artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
綿谷修「Juvenile」
会期:2010/07/23~2010/08/25
RAT HOLE GALLERY[東京都]
綿谷修の前作の写真集『CHILDHOOD』(RAT HOLE GALLERY, 2010)は、「Amsterdam」「Hokkaido Hometown」「Boy at 12」「Capability」の4部構成で、写真家としての軌跡を辿り直そうとする意欲作だった。そのなかから、くっきりとひとつの水脈が浮かび上がってきたように思える。「Juvenile」、すなわち「幼いもの」「年少のもの」に対する写真家の偏愛である。その水脈は、今回のRAT HOLE GALLERYでの個展と、同名の写真集の発行によって、より強い流れとして見えてきたのではないだろうか。
「Juvenile」はいうまでもなく「失われたもの」の代名詞だ。それがひりつくような憧憬や、どうにも回復しようがない悔恨や追憶と結びつくことが多いのは、例えばラリー・クラークの「Teenage Lust」や「The Perfect Childhood」のシリーズを見れば明らかだろう。ところが、綿谷修の今回の展示からは、そのようなどちらかといえばネガティブな感情の傾きはほとんど感じられない。ウクライナで撮影されたという、水辺で屈託なく遊ぶ少年や少女たちに向けられた綿谷の視線は、大人が保護者としてふるまうようなものでは決してなく、むしろ同年齢、あるいはやや年下の弟のそれであるように見えるのだ。何の衒いもなく、慣れ親しんだ存在に対して向けられた、親密さとうざったさが混じり合った眼差し。逆に言えば、ここまで同じ目の高さに執着し続けることに、綿谷の覚悟を見ることができるともいえるだろう。あえて写真家としての成熟を拒否することによって、「Juvenile」の時期以外にはあらわれてこない、どこか痛みをともなった輝きが、写真にきちんと写り込んできている。
2010/07/31(土)(飯沢耕太郎)
オノデラユキ「写真の迷宮へ」
会期:2010/07/27~2010/09/26
東京都写真美術館 2階展示室[東京都]
東京都写真美術館でのオノデラユキ展のプレビューに出かけてきた。作家本人にもひさしぶりに会ったし、いつものオープニング以上にいろいろなジャンルの人たちが集まっている印象を受けた。それにしても、彼女が1991年に第一回の「写真新世紀」で優秀賞(南條史生選)を受賞してデビューした時、今日を想像できる人は少なかったのではないだろうか。そのセンスはいいが線の細い作品が、1993年に渡仏し、パリを拠点にして活動しはじめてから大きくスケールアップした。海外に活動の場を求めた写真家は多いが、オノデラはその中で最もめざましい成功例といえるだろう。オノデラの作品の発想の源になっているのは、日々の暮らしや記憶の宝箱から取り出され、集められた断片である。影絵(「Transvest」)、古いカメラ(「真珠のつくり方」)、郊外の一戸建ての家(「窓の外を見よ」)、ラベルを剥がされた空き缶(「C.V.N.I.」)など、そして近作の「12 Speed」では文字通り身の周りの雑多なオブジェがテーブルの上に寄せ集められている。だがこれら日常の事物の断片が、彼女のイマジネーションの中で熟成し、発酵していくなかで、奇妙に謎めいた「迷路」として再構築されていくことになる。この悪意と官能性とユーモアとをブレンドした「ひねり」の過程こそが、オノデラの真骨頂と言うべきだろう。そのことによって、ヨーロッパのとある国のホテルで起きた失踪事件が、ちょうどその地点から見て地球の反対側の島で18世紀に起きた「予言者が西欧人の来訪を告げる」という出来事と結びつくといった、普通ならとても考えられないような発想の作品(「オルフェスの下方へ」)が生まれてくるのだ。とはいえ、その「ひねり」は決してわざとらしいものとは感じられない。普通なら複雑骨折しそうな思考の過程を、軽やかに、ナチュラルに、どこか懐かしささえ感じさせるやり方でやってのけるのが、オノデラの作品が多くの観客を引きつける理由でもあるのだろう。この人の繊細で丁寧な手作りの工芸品を思わせる作品は、杉本博司、米田知子、木村友紀などとともに日本人による現代写真に独特の感触を備えているように見える。
2010/07/26(月)(飯沢耕太郎)
飯沢耕太郎 森重靖宗を読む
会期:2010/07/25
Sound café dzumi[東京都]
森重靖宗は1963年大阪生まれ。普段はmori-shigeという名前でチェロ奏者として即興演奏を中心に活動している。写真を本格的に撮りはじめたのはここ10年あまりだが、5月に写真集『photographs』(パワーショベル)を刊行した。今回はその出版にあわせて、「プロの写真の読み手の話を聞いてみたい」ということで実現した企画であり、北里義之プロデュ─スによる「混民サウンド・ラボ・フォーラム」の一環として、吉祥寺の音楽カフェで開催された。森重の写真はとりたてて気を衒ったり、特別な被写体にカメラ(ライカM3だそうだ)を向けたりしたものではなく、基本的には日常の場面をスナップしたものだ。ただ、ものを見る角度に音楽家らしいセンスのよさがあり、写真の並べ方にもリズム感があってすっと目に馴染じんでくる。ただ、何げなさそうに見えて、ところどころに落とし穴が仕掛けられている。例えばかなりの枚数が収録されている入院中の年配の男性の写真があって、その中の一枚を見ると右足の膝から下がないのがわかる。あるいは下着姿の女性の背中にカメラを向けた写真があり、彼女が横たわるベッドのシーツの血の色が、それ以後も何度も反復して繰り返される。このような微妙な手つきから浮かび上がってくるのは、薄皮一枚下に何かしら不穏な気配を抱え込む日常のあり方だ。それらの場面には、さまざまな引力や斥力がせめぎあっていて、ちょっとした刺激で破裂しそうな緊張感を覚えるのだ。今回のイベントでは、トークに加えて、写真集におさめた写真を2倍以上に拡張した200枚あまりの映像によるスライドショーと、チェロによる即興演奏がおこなわれた。音楽を聴いていても、写真と同様に薄い皮膜を少しずつ引き伸ばしていくような印象は変わらない。森重の作品のような「異種格闘技」的な試みはとても貴重なものだと思う。僕自身も普段とは違った感覚が覚醒してくる気がした。
2010/07/25(日)(飯沢耕太郎)
石川真生「セルフポートレート─携帯日記─」「日の丸を視る目」/「Life in Phily」「熱き日々 in キャンプハンセン」
[東京都]
- 石川真生「セルフポートレート─携帯日記─」「日の丸を視る目」
- 会期:2010年7月23日~8月21日
TOKIO OUT of PLACE[東京都] - 「Life in Phily」「熱き日々 in キャンプハンセン」
- 会期:7月23日~8月15日
ZEN FOTO GALLERY[東京都]
沖縄の“女傑”石川真生が今年も東京で個展を開催した。しかも去年も展覧会を開催した東京・広尾のTOKIO OUT of PLACEに加えて、今年は渋谷のZEN FOTO GALLERYでも、あわせて4つのシリーズを同時に展示している。クレイジーに暑い夏がますますホットになるような、熱気あふれる作品群だ。TOKIO OUT of PLACEでは5回の手術を受けた自分自身に携帯電話のカメラを向けた「セルフポートレート─携帯日記─」と、日の丸の旗についてのそれぞれの思いをパフォーマンスとして表現してもらう「日の丸を視る眼」(2009年撮影の撮り下ろし)を、ZEN FOTO GALLERYでは知り合いの黒人兵を追って彼の故郷のアメリカ・フィラデルフィアを訪問した「Life in Phily」(1986年)と、自ら黒人兵向けバーのホステスとして働いていた日々を記録した「熱き日々 in キャンプハンセン」(1974年)が展示されていた。どの作品も「何をどう見せたいのか」という視点と目標が明確で、ピンポイントに見る者の懐に飛び込んでくる強さを感じる。特に注目すべきなのは、1982年に比嘉豊光との共著として刊行されたデビュー写真集『熱き日々 in キャンプハンセン』(あーまん企画)に掲載された写真の貴重なヴィンテージ・プリントの展示だろう。この写真集は残念なことに写真集の被写体になった人たちとのトラブルがあって、絶版状態になっている。東松照明が「ミイラ取りがミイラになった」と称した体当たりの撮影の迫力は、ごくわずかだけ保存されていたというプリントからもいきいきと伝わってきた。石川真生自身が撮る側と撮られる側に分裂してしまうという写真集の構造自体も面白い。むずかしいとは思うが、写真集の復刊が実現できると素晴らしいのだが。なお2つのギャラリーの共同出版で、写真集『Life in Phily』が刊行されている。
2010/07/24(土)(飯沢耕太郎)
渡邊博史「LOVE POINT」
会期:2010/07/07~2010/07/20
銀座ニコンサロン[東京都]
渡邊博史は『私は毎日、天使を見ている』(窓社、2007)でエクアドルの精神病院を、『パラダイス・イデオロギー』(窓社、2008)では北朝鮮への旅をテーマにした写真集を刊行し、写真展を開催した。そして今回の「LOVE POINT」のシリーズでは、「ラブドール」(いわゆるダッチワイフ)というとても興味深い被写体にカメラを向けている。シリーズごとにまったく違う領域にチャレンジしているわけで、その意欲的な姿勢は高く評価されるべきだろう。とはいえ、彼の基本的な関心が「人間」と「人間ならざるもの」(あるいは「人間モドキ」)との境界線を見定めることにあるのは明らかだ。精神病者にしても、北朝鮮のどこかロボットめいた兵士やウェートレスにしても、そして今回の「ラブドール」たちにしても、どこまでが本物でどこからが偽物なのかが、写真というイメージ生成装置を介することで曖昧に見えてくるのだ。さらに今回はそれに輪をかけるように、「ラブドール」の写真に、生身の少女たちにメーキャップしてコスプレの衣裳を着せてポーズをとらせた写真が紛れ込んでいる。そのあたりの微妙な計算が隅々まで行き届いていて、見る者を謎めいたイメージの迷路に引き込んでいく。なお「LOVE POINT」という印象的なタイトルは、同時期に冬青社から刊行された写真集の表紙にも使われた、店の看板の写真から採られている。渡邊が岐阜県中津川で偶然撮影したものだそうだが、女の子の横顔の上に記されたこの言葉がやはりうまく効いているのではないだろうか。写真を見る者一人ひとりが、そこからそれぞれの物語を育てることができそうに思える。
2010/07/18(日)(飯沢耕太郎)