artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
時の宙づり──生と死のあわいで
会期:2010/04/03~2010/08/20
IZU PHOTO MUSEUM[静岡県]
とても豊かでスリリングな展示である。写真とはこういうものだという可能性を鮮やかに証明している。とはいえ、展覧会に出品された展示物を見れば、とりたてて特別な作品が並んでいるわけでもない。もし学芸員にセンスがあれば、ほかの日本の美術館でもこれくらいの写真展は充分に可能だろう。むろん、そのセンスの欠如というのが致命的ではあるのだが。
タイトルを見るただけでは何だかよくわからないと思うが、展示されているのはいわゆる「遺影」が中心である。あの、日本なら葬儀の会場や仏壇に祀られる類の写真だ。本展のゲスト・キュレーターであるアメリカの写真史家、ジェフリー・バッチェンは、2004年に無名の職人や死者の家族の手で作られたそのような写真を集めて「Forget Me Not: Photography and Remembrance(私を忘れないで:写真と記憶)」展(ヴァン・ゴッホ美術館、アムステルダムほか)を開催した。今回はその続編というべき展示で、過剰な装飾物や故人の髪の毛などが添付された「ハイブリッド写真」、メキシコ系の住人たちのあいだで好まれた「写真彫刻」、葬儀用の花束と遺影写真を組み合わせたキャビネット・カードなどが出品されている。さらに日本での調査の結果を反映して、写真を焼き付けた骨壺、明治期の肖像写真(アンブロタイプ)、故人の写真を元にして描かれた肖像画など、非常に興味深い写真/絵画群が付け加えられた。これらはたしかに死という絶対的な出来事を呼び起こす図像ではあるが、同時にさまざまな操作によって、そこに写っている被写体をいまなお生きているかのように撮影し、加工したものでもある。つまりこれらの「遺影」は「生と死の間で宙づりになっている」のだ。
それに加えて、バッチェンが本展のために構成したのが、撮影者の「影」が写り込んでいるスナップ写真のパートである。これもとても魅力的なテーマで、影は被写体となった人物と撮影者の「間」に侵入しており、画面の内と外を媒介する働きをしている。さらに言えば、その写真を見る鑑賞者にとっては、あたかも自分の視線が物質化してそこに写っている人物に迫っているようにも感じられるだろう。この「影」の存在も、どこか不安定な「宙づり」の感覚を引き出してくるのではないだろうか。これら「影」が写っているスナップ写真は、ほとんどが無名の庶民たちによってごく日常的に撮影され、アルバム等に貼られて保存されてきたものだ。ところがその中に、さりげなく森山大道とリー・フリードランダーの写真が紛れ込ませてある。このあたりの展示構成も実にうまい。つまり、ここでも意図的な「影」の使用と、その無意識的なあらわれとの「間」が浮かび上がってくるのだ。
「遺影」と「影」のスナップ写真という組み合わせは、ややかけ離れているように見える。それを繋いでいるのが、バッチェンが近年提唱している「ヴァナキュラー写真」という考え方である。プロフェッショナルの、あるいはアート志向の写真家たちの作品ではなく、無名の撮影者によって日常的に制作されてきた「ある土地に固有の」写真群。それらをむしろ人類学的に読み解くことで、写真を単一の共通概念であるphotographyではなく、複数形のphotographiesとして見る視点が生まれてくる。「ヴァナキュラー写真」を、写真がどんなふうに使われているのかという実践的なアプローチとしてとらえ直そうとするバッチェンの試みはとても刺激的である。作家、作品中心主義の写真展のキュレーションに一石を投じるものといえるのではないだろうか。
2010/04/03(土)(飯沢耕太郎)
伊藤義彦「時のなか」
会期:2010/02/18~2010/03/31
フォト・ギャラリー・インターナショナル[東京都]
伊藤義彦は1980年代から、緻密な観察に基づいた、思索的な作品を作り続けてきた写真家。フィルム一本分を撮影したコンタクトプリントの全体が、あるパターンとして見えてくるシリーズで知られていたが、2000年代から新たな試みを開始した。印画紙を手で引き裂き、その切断面を薄く削ぐようにして別な場面と繋いでいく。フォト・コラージュの手法のヴァリエーションではあるが、そのイメージがずれながら継ぎ合わされていく細やかな手触り感には独特の魅力がある。
今回の展覧会の中心となるのは「ハシビロコウと影」(2008年)のシリーズ。嘴の広いコウノトリの一種が、壁に影を落としてじっと立ちつくしている写真を繋ぎ合わせている。鳥がそこにいる、というだけの写真の集積には違いないのだが、そこにはどこか不吉だが懐かしくもある実在感が備わっている。それはまた、このような光景を以前どこかで(夢の中で?)見たことがあるという既視感を呼び起こすものでもある。このような実在と夢想との間に宙吊りになるような感覚こそ、伊藤がこのフォト・コラージュの手法を使って定着しようと試みているものだろう。展覧会にあわせて刊行されたリーフレット(「P.G.I Letter 226」)にこんなことを書いている。
「時間と空間の切り目の無い世界のなかで、様々なものを観察しながら過ごしている。変わってゆくものと変わらないもの。変わりつつあるけれど気がつかないこと。このようなことを思っていると、空想が頭の中で増殖する。[中略]このような空想や幻想、妄想を抱え、想像しながら創作の入口を探すことにしている」。
創作者の探求の筋道とは、まさにこのようなことなのだろう。この文章を読んでから作品を見直すと、それが伊藤の観察と空想との見事な結合体であることにあらためて気づかされた。
2010/03/26(金)(飯沢耕太郎)
高橋宗正「スカイフィッシュ」
会期:2010/03/19~2010/04/18
AKAAKA[東京都]
高橋宗正と最初に会ったのは2001年頃、まだ彼は20歳そこそこの写真学校の学生だったはずだ。その頃からセンスのよさはずば抜けていたのだが、逆に器用にまとまってしまいそうな予感もあった。その後、彼は中島弘至とSABAというユニットを組んで、2003年の「写真新世紀」で優秀賞を受賞する。だが、それからしばらくは模索の時期が続いていたようだ。今回、赤々舎から最初の写真集『スカイフィッシュ』が刊行され、同名の展覧会も開催された。しばらくぶりで彼の作品をまとめて見ることができたのだが、明らかに一皮むけて、成長の跡が刻みつけられていた。昨年やはり赤々舎から写真集を出した佐伯慎亮もそうなのだが、公募展などで受賞後、きちんと自分の世界を形にすることができた写真家たちを見ると、嬉しいだけでなくほっとさせられる。そのままどこかに消えてしまう場合も多いからだ。
今回のシリーズには、特にテーマらしきものはない。折りに触れて撮影した写真の集積だが、彼が出会った小さな奇跡のような瞬間が的確に捉えられ、みずみずしく、開放的な気分のあふれる作品に仕上がっている。つねに何かに驚きの目を見張っているような少年らしさが、消えることなく残っているのが彼の眼差しの特徴で、鉱物と液体のあいだくらいの透明感のあるイメージに特に偏愛があるようだ。最初の写真が氷の上に一歩踏み出そうとしている遠景の人物、最後の写真が水の上に立つ彼自身を思わせる若者の後ろ姿──このあたりのまとまりのつけ方もなかなかうまい。「空飛ぶ幻の魚」(スカイフィッシュ)のように世界を軽やかに滑空していく気持ちのよさを保ちつつ、さらに暗い水底の深みまでも視線を伸ばしていってほしいものだ。
2010/03/24(水)(飯沢耕太郎)
関口正夫「光/影」
会期:2010/03/08~2010/03/21
ギャラリー蒼穹舎[東京都]
関口正夫は牛腸茂雄と桑沢デザイン研究所で同級だった。1968年に同校研究科写真専攻を卒業後、さまざまな職業を転々としながら路上のスナップ撮影を続け、2008年に62歳でやはり桑沢の同級生の三浦和人との2人展「スナップショットの時間」(三鷹市美術ギャラリー)を開催した。今回の個展の作品は、1980年代から約30年間の写真から選んでいるという。
関口は学生時代からスナップショットに天賦の才能を発揮してきた。目の前にあらわれた光景を、何気なくつかみ取っているだけに見えて、フレーミングは的確であり、魅力的な光と影のパターンをきちんと画面におさめている。スナップの技術は、狙うのではなく呼び込む能力を磨くことにあると思うが、その構えが最初からしっかりできあがっているのだ。ことスナップということだけで見れば、牛腸茂雄よりも才能は上、日本の写真家でいえば木村伊兵衛並みではないだろうか。ところが近作になるにつれて、その画面構成にブレや揺らぎが生じてくる。普通ならばマイナス要因になりそうなのだが、この“スナップの天才”にかかると、それすらも面白いものに見えてくるから不思議だ。若い女の子を撮影した何枚かの写真には、明らかに彼女たちが発するエロスへのストレートな条件反射があらわれていて、ぬけぬけとそういう写真も出してくることに思わず笑いがこぼれてしまった。最近どうも肩が凝る写真ばかりが目につくので、こういう渋い味わいのスナップショットが妙に気になってしまう。
2010/03/18(木)(飯沢耕太郎)
北野謙「溶游する都市」
会期:2010/03/05~2010/03/21
UP FIELD GALLERY[東京都]
北野謙はパリ・フォトなどのイベントにも積極的に参加して、国際的に注目を集めはじめている写真家。代表作はさまざまな地域や職業の人たちの姿を一枚の印画紙に重ね合わせてプリントした「our face」のシリーズだが、実はそれ以前の1989~97年に本作「溶游する都市」を制作していた。今回はそれをまとめた大判写真集『溶游する都市/Flow and Fusion』(MEM INC)の刊行にあわせた個展である。
長時間露光によって、街を行き過ぎる群衆や風に揺らぐ樹木などがブレることで、何とも形容しがたい白昼夢のような光景が出現する。手法的には特に目新しいものではないが、場所の選択と画面構成力が優れているので、見る者を引き込む魅力を備えた作品に仕上がっている。2009年のパリ・フォトでは、オリジナル・プリント付きの特装版を含めてこの写真集が60冊売れたそうだ。202ドル(日本での販売価格は1万8900円)という値段を考えると、いかに彼の写真が玄人受けするいぶし銀のようなテイストを備えているかがわかるだろう。北野のようにオリジナル・プリントと質の高い写真集で勝負する写真家がもっと増えてくるといいと思う。
2010/03/18(木)(飯沢耕太郎)