artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史 四国・九州・沖縄編
会期:2011/03/08~2011/05/08
東京都写真美術館 2F展示室[東京都]
日本写真史の「夜明けまえ」、幕末から明治初期の状況を検証しようという「知られざる日本写真開拓史」のシリーズも、関東編(2007年)、中部・近畿・中国地方編(2009年)に続き、今回の四国・九州・沖縄編で3回目になる。薩摩藩主・島津斉彬と家臣たちによる先駆的なダゲレオタイプの研究(1857年)、長崎の上野彦馬による写真館開業(1862年)など、この地方は日本の写真発祥の地のひとつと言ってよい。今回の展示でも、なかなか面白い写真資料が集まっていた。
例えば、長崎大学附属図書館が所蔵する全3冊の「ボードイン・アルバム」。長崎養生所(医学伝習所の後身)で教官をつとめていたアントニウス・F・ボードインと、弟の駐日オランダ領事アルフォンス・ボードインが蒐集した写真を中心に貼り付けたもので、フェリーチェ・ベアトが撮影した「占拠された長州藩前田御茶屋低台場」(1864年)など、貴重な写真、イラストが含まれている。普通このようなアルバムの展示では、開いたページだけしか閲覧できないのだが、複写した全画像を壁面にプロジェクションして、他のページも見ることができるようになっていた。ほかにも名刺判肖像写真の台紙裏のデータを読み取れるように、アクリルケースに立てて展示するなど、全体的に見やすくする工夫が凝らされている。普通の観客は古写真にはあまり馴染みがないので、このような細やかな配慮は大切ではないかと思う。
次回は東北・北海道編の予定だが、さらに幕末・明治初期の日本写真の全体像を浮かび上がらせる総集編も視野に入れていかなければならないのではないだろうか。
2011/03/07(月)(飯沢耕太郎)
鬼海弘雄『アナトリア』
発行所:クレヴィス
発行日:2011年1月25日
鬼海弘雄はこれまで3つのシリーズを並行して制作してきた。ひとつは浅草雷門に群れ集う異形の人びとを撮影した「浅草のポートレート」、もうひとつは『東京夢譚』(草思社、2007)に代表される建物や街並みの記録である。これらが東京周辺で6×6判の中判カメラで撮影されているのに対して、35ミリ判のカメラで撮影されたスナップショットのシリーズもある。撮影場所は1980年代~90年代にかけてはインドで、写真集『インディア』(みすず書房、1992)にまとめられた。今回の『アナトリア』はその続編というべきもので、1994年から2009年までの間に6度にわたってトルコを訪れて撮影したものだ。
鬼海が好んで歩きまわったのは、トルコのアジア側、アナトリア半島の街々である。小アジアともいわれるこの地域は、紀元前から古代文明が栄えた土地だったが、いまは近代化から完全に取り残され、素朴な暮らしぶりが残っている。あとがきにも記されているように、鬼海の生まれ故郷である山形県西村山郡醍醐村(現寒河江市)の、戦後すぐくらいの情景を髣髴とさせるところがあるようだ。だが彼がめざしているのは、そのようなノスタルジアを喚起することではない。写真家としての彼の興味は、岩山に囲まれ、真冬には凍てつくような寒さになる荒涼とした大地に根ざすように生きる人びとの、不思議に懐かしい表情や身振りに集中している。鍛え抜かれた、なめらかで正確なスナップショットの技術によって捉えられた人びとは、地方性や時代性を越えた「普遍的な」姿として定着されているように思える。人間という存在の基本型とは何かという長年にわたる探求の、見事な成果がそこにはある。思わず「うん、これだよね」と深くうなずきたくなる写真集だ。
2011/03/06(日)(飯沢耕太郎)
鷹野隆大『カスババ』
発行所:大和プレス(発売:アートイット)
発行日:2011年1月1日
「カスババ」とは「カス婆」ではなく「滓のような場所」の略だという。その複数形なので「カスババ」。この国に暮らしていれば、誰でも日々出会っている「あまりにも当たり前で、どうしようもなく退屈な場所」ということだ。分厚い写真集には、たしかにそのような身もふたもない場所の写真が170枚もおさめられている。なんの変哲もないビル、無秩序に幅を利かせる看板類、どうしようもなく直立する電柱や信号機、自動車やバイクや自転車がわが物顔に路上を行き交い、どこからともなく通行人が湧き出しては、不意にカメラの前に飛び出してくる。撮影場所は作者の鷹野隆大が住んでいる東京が多いが、広島や仙台や沖縄の那覇のような地方都市もある。もっとも、とりたてて地方性が強調されているわけではなく、沖縄と東京の写真が並んでいてもほとんど見分けがつかない。
いったいこんな「カスババ」だけを集めて写真集が成立するのかと思う人もいるだろうが、ページをめくるうちに不思議な興奮を抑えられなくなってくる。
面白いのだ。写真を見ていると、たしかにこのとりとめのなさ、つまらなさこそが、奇妙な輝きを発していることに気がつく。それは撮影者の鷹野も同じように感じているようで、あとがきに「明確な憎しみの対象として、踏みつぶすように撮り続けて来たのだが、長年付き合ううちに、いつのまにか『嫌な嫌なイイ感じ』へと変化してしまった」と書いている。
どうしてそんな魔法じみた「変化」が起きてしまうかといえば、それは鷹野が「カスババ」を撮影する態度にかかっている気がする。「踏みつぶすように」と書いているが、悪意をあらわに乱暴に被写体に向かうのではなく、かといっておざなりにでもなく、いわば「平静な放心状態」を保つことで、街や人がそこにあるがままに呼び込まれているのだ。「滓のような場所」がまさに「滓のような場所」として見えてくることを、1カット1カット、シャッターを切るごとに、歓びを抑え切れず確認しているようでもある。もしかすると、「嫌な嫌なイイ感じ」というのは、日本の都市風景に対するわれわれのベーシックな感情なのではないかという気もしてくる。
2011/03/05(土)(飯沢耕太郎)
サンネ・サンネス SANNE SANNES
会期:2011/03/01~2011/03/13
リムアート[東京都]
まず「こんな写真家がいたのか!」という驚きがある。サンネ・サンネスは1937年、オランダ・グローニンゲン生まれ。1959年頃から写真家として活動し始め、雑誌等に寄稿するほか、写真集『Oog om Oog(An eye for an eye)』(1964)とテレビのために制作された映画『Dirty Girl』(1966)を発表して注目を集めた。だが、1967年に30歳の誕生日を迎えた4日後に交通事故で急死し、その後はほぼ忘れられた存在になっていた。今回のリムアートでの展示は、彼の1960年代のヴィンテージ・プリント27点によるもので、もちろん日本では初公開になる。
テーマになっているのは、ほとんどが女性のヌード。ブレ、ボケ、クローズアップ、粒子の荒れ、大胆な光と闇のコントラストなどは、この時代の写真における「怒れる若者たち」に特徴的な表現で、やや年上のエド・ファン・デル・エルスケンやウィリアム・クライン、さらにはほぼ同世代の森山大道や中平卓馬などとも共通するものがある。だが、これらの写真家とサンネスが決定的に異なっているのは、彼が他の主題には目もくれず、あくまでも「性欲に対する感情の喚起“eroticism”」にこだわり続けていることだろう。しかも、男性が女性に付与したエロティシズムというよりは、女性のなかにもともと内在するそれを引き出そうと、全身全霊で取り組んでいるように見える。結果として、彼の写真はロマンティシズムとリアリズム、性への憧れと畏れ、エクスタシーと苦痛とが激しく衝突し、入り混じり、溶け合うような異様な緊張感に満たされている。このような「実存的」な質を備えたヌード写真は他にあまり例を見ないのではないだろうか。
サンネスはきわめて内気な男だったが、カメラを手にするとサディストに変貌したのだという。また、女友達の回想によれば、彼は生涯女性と性交渉ができなかった。その複雑な人格と、あまりにも短い生涯が、彼の写真に奇妙に歪んだ彩りを添えている。なお展覧会にあわせて、500部限定の写真集『SANNE SANNES』がリムアートとオランダのKahmann Galleryとの共同出版で刊行された。
2011/03/04(金)(飯沢耕太郎)
春木麻衣子「photographs, whatever they are」
会期:2011/02/26~2011/05/08
1223現代絵画[東京都]
春木麻衣子は2010年5月~6月のTARO NASUでの個展「possibility in portraiture」から、それまでの風景中心の作品に加えて「ポートレート」を取り込んだ作品を発表するようになった。といっても、画面のほとんどが白、あるいは黒で占められている彼女の作品において、人間のイメージはそれほど大きく扱われてはいない。だが「ポートレート」という主題の導入によって、抽象度の高い彼女の作品に観客がアプローチしやすくなったことはたしかだ。
今回の展示には、ニューヨークのアメリカ自然史博物館のジオラマとそれを見る観客を題材にした「neither portrait nor landscape」(2010)をはじめとして、いくつかのシリーズが含まれているが、注目すべきは新作の「selfish portrait to you and me and others」(2011)だろう。白いガラス入りのフレームのようなもので画面が大きく区切られ、その表面に「you and me and others」の姿が映り込んでいる様子を撮影している。つまり、この作品は作家のセルフポートレートでもあるということで、これは新しい展開だと思う。「あなた─私─他者」との関係のあり方を、さまざまな形で確認していくきっかけになるのではないだろうか。
もうひとつ興味深いのは、春木の黒を基調とした作品を眺めていると、フレームのガラスに自分の顔が映っていることに気がつくことがあることだ。つまり「あなた─私─他者」の関係項のなかに「観客」も包含されてしまうということで、そのことをより強く意識すれば、さらに面白い作品が生まれてきそうな気がする。
2011/03/03(木)(飯沢耕太郎)