ、身近な人物の顔が写ったスナップ写真を素材にした「大切な人の写真を持っていますか? その写真の表情以外に、その人の顔を思い出せますか?」(2001年)という長いタイトルのインスタレーションには、ほかの作品とは違った可能性を感じる。素材になっている写真群と浜田自身との間の「距離」を、より生々しく実感できるからだ。この方向に展開していく仕事を、もう少し見てみたい気がする。

2011/05/14(土)(飯沢耕太郎)

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