artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

須田一政「風姿花伝」

会期:2010/05/03~2010/05/09

Place M[東京都]

須田一政の名作中の名作『風姿花伝』(朝日ソノラマ、1978年)におさめられた作品が、当時のヴィンテージ・プリントで展示されるというので、ワクワクしながら見にいった。おそらく写真集の印刷原稿なのだろう。フェロタイプという金属板に圧着して、ピカピカの光沢紙に仕上げたプリントの迫力はやはりすごいものだった。いま手に入る印画紙では、まずここまでの黒の締まりとコントラストは無理だし、いかに性能が急速にアップしているとはいえ、デジタルプリンターではこの画像の厚みや質感を出すのは不可能だろう。若い写真家は、ぜひこのようなプリントのクオリティを、視覚的な記憶として保ち続けていってほしい。そのための教育的な価値を備えた写真展といえるのではないだろうか。それにしては会期が短すぎるのが残念だが。
もちろん、作品の内容にもあらためて感銘を受けた。このシリーズを撮影していた1970年代は須田にとっても多難な時期で、「将来性などゼロに等しい。さりとて写真以外に取り柄もない」という状態だったという。だが、作品にはそのような気持ちの濁りはまったく感じられず、むしろ吹き渡る風のような開放感がみなぎっている。むろん、闇や翳りの方に引き寄せられていく作品も多いのだが、それらもまた「闇の輝き」を発しているように見えてくるのだ。祭の踊り手が奇妙なポーズで佇んでいる写真や、ヌラリとした大蛇が、壁にコの字型に這っている写真など、背筋がぞくぞくしてくるような素晴らしさだ。

2010/05/06(木)(飯沢耕太郎)

秦雅則「シニカル」

会期:2010/05/04~2010/05/09

企画ギャラリー・明るい部屋[東京都]

秦雅則は昨年来、自身もメンバーのひとりである企画ギャラリー・明るい部屋で「ネオカラー」「キーキーなく悪魔」「角死」「死角」といった個展を次々に開催して来た。これらを元にして、東京都写真美術館の「写真新世紀2009」の会場で開催された「幼稚な心」展の成果を加えて会場を構成したのが、今回の「シニカル」展である。
会場の中央に机が置かれ、そこに写真の束がいくつか置かれていて、それぞれの束には、以下のようなキャプションが付されている。「他人」「数多くの他人の中から選択された44名の他人」「知人と友人」「愛してると言ってほしそうな知人と友人(その人の目は本人のもの)」「知人と友人と私が混在している知人と友人と私(私、もしくは他人の身体の一部が移植されている)」「知人と友人によって撮られた私」。写真には着色されたり、合成などの加工が施されたりしたものはあるが、おおむね何の変哲もないスナップ写真の集積である。だが、写真の束を手にとって、めくりながらつらつら眺めていると、何かしら吐き気のようなものがこみ上げてくる。その「実存主義的」な感情がどこに由来するのかはわからないが、写真と写真の間からこみ上げてくる気持ち悪さはただ事ではない。
秦の写真作品は、今回の展示もそうなのだが、一見荒っぽく、雑なものに思える。だが、写真展のタイトルや作品に付されたキャプションを見てもわかるように、緻密な思考と丁寧な作業工程によって練り上げられている。そのユニークな仕事ぶりは、もっと注目されてもよいのではないだろうか。

2010/05/06(木)(飯沢耕太郎)

鷹野隆大「それでも、ワールドカップ」

会期:2010/05/03~?

東塔堂[東京都]

展覧会を見て帰ったら、鷹野隆大から以下のメールが来ていた。
「せっかくお越し頂いたのに、鳥カゴのような小部屋の展示ですいません。僕は子供の頃、ミシンの下を囲ってそこで過ごすのが好きだったので(笑)、そのときのことを思い出しながら、この小部屋でくつろいでもらえたらいいなあと思ってあんな風にしてみたのですが、普通は落ち着かないですよね。」
たしかに、美術、建築関係の書籍を主に扱う古書店の一角を、「鳥カゴ」のように囲った小さな部屋に、カラーコピーを綴じ合わせた写真が無造作にピンナップされ、映像作品を流すTVモニターが置かれている展示は、あまり落着きはよくない。また、写真に写っているのは中東やアジアの国を含む世界各地の街頭のスナップで、直接「ワールドカップ」に関係する画像というわけではない。だが、サッカーというゲームが世界中の人々をひとつの地平に結びつけるツールとして機能している以上、どこを撮ってもあぶり出しのように「ワールドカップ的なるもの」が浮かび上がってくるともいえる。そのあたりの政治性を孕んだ構造が、チープなコピーの束から浮かび上がってくるのが逆に面白かった。
映像作品もとても楽しませていただいた。「ある日のワールドカップ」(2005年)という48分25秒のモノクローム作品だが、ワールドカップの最終予選の試合とおぼしき日本対某国の試合を、鷹野が一喜一憂しながら見続けるという構成である。カメラのセッティングの位置の関係で、TVの画面は直接見えないので、観客は鷹野の身振りや視線の動きだけで試合の経過を想像するのだが、これが実に面白い。僕は日本チームの現状にかなりの絶望感を抱いている。鷹野もおそらくそうだろう。そのあたりのファン心理を含めて、観客としてしか試合に関われない者のジレンマが見事に表現されている。あまりにも身につまされ過ぎて、思わず笑ってしまった。

2010/05/05(水)(飯沢耕太郎)

蜷川実花「ニナガワ・バロック/エクストリーム」

会期:2010/04/28~2010/05/30

NADiff A/P/A/R/T[東京都]

昨年は篠山紀信をフィーチャーしたNADiff A/P/A/R/T(恵比寿)の「春の全館イベント」。今年は蜷川実花が大暴れしている。上海で撮影した映像作品上映(4F MAGIC ROOM??)のほか、「沢尻エリカ×蜷川実花」(3F Special Gallery)、「FLOWER ADDICT」(2F G/P gallery)、「蜷川上海」(2F NADiff gallery/ 2Fニエフ)、「TOKYO UNDERWORLD」(B1F NADiff gallery)といった展覧会がが開催され、�檳では蜷川の写真集を中心としたブックフェアも行なわれるという盛り沢山の企画である。ゴールデン・ウィークの連休中ということもあって、店内には蜷川ファンの若い女性客があふれていた。2009~10年の全国巡回展「地上の花、天上の色」ではのべ18万人を動員したというが、やはりいま一番観客を動かす力がある写真家といえそうだ。
旧作も多く、全体的にはやや散漫な印象だったのだが、その中ではNADiff galleryの「TOKYO UNDERWORLD」が、キャッチコピーの「写真家・蜷川実花の、野心・欲望・新世界」に最もふさわしい面白い展示だった。ヌードあり、ギャルサーあり、極彩色の衣裳を身に着けたニュー・ハーフありのポートレート作品だが、以前にも増して毒々しさ、あくの強さが際立っている。このような歪みのある、悪趣味な作品群を「バロック」と称するのは、とても当を得ているのではないだろうか。いまはまだ詰めの甘さが目立って、あらゆる観客を巻き込んでいく強度にまでは達していないが、このチープ感とゴージャス感とがせめぎあう「バロック」趣味をさらに徹底して、時代の閉塞感を吹き飛ばしてもらいたいものだ。

2010/05/05(水)(飯沢耕太郎)

SEOUL PHOTO 2010

会期:2010/04/29~2010/05/03

Coex Hall B[韓国・ソウル]

今月は忙しい月で、中国から帰った次の週には韓国・ソウルへ飛んだ。写真に特化したアート・フェア「SEOUL PHOTO」に参加するためである。このイベントは2008年から始まったが、最初の年はプレ・イベントだったので実質的には今回で2回目。今年は韓国と日本の22のギャラリーがブースを構え、さらにスペインの写真家たちの特集が組まれ、日本の新人写真家育成プロジェクト「写真ひとつぼ展」(リクルート主催)、「Juna」(ニコン主催)、「写真新世紀」(キヤノン主催)に入賞した若手写真家たちの作品が「Beyond the Award」という枠で展示されていた。ほかにシンポジウムやゲスト作家の森村泰昌の展示(「女優」シリーズ)やトーク・スライド上映などもあり、なかなかしっかりしたプログラムだった。
ただ、見本市会場のような広いスペースの割には参加ギャラリーの数が少なく、ややスカスカの印象は拭えない。韓国のARARIO GALLERYやKukje Gallery、日本のツァイト・フォト・サロンやエモン・フォト・ギャラリーのように、見応えのある作品を持って来たギャラリーもあったが、全体的には盛り上がりに欠けているように感じた。隣の会場で開催されているカメラ・ショーが大変な賑わいなのにくらべると、観客の反応もどこかクールなのだ。実際、いくつかのギャラリーに取材したところでは、あまり作品も動いていないようだ。写真作品の市場開拓というのが大きな目標のはずなので、その意味ではイベントとしてはあまり成功とは言えないだろう。
それでも、昨年の「TOKYO PHOTO」と比較しても、韓国ではこの種の催しがかなりきちんと根づきかけていると感じる。会場には若い学生たちの姿も目立っていたが、たとえば彼らにとっては、展示を見ることで作品制作の具体的な目標をしっかりとつかむことができるだろう。最終的には中国や台湾を含めた、東アジア地域全体の写真と写真家の交流を図る必要があると思う。その拠点として、東京はもはやソウルや北京の後塵を拝しているのではないだろうか。

2010/04/29(木)(飯沢耕太郎)