artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

尾形一郎/尾形優「ナミビア:室内の砂丘」

会期:2011/05/30~2011/06/11

[東京都]

会場:ギャラリーせいほうときの忘れもの
尾形一郎、尾形優が共作した『HOUSE』(FOIL、2009)は、ギリシアの鳩小屋、沖縄の「構成主義」的なビル、メキシコの「ウルトラバロック」様式の教会など、世界各地のヴァナキュラーな建築物を独自の視点でとらえ直した刺激的な写真集だった。そのなかで、最も異彩を放っていた「ナミビア:室内の砂丘」シリーズの展覧会が、東京・銀座のギャラリーせいほうと、南青山のときの忘れもので同時に実現した。ギャラリーせいほうには「大作7点」が、ときの忘れものには「20点組の初のポートフォリオ」が展示されている。
2006年にアフリカ大陸南部のナミビアの砂漠地帯で撮影されたこのシリーズの被写体は、約100年前のダイヤモンド・ラッシュの時に入植したドイツ人たちが住みついた建物である。それらは、当時流行していたゼツェッシオン様式でつくられているが、その後見捨てられて空き家になり、部屋の中まで砂が入り込んできている。その自然と人工物がせめぎあう眺めが、なんともシュールなのが興味深い。展覧会に寄せたコメントで、自身建築家でもある二人が「建築という方法で、どこまで人の心の深層や無意識の領域が表現できるか」と書いているが、まさにその設定にぴったりの被写体といえるだろう。家を建てたドイツ人にも、それを撮影した二人にも、また写真を見るわれわれ観客にも、まったく予想もつかなかった光景がそこに広がっていて、見ていると「こんな場所が本当にあるのか」と、どことなく宙にさらわれるような気分になってくる。作品のフレーミングや配置も、さすがに建築家らしく細部までしっかりと整えられていた。

2011/06/02(木)(飯沢耕太郎)

山本真人「The messy room」

会期:2011/05/23~2011/06/04

表参道画廊[東京都]

毎年5月末から6月初めの時期に、日本写真協会が主催して開催される「東京写真月間」。富士フイルムフォトサロンの「日本写真協会賞受賞作品展」(5月27日~6月2日)をはじめとして多彩な行事が行なわれるが、都内のギャラリーでも関連した展覧会が企画されている。渋谷区神宮前の表参道画廊では、東京国立近代美術館の増田玲の企画で山本真人の個展が開催された。山本の展示を見るのは初めてだが、なかなか力のある写真作家だと思う。
展示作品は「陽の目をみることなくしまわれていた大量のネガ」から、画面の大部分を黒く潰してプリントした写真を古風なフレームにおさめた「The last whisper」と、トイレットペーパー、テープなど、日常的なオブジェを配した鏡を空に向けて雲を写し込んだ「Euclid’s talk in sleep」の二つのシリーズである。どちらも見る者の感情を上手に揺さぶる的確な画面構成で、布や椅子を使った作品のインスタレーションもよく考えられている。どちらの作品にも、ほのかにユーモラスな感触が漂っているのがなかなかいい。会場に本がおいてあったので気づいたのだが、山本は以前に、蜂巣敦著の『殺人現場を歩く』(ミリオン出版、2003)、『殺人現場を歩く2』(同、2006)の写真撮影も担当していた。これら凄みのある「現場写真」は気になっていたので、「なるほど」という感じがするとともに、多様な方向に柔らかく伸び広がっていく才能の持ち主であることがわかった。次の作品にも注目していきたい。

2011/06/01(水)(飯沢耕太郎)

山内宏泰『写真のプロフェッショナル』

発行所:パイ インターナショナル

発行日:2011年4月5日

これは大変な労作である。著者の山内宏泰は『彼女たち Female Photographers Now』(ぺりかん社、2008)など、インタビューの構成には定評のある書き手だが、日本の写真関係者70人にインタビューしてまとめた本書は、まさに力業としかいいようがない。その顔ぶれがすごい。東松照明、篠山紀信、森山大道、蜷川実花といった大物から、よくこんな写真家までフォローしているなと思うような若手まで、しっかり目配りされている。今年の木村伊兵衛写真賞受賞作家の下薗詠子と土門拳賞受賞作家の石川直樹がちゃんと入っているあたりも、さすがとしかいいようがない。それに加えて、ツァイト・フォト・サロンのオーナーの石原悦郎や東京都写真美術館館長の福原義春など、「写真に携わる人々」にも話を聞いている。2011年現在における日本の写真界の見取り図を知るために、必携のガイドマップになるのではないだろうか。
帯に大書されているように、たしかに日本は「写真大国」である。では、なぜ日本人が写真好きなのかということについて、山内が後書きで興味深い意見を述べている。彼によれば「日本文化を読み解くうえでよく持ち出される『はかなさ』や『もののあわれ』が、写真にはもともと含まれている」こと「俳句や短歌、茶事に生け花と、日本人の心をとらえてきた慣習と相通ずる」のではないかというのだ。これはまったく同感。日本人の文化や心性をあらためて写真家の仕事を通じてとらえ直していく視点が、これから先にはとても重要になっていくのではないかと思う。

2011/05/28(土)(飯沢耕太郎)

川田喜久治「日光─寓話」

会期:2011/05/10~2011/06/25

フォト・ギャラリー・インターナショナル[東京都]

1959年、6人の写真家たちによって「VIVO」(エスペラント語で生命の意味)と名づけられたグループが結成された。東松照明、奈良原一高、川田喜久治、細江英公、佐藤明、丹野章の6人は、1925年生まれの丹野章を除いては、いずれも1930~33年生まれの写真家たちである。「VIVO」は1961年までの3年間という短い活動期間だったが、同時代及びそれ以降の写真家たちに決定的ともいえるような影響を及ぼした。日本の戦後写真史において、明確に個人の想像力の発現といえるような表現が成立するのは、彼らの登場が呼び水になったといえるだろう。
その「VIVO」の写真家たちも70歳代後半から80歳代になった。佐藤明は既に亡くなり、奈良原一高も長い闘病生活で制作活動ができない状態になっている。だが東松、川田、細江、丹野はまだまだ元気で、現役の写真家として写真展の開催や著書の刊行などの活動を展開している。特に川田はこのところ毎年のように新作展を開催しており、2010年度の日本写真協会年度賞を受賞するなど、その精力的な仕事ぶりには脱帽するしかない。1950~60年代にデビューした川田たちの世代の息の長さと肺活量の大きさは、その下の世代と比較してもやや異常なほどだ。
今回の川田の展示は、日本文化のバロック的な美意識の典型というべき日光をテーマにした新作である。ただ、メインとなる日光東照宮や華厳の滝の画像は1980年代に『藝術新潮』の取材で撮影したもので、それらをデジタル的に加工しつつ、新たに撮影したイメージと合成している。2000年代になって本格的にデジタル表現にチャレンジし始めてから、彼の作品はよりカオス的な流動性が強まっているように感じるが、今回のシリーズはその極致といえそうだ。特に画像の細部からわらわらと湧き出るように出現してくる龍、鳳凰、象、猿、猫などの幻獣たちが、見る者を過剰なエネルギーが渦巻く魔術的世界に引き込んでいく。川田はまた展覧会のテキストとして「日光─寓話」と題する文章を寄せているのだが、これもまた充分に一個の掌篇小説として読むことができるものだ。中井英夫や澁澤龍彦の系譜に連なる幻想譚を書き継いでいくのも面白いのではないだろうか。

2011/05/27(金)(飯沢耕太郎)

飯田鉄「二つに分かれる小道のある庭」

会期:2011/05/24~2011/05/29

トーテムポールフォトギャラリー[東京都]

飯田鉄のようなベテランの写真家の展示を見る場合、あらかじめ立てていた予想を裏切られることはあまりない。逆に今回のトーテムポールギャラリーでの個展のように、やや意表をつかれるような作品が並んでいると、とても得をした気分になる。長いキャリアを持つ写真家が、新たなチャレンジをしているのを見ることで勇気づけられるからだ。
飯田は昨年あたりから、たまたま手に入れたベッサ66という旧西独製のスプリングカメラを使って撮影をはじめた。このカメラのレンズにはやや欠陥があって、フィルムの周辺の光量が落ちてしまう。また蛇腹に小さな穴があいていて、きちんと塞いで使わないと光が漏れてしまうことがある。だが、そういうマイナスの要素は、得てして写真家の創造性を拡大することにつながるようだ。飯田のこのシリーズがまさにそれで、結果的に、写っている景色に奇妙なベールのような靄がかかったり、周辺が丸くカットされることで望遠鏡を逆さに覗いたような効果が生じたりしてきていた。
撮影されているのは、ほとんどが飯田の住む荻窪周辺の「家から1キロ以内」の場所だそうだが、あえて旧式のスプリングカメラを使うことで、見慣れた眺めがみずみずしい生気を取り戻しているように感じられる。また、彼はこれまで街や建物の写真を中心に発表してきたのだが、このシリーズには花や樹木などの自然の要素もかなりたくさん入ってきている。「二つに分かれる小道のある庭」というポエティックなタイトルも、特定の「庭」というわけではなく、「庭」を思わせる親密な雰囲気の光景が多く含まれているということのようだ。弾むような撮影の歓びが、じかに伝わってくる写真群だった。

2011/05/24(火)(飯沢耕太郎)