artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

侍と私 ポートレートが語る初期写真

会期:2010/05/15~2010/07/25

東京都写真美術館 3階展示室[東京都]

東京都写真美術館が毎年開催している、収蔵品を中心にした企画展。今年は「ポートレート」がテーマとなるが、その第一弾として本展「侍と私」が開催された。以後、夏から秋にかけて「私とヌード」「20世紀の人間像」という展覧会が予定されている。
展示は「プロローグ」「日本」「西欧」「交差」「エピローグ」の各パートに分かれ、幕末のダゲレオタイプ(「島津斉彬像」1857年撮影のレプリカ)や、ガラスネガに黒布で裏打ちしたアンブロタイプの肖像写真から始まって、外人観光客の土産物の「横浜写真」や小川一眞撮影の写真帖『京都大阪今様美人風俗』(1898年)に至る、ほぼ型通りといってよい構成である。何度も展示された写真が多いからというだけではなく、雑然とした並べ方には企画者の狙いがあまりきちんと感じられない。ついジェフリー・バッチェンが構成したIZU PHOTO MUSEUMの「時の宙づり──生・写真・死」展と比較してしまうのだが、企画者のセンスひとつでこれらの写真も見違えるような輝きを放つのではないだろうか。
「西欧」のパートには、ピーター・レリー、イアサント・リゴーらの油彩による肖像画まで展示されている。だが、このようなジャンルの拡張もあまり必然性を感じられない。東京都写真美術館の収蔵品は、いい意味でも悪い意味でも玉石混淆ではあるが、うまく使いこなせば「日本の写真」とは何かという問いかけに面白い答えを出す材料にも使えるのではないだろうか。何かもったいないと感じてしまう企画だった。

2010/05/19(水)(飯沢耕太郎)

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古屋誠一「メモワール.」

会期:2010/05/15~2010/07/19

東京都写真美術館 2階展示室[東京都]

古屋誠一の「メモワ─ル」は、二重の意味で不幸な写真シリーズだと思う。このシリーズの主題になっているのは、1985年に東ベルリンで自殺した古屋の妻、クリスティーネとの関係の綾であり、彼女の「記憶」はその不幸な出来事によって枠づけられ、強烈なバイアスがかかっている。そして、われわれもまた、「自殺した妻と残された夫」という情報を抜きにしてはそれらの写真を見ることができないがゆえに、いやおうなしにその不幸に感染してしまう。写真そのものは、衒いなく、柔らかな視線で写しとられた純度の高いスナップショットであり、目を喜ばせ、心を和ませるものも少なくないのだが、彼らの不幸が二重映しに被いかぶさっているので、どうしても身動きの取れない、がんじがらめの気分に追い込まれてしまうのだ。
もちろん、まったくの先入観や予備知識なしに、これらの写真を見ることができたならと、想像してみることはできる。だが、作者の古屋自身が執拗に二人の「記憶」にこだわり続け、瘡蓋をはがすような作業を営々と続けている以上、それは不可能な望みというしかない。要するに、これはある意味写真の宿命とでもいうべきものなのだが、観客はその写真が撮影された状況を写真家とともに分かち持つことを余儀なくされるのだ。しかもそれは、「この不幸な写真を見続けなければならない」という義務感や罪障感にわれわれを強く導く。正直な話、特に古屋とクリスティーネのような重い物語を、これ以上背負わされるのはたまらないという思いが僕には強くあった。会場に足を運んだ時にも、そんな重苦しい気分を引きずっていた。
ところが、会場で写真を見終えたとき、少し違った感触が芽生えてきた。解放感にはまだ遠いが、見慣れた写真の多い「メモワール」のシリーズが、少し違った方向に伸び広がっていこうとしているように感じたのだ。その理由のひとつは、会場構成にある。今回の展覧会の写真は「光明」「円環」「境界」「グラビテーション」「クリスティーネ」「エピファニー」「記憶の復讐」という小さな章に区分されながらつながっていく。もちろん「東ベルリン 1985」から年代をさかのぼって「グラーツ 1978」に至るポートレートを中心とした「クリスティーネ」や、彼女の死の前後のカットを含むコンタクトプリントで構成された「記憶の復讐」の章など、「メモワール」シリーズの中心部分は変わっていない。だがそれらの拘束力の強いイメージを取り囲むように、息子の光明クラウスの成長を追う「光明」や、彼女の死の事後の作品を多く含む「エピファニー」の章が配置されることで、見る者を不幸に感染させていくような力がだいぶ薄まり、弱まっているのだ。そのことによって、「メモワール」の作家ということに限定されがちだった写真家・古屋誠一が本来備えている、のびやかな画面の構成力、被写体をしなやかにつかみ取っていく視線の動きなどが、よりくっきりと見えるようになっていた。
しかも、展覧会のタイトルが「メモワール.」になっていることに注目すべきだろう。このタイトルの末尾に付されたピリオドが意味するのは、本展を「最後のメモワールにしたい」という古屋の意志である。つまり、1989年に刊行された『Mémoires』(Edition Camera Austria and Neue Galerie am Landesmuseum Joanneum)以来、ずっと続けられてきた「記憶」の検証作業に終止符を撃つという宣言なのだ。これは古屋にとっても、彼の写真を見続けてきた僕のような観客にとっても、よいことだと心から思う。単純に「安心したい」「安らぎを得たい」ということではない。また発表しないことで、あの「記憶」が幸福なものに変わると思っているわけでもない。だが「メモワール」を編み続ける過程で、古屋が苦闘しつつ見出そうとしてきた何ものかは、この断念によって失われるどころか、より豊饒な輝きを増し、「発酵」していくのではないか。そんなふうに信じたいと思うのだ。

2010/05/19(水)(飯沢耕太郎)

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春木麻衣子「possibility in portraiture」

会期:2010/05/14~2010/06/12

TARO NASU[東京都]

春木麻衣子は画面の大部分が黒、あるいは白の地で覆い尽くされた作品を発表してきた写真家。その闇や光を透過して、身を捩るようにして見えてくるイメージに独特の緊張感がある。これまでは純粋な風景作品だったのだが、2008年頃から画面に「人」の影が登場するようになり、今回の個展ではポートレートの領域にさらににじり寄ってきている。それでも、ロンドンの大英博物館の階段を昇り降りする観客の姿を捉えた「outer portrait」(白)、ニューヨークの街頭をスポットライトのように照らし出したシリーズと、窓の隙間から見えるチュニジアの石壁と通行人を撮影したシリーズから成る「whom? whose?」(黒)の両作品とも、これまでの彼女の取組みから大きく隔たっているわけではない。だが、着実に表現の幅を広げ、新たな方向に進んでいこうという意欲が強く感じられる展示だった。
僕はポートレート、つまり他者の存在と向き合うことは、春木にとってとても重要なテーマになっていくのではないかと思う。これまでどちらかといえば「inner」な領域にこだわり続けてきた彼女が、「outer」に自分を開いていくきっかけになっていくのではないだろうか。いまのところ、まだ舞台のような場所を設定して、そこに「通行人」を呼び込むようにして撮影されているのだが、さらにこの試みを進めていけば、もっと身近な「顔の見える」他者が出現してくるかもしれない。そんな予感も感じられる展示だ。

2010/05/14(金)(飯沢耕太郎)

富谷昌子「みちくさ」

会期:2010/05/11~2010/06/12

ツァイト・フォト・サロン[東京都]

東京・京橋のツァイト・フォト・サロンでは、時々思いがけない新鮮な作風の若手写真家の展覧会が開催されることがある。今回の富谷昌子の「みちくさ」もそんな展示。故郷の青森を6×6判のカメラで撮影した、どちらかといえば古風な印象を与えるモノクローム作品が並ぶ。だが、その何枚かに写っている鳥、犬、山羊などの動物、とりわけ馬の写真が素晴らしい迫力で、見る者を異界に誘い込む強い力を発していた。同じ昌子という名前の小栗昌子が撮影する岩手県・遠野の情景もそうなのだが、東北地方の風土に潜む魔のようなものが、若い女性写真家の鋭敏なアンテナによってとらえられ、引き出されているのかもしれない。
もっとも、見る者を引き込んでいく力を備えた写真だけではなく、凡庸なものもかなり含まれているので、展示作品の選択にはもう少し注意深さが必要だろう。まっすぐに、どちらかといえば生真面目に被写体に向かう姿勢は悪くないが、のびやかな開放感に乏しく、固く縮こまっているように見える写真も少なくない。そのあたりを考えていけば、さらなるスケールの大きさが期待できるのではないだろうか。動物だけでなく、水たまりに映る樹木の影にピントを合わせた写真など、心理的な陰影を取り込んだ作品も気になった。自分でも分けがわからない衝動に突き動かされて撮影した写真を、もう少し増やしてもいいかもしれない。

2010/05/13(木)(飯沢耕太郎)

渡邊晃一「テクストとイマージュの肌膚」

会期:2010/04/28~2010/05/08

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

渋谷・宮益坂上のZEN FOTO GALLERYは、普段は中国の写真家の作品を中心に展示しているのだが、今回の渡邊晃一の個展は日本人作家というだけでなく、写真作品にドローイングも加えたものだった。渡邊は福島大学文学・芸術学系の准教授で、絵画、写真、彫刻、パフォーマンスアートなどにまたがる複合的な領域で仕事をしている。たとえば、今回の舞踏家大野一雄、大野慶人とのコラボレーション作品では、彼らの身体を石膏や発泡スチロールで克明に型取りし、その自分の分身というべきオブジェと生身の舞踏家とが絡み合うパフォーマンスを、写真とドローイングで記録している。大学・大学院時代に徹底して学んだ解剖学の知識と、卓抜なデッサン力を駆使した作品が、枝分かれをするように次々に展開していく過程は、展覧会と同時に刊行された同名の作品集(青幻舎刊)を見ればよくわかるだろう。
たしかに、その細部まで丁寧に仕上げられた作品群(特に1999年の大野一雄が自らの腕の型取りを抱いて踊るセッション)は質が高いものだが、発想がやや予測可能な範囲におさまっているような気がする。ドゥルーズ=ガタリ流にいえば、ツリー状のどこか整合性と秩序を保った構造ではなく、どこに伸び広がり接続するのかわからないリゾーム状の構造があらわれてくるといいと思う。笑いやエロティズムのような、思考を逸脱させ、攪乱するような要素をもっと積極的に取り込むと、この「まじめな」作品世界にひび割れが生じるかもしれない。

2010/05/08(土)(飯沢耕太郎)