artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

『ライフ』報道写真家が捉えた戦争と終戦 微笑を浮かべて~キャパ、スミス、スウォープ、三木~

会期:2010/06/12~2010/07/31

あーすぷらざ(神奈川県立地球市民かながわプラザ)3階企画展示室[神奈川県]

山梨県の清里フォトアートミュージアムが所蔵する、4人の報道写真家たちの作品、約150点を展示した企画展。そのうちロバート・キャパとユージン・スミスの第二次世界大戦の写真、三木淳のシベリアに抑留されていた兵士たちの帰還のドキュメント(「日本の赤軍祖国に帰る」1949年)は、よく知られているが、今回特に興味深かったのは最近になってようやくその所在が明らかになったジョン・スウォープの写真群である。スウォ─プはアメリカの人気女優、ドロシー・マグワイアと結婚し、ハリウッドの俳優たちのポートレートや、その舞台裏のドキュメントを撮影していた。ところが、第二次世界大戦の勃発とともに軍の広報写真を担当するようになり、1944年にはエドワード・スタイケンが組織したアメリカ海軍航空隊写真班に加わる。1945年8月29日、彼は命令を受けて東京湾から大森に上陸した。連合国の捕虜たちが収容されていた東京俘虜収容所の解放に立ち会い、その様子をカメラにおさめるためである。その後、静岡県新居、浜松、名古屋、仙台、岩手県釜石などを訪れ、捕虜の解放や終戦直後の日本人の表情、街の光景などを克明に撮影していった。スウォープの兵士や民間人の写真を見ていると、ライティングと構図に気を配った、ハリウッドの俳優たちのドラマチックなポートレートのように思えてくる。特にカメラを向けられた日本人たちが無意識的に浮かべた、歓びや哀しみや焦慮の表情は貴重なドキュメントといえるだろう。戦争が彼らに与えた傷跡や、ようやく長い戦いが終わったことの安堵感(それが「微笑」として示される)、さらによりよい未来を希求する決意などが、身振りや表情としてくっきりとあらわれているのだ。どんな言葉でも記述が不可能な、写真でしか語ることのできないメッセージの重みが、これらの写真にはある。

2010/07/18(日)(飯沢耕太郎)

渡邊聖子「結晶」

会期:2010/07/08~2010/07/20

現代HEIGHTS Gallery Den.ST[東京都]

下北沢の現代美術スペース、現代HEIGHTSの小さな部屋で5月から開催されている連続展(企画/言水制作室)。田島鉄也(ペインティング)、七七(視覚詩)、早川桃代(ドローイング)に続いて渡邊聖子の作品が展示された。内容的には渡邊がこのところずっと試みている、写真、ガラス、ゴムなどを使ったインスタレーションの延長上の作品である。写真のコピーやドローイングを綴じあわせた皺くちゃの紙の束がダンボール箱に入れられて放置され、ガラスとゴムの板が床に置かれ、波をかぶった巨大な岩の写真がフレームにおさめられて壁に立てかけてある。これらの全体から浮かび上がってくるのは、事物の「物質性」が写真やコピーによって「像化」され、ガラスやゴム板による干渉を被ることで、どのように変質し、イメージそれ自体の「物質性」を獲得するのかというプロセスである。その変化の相を、部屋の床や壁の触感も巧みに活かしつつ、細やかに検証しようとしている。興味深いのは、コピーの束、ガラス板、岩の写真などの道具立てが、ある種のセットとして扱われていること。つまり、同じ材料が異なった環境にインスタレーションされることで、微妙に違った見え方をしてくるのだ。はじめて見る観客にはそのあたりがわかりにくいのが難点だが、展示を続けて見ていると、その枝分かれしつつ増殖するようなあり方がなかなか面白い。いっそのことセットを完全に固定してしまって、もっと積極的に(ゲリラ的に)いろいろな場所で展示してみてもいいかもしれない。

2010/07/17(土)(飯沢耕太郎)

長島有里枝「SWISS+」

会期:2010/07/02~2010/08/04

白石コンテンポラリーアート[東京都]

同じ白石コンテンポラリーアートの2F会場では、長島有里枝の新作展が開催されていた。「2007年に滞在したスイスのVillage Nomadeで撮影した花の写真とインスタレーションによる小さな展覧会」である。「インスタレーション」というのは、銀紙を壁に貼付けて「紙製の鏡」を作り出したもので、そこに観客の顔がぼんやりと映り、横に貼られたプリントと共鳴して面白い効果をあげていた。ほかにもゲルハルト・リヒターの写真が掲載された展覧会カタログに花をあしらった「リヒターの少女と野生の花」、祖母が遺した薔薇の写真をモチーフにした「祖母の花の写真とコンセントのインスタレーション」といった作品もあり、単純なスナップというよりも視覚的な体験の再構築という側面が強まってきている。そのことを、どのように評価していけばいいのかは、もう少し様子を見ないと分からないが、以前のストレートな長島の写真のスタイルとはかなり異質な印象を受けるのはたしかだ。『群像』に連載した作品をまとめた短編集『背中の記憶』(講談社、2009)を刊行するなど、仕事の幅が広がりつつある。今後は写真とテキストを重ね合わせるような試みも出てくるのではないだろうか。会場で先行販売されていた写真集『SWISS』(赤々舎)でも、滞在中の日記と写真とがコラボレーションされていた。同世代の蜷川実花などと比較すると、決して派手な動きではないが、着実に写真作家としての歩みを進めているということだろう。

2010/07/13(火)(飯沢耕太郎)

ウィリアム・エグルストン「21th Century」

会期:2010/07/02~2010/08/04

白石コンテンポラリーアート[東京都]

原美術館に続いて、銭湯を改装したユニークな会場で知られる谷中の白石コンテンポラリーアートでも個展を開催したウィリアム・エグルストン。『美術手帖』(2010年5月号)でも特集が組まれ、時ならぬブームが来ているようだ。それはこの写真家の現実世界へのアプローチの微妙な角度が、いまの空気感にぴったりしているからではないだろうか。過度に感情的ではなく、かといって突き放したクールな描写でもない。居心地がよいようで、実はかなり不安定で怖い部分もある。その絶妙なバランス感覚は、今回の近作展でも充分に発揮されていた。作品を見ながら気づいたのは、かつてのような主題となる被写体が画面の中心におかれているのではなく、より希薄に分散する傾向が強まっていること。壁、窓、地面などが大きな割合を占めていて、何を狙ったのか判然としない写真がけっこう多い。だがそれが逆に写真につきまとう「ノスタルジア」を中和し、リアルな皮膚感覚を呼びさますことにつながっている。その徹底した事物の表層へのこだわりは、おそらく日本の若い写真家たちにも強い影響を及ぼしていくのではないだろうか。とはいえ、エグルストンはひとりいればいいわけで、むしろ別種の視覚的システムの構築をめざしていくべきだろう。

2010/07/13(火)(飯沢耕太郎)

田淵行男記念館20周年記念シンポジウム 田淵行男作品と今後の自然・山岳写真について

会期:2010/07/10

安曇野市穂高交流学習センター“みらい”多目的交流ホール[長野県]

自然写真・山岳写真を対象にした第3回田淵行男賞の受賞作品展(7月2日~27日)を開催中の安曇野市穂高交流学習センター“みらい”で、「田淵行男記念館20周年記念シンポジウム」が開催された。パネリストは写真家の水越武、宮崎学、海野和男、アサヒカメラ編集部の三島靖で、僕も司会を兼ねて参加した。パネリストが異口同音に口にしてしていたのは、ここ10年間のデジタル化の進展がもたらした多大な影響である。デジタルカメラやプリンター、インターネットなどの発達は、ハード面においてはかなり悪い条件でもシャープな画像を手に入れ、広く送受信することを可能にした。たしかに10年前ならば田淵行男賞に届いたかもしれない作品が、今回は入賞作の選からも漏れるというようなことも起こってきている。逆に技術的に横並びの写真が増えてくると、シリーズとしての編集能力や写真を支える「思想」や「哲学」の質が問われることになる。今回田淵行男賞を受賞した中島宏章(北海道)の「BAT TRIP」や準田淵行男賞の金子敦(長野県)の「オオムラサキとともに─共生地の記録から─」は、そのあたりの取組みの姿勢が明確だったということだろう。もうひとつ大きな話題になったのは、自然写真・山岳写真の発表の媒体が大きく変わりつつあるということだ。雑誌の休刊や廃刊が相次ぎ、写真集の発行部数も落ちている。そんななかでインターネットや電子出版が大きくクローズアップされているわけだが、それもまだどのような形で写真を見せていけばいいのか、またそこからどのように収入を生むのかは模索の段階にある。水越武は、逆に写真の原点に戻って、モノクロームのプリントをギャラリーなどで販売するという方向をより強く打ち出そうとしているという。だがこのような混乱は、考え方によってはアマチュアもプロも関係なく、新たな動きが形をとってくる可能性があるということではないだろうか。次回の田淵行男賞は5年後に予定されている。その時自然写真・山岳写真の世界がどんなふうに変わっているのかが、逆に楽しみだ。

2010/07/10(土)(飯沢耕太郎)