artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

澄毅「光」

会期:2011/04/22~2011/04/28

Port Gallery T[大阪府]

その「写真新世紀大阪展」で佳作入賞者として作品が展示された澄毅(すみ・たけし)の個展が、大阪・京町堀のPort Gallery Tで開催されていたのでそちらも見てきた。
「光」と題されたシリーズは、A0の大判サイズのプリント2点とA1サイズのプリント15点で、壁にピンで止められている。澄の呉市在住の祖父は戦艦大和の建造にもたずさわった技術者で、広島の原爆投下も目撃しているのだという。その祖父の写真アルバムに貼られた写真を複写して画用紙にプリントし、被写体の輪郭をなぞるように小さな穴をたくさんあける。その裏側から光をあてて、それが白っぽい点の集合として見えてくる様を撮影した写真が、このシリーズの骨格を形成している。古い写真が現実の光に晒されることで、あらたな生命力を得て再生しているといえるだろう。さらに澄自身の身辺を撮影した写真を合わせることで、過去と現在、記憶と現実とが混じり合い、溶け合うような効果が生じる。同じテーマで制作された映像作品(約8分)も含めて、よく練り上げられたコンセプトがきちんと形になったいい作品だと思う。
ただ、会場のインスタレーションにはもう一工夫必要だろう。A1サイズのプリントは、大きさや展示の仕方がやや中途半端に感じる。もう一回り小さなサイズにするなど、アルバムのページをめくっていくような親密な雰囲気を大事にした方がいいと思う。

2011/04/23(土)(飯沢耕太郎)

写真新世紀大阪展 2011

会期:2011/04/05~2011/04/27

アートコートギャラリー[大阪府]

東日本大震災を経ることで、作品の見え方が変わってくることがある。2010年度の「写真新世紀展」は昨年11月に東京都写真美術館で開催され、優秀賞に選ばれた齋藤陽道、佐藤華連、柴田寿美、高木考一、谷口育美のなかから、佐藤華連の「だっぴがら」がグランプリを受賞した。その時の展示はむろん見ているのだが、それが大阪市・天満橋のアートコートギャラリーに巡回したのをあらためて見て、特に齋藤陽道の作品「同類」の印象が違ってきていることに気づいたのだ。
齋藤は彼自身が聾唖のハンディを負っており、作品のなかにも障害を持つ人たちが登場してくることが多い。波打ち際に置き忘れられたように写っている車椅子に、裸の赤ん坊がぽつんと座っている写真などもあり、人間の存在の寄る辺のなさ、にもかかわらずいきいきと輝きを増す生命力を捉えようとしているのがわかる。作品に寄せたコメントに「大きな連なりの流れのなかにいる、ひとつのものたち。その意味においてすべては同類だ」とあったが、自分を含めて連綿とつながっていく命の流れを、肯定的に実感しつつ写真を撮っているのだろう。単純に明るい写真というだけではなく、ほの暗い闇の部分にもきちんと目配りができている彼の作品世界の広がりが、震災後のいま、切実に胸に迫ってくるように感じた。赤々舎から写真集の出版が決まったという話も伝わってきた。それもとても楽しみだ。

2011/04/23(土)(飯沢耕太郎)

海沼武史「八人の王が眠りに就く処」

会期:2011/04/07~2011/04/30

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

作家本人のプロデュースで会期中に「アイヌ音楽ライブコンサート」が開催されるということもあり、写真を見て最初は北海道の風景なのかと思った。そこに写っている、ゆったりとした丘陵地帯のたたずまいが、いかにもそれらしく感じたのだ。だが、聞けば撮影場所は海沼武史が住む八王子周辺だという。それで、この不思議な響きのタイトルの意味もわかった。「八人の王」というのは八王子から来ていたのだ。
その「八人の王」=八王子は、いま眠りに就こうとしている。太陽が沈み、黄昏時の紫がかった大気があたりを包み込み、家々の明かりが点灯され、空には星が瞬きはじめる。その移り行く時間を細やかに定着した写真群を眺めていると、そこに写っているのが現在の都市化された八王子ではなく、いわば太古の昔の風景であるように感じる。起伏のある地形が、より剥き出しのままあらわにされているようなその眺めは、安らぎとともにどこか怖さも感じさせるものだ。海沼がもくろんでいるのは、そんな始源的な風景のあり方を、黄昏時の光の魔術的な効果を利用しつつ、丁寧に写しとっていくことなのだろう。
1962年生まれの海沼は1996年に渡米し、帰国までの9年間、ニューヨークを中心にスピリチュアルな風景写真を発表してきた。その緻密な観察力、広がりを持つ作品の構想力が、いま大きく開花しつつある。

2011/04/20(水)(飯沢耕太郎)

本橋成一『屠場』

発行所:平凡社

発行日:2011年3月25日

牧場で草を食む牛の姿はよく目につく。肉屋の店先にグラム単位で並んでいる肉もすぐに目に入ってくる。だが、その間に位置するはずの屠場(食肉処理場)がどんな場所なのかはほとんど知られていない。賭場を撮影した写真や映像を発表するのがとても難しいからだ。
牛の眉間に鉄棒が飛び出るピストルを撃ち込み、昏倒させる。巨体をトロリーコンベアで吊るして血抜きした後、ナイフ一本で全身の皮を剥いていく。その後、部位によって内臓と肉に分離され、加工されていく過程はまさに熟練の職人技そのものだ。たしかに見方によっては残酷きわまりない場面の連続かもしれないが、職人たちは自分の技に誇りを抱き、その向上ぶりを競い合っている。本橋成一が、1980年代から大阪・松原の屠場に通い詰めて撮影した写真をまとめた本書のページを繰ると、この職場が人間味のある職人たちによって支えられる、熱気あふれる場所であることがよくわかる。
これまで屠場の写真を表に出すことができなかったのは、いうまでもなくそれが部落差別の問題と深くかかわっているからだ。食肉の加工は長く被差別部落民の専業であり、明治以後も隠微な形で職業的な差別が続いてきた。肉を穢れと見る仏教的な不浄観もそれを助長したのではないかと思う。そのことが、たとえ賭場の人たちの許可をきちんと得て撮影した写真であっても、展示や印刷媒体への掲載をためらわせる過剰反応を生んできたのだ。だが、時代は変わりつつある。見ないように、見えないように隠すことが、逆に差別意識を温存することにつながることがわかってきた。この写真集の刊行もその流れに沿うものといえるだろう。
写真を見ていると、屠場そのもののたたずまいが大きく変わってきていることがわかる。巨大な肉の塊が物質としての強烈な存在感を発する様が、コントラストの強いモノクロームの画像でくっきりと浮かび上がってくる。現在の「工場」と化した食肉処理場では、もう見ることができない光景だ。

2011/04/18(月)(飯沢耕太郎)

川島小鳥『未来ちゃん』

発行所:ナナロク社

発行日:2011年4月1日

まさに「お待たせしました!」という写真集。僕は昨年4月のテルメギャラリーでの松岡一哲との二人展の頃からずっと注目していたし、一般的には『BRUTUS』(2011年12月15日発売号)の写真特集の表紙で「ぶっ飛んだ」のではないだろうか。刊行がこれだけ待ち望まれていた写真集は、このところあまり記憶にない。本格的な写真集の刊行前に、講談社出版文化賞を受賞したというのも前代未聞ではないだろうか。
写真にとって被写体は絶対的とはいえないが、相当に重要な要素であることは間違いない。この写真集の場合、主人公である新潟県佐渡島の女の子「未来ちゃん」の天衣無縫な野生児ぶりはめざましいものがある。体を一杯使って走り回り、転げ回り、青洟を垂らしながら泣き笑うその姿を見ているだけで、心のなかに温もりが広がるような愉しさを感じる。ただ被写体がいくらよくても、それをきちんと受けとめて作品化する技と力が必要なわけで、1980年生まれの川島小鳥にはそれがしっかりと備わっているということだろう。もう既に大ブレイクの兆しが見えているので、このままどんどん突っ走ってもらいたい。また祖父江慎による写真集の装丁・デザインもさすがというしかない。横位置の写真を上下に重ねるレイアウトを採用したことで、写真の勢いが加速しているように感じる。ページをめくっていく速度が、写真が目の前にあらわれてくるリズムとぴったりシンクロすると、解放感に包まれ、思わず笑いがこぼれてしまう。
なお写真集の刊行にあわせて、東京・渋谷のパルコファクトリーで写真展が開催された(2011年4月8日~24日)。こちらは展示されている写真の数が250点余りに増え、「未来ちゃん」のパリ旅行時のスナップも入っている。悪くないが、大小の写真の散りばめ方がややうるさ過ぎたのではないだろうか。写真集の方が、すっきりと目に馴染んでくるように感じる。

2011/04/08(金)(飯沢耕太郎)