artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

セバスチャン・サルガド「AFRICA」

会期:2009/10/24~2009/12/13

東京都写真美術館 2階展示室[東京都]

僕は1979年以来、ケニア・タンザニアを中心に東アフリカを何度も訪れている。通算の滞在期間は1年以上になるだろう。まだ個人的な趣味の範疇だが、そのうちスワヒリ文化を中心として何か書いてみたいとも思っている。だから、他の人よりは多少アフリカについて語る資格はあると思う。
結論的にいえば、セバスチャン・サルガドの「AFRICA」はアフリカではない。そこにあるのは壮大な自然と虐殺や飢餓の悲惨な状況だけで、その「間」が完全に欠落しているからだ。モノクロームの大きな写真は、例によって完璧な構図、ドラマチックな躍動感にあふれており、観客を引き込む力を備えている。サルガドのアフリカの人びとに対する善意、このような写真を通じてこれ以上の環境の悪化や貧困を食い止めたいという意志も充分に伝わってくる。にもかかわらず、肝心のそこに生きている人々の生の手触りがまったくというほど見えてこない写真は、ある種の誤解を引き起こしてしまうのではないだろうか。被写体と観客との間に横たわる大きなギャップ(実際にはそれだけでもない)のみが強調されてしまうからだ。
もう一つ感じたのは、たとえばルアンダの内戦を扱う場合、旧植民地時代から支配者の手先の役目を果たしてきたツチ族と、多数派のフツ族との複雑にねじ曲がった歴史を、キャプションの段階できちんと伝えないと、虐殺や難民化がなぜ起きたかが理解されず、単純に悲劇的な出来事として片付けられてしまうのではないかということだ。われわれはあまりにも簡単に「アフリカ」と一括りにしてしまいがちだが、北のイスラム圏と南のブラック・アフリカ、旧イギリス植民地の東アフリカとフランス植民地の西アフリカでは、歴史も文化も社会的な慣習もまったく違っている。しかもアフリカ諸国はモザイク状の部族社会の集合体であり、同じ国でも言葉が通じないというようなことはざらにある。残念なことに、サルガドの展覧会はそのあたりについての配慮を決定的に欠いている。会場の狭さとか、キャプションの翻訳とかの問題では片付けられない、基本的な鈍感さがそこにあるのではないかとすら疑ってしまう。

2009/11/06(金)(飯沢耕太郎)

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原久路「バルテュス絵画の考察」

会期:2009/10/27~2009/11/01

TOTEM POLE PHOTO GALLERY[東京都]

なんとも不思議な作品。静謐な雰囲気のモノクロームのポートレートが並んでいるのだが、それらは皆どこかで見たような印象を与える。それもそのはず、すべて「20世紀最大の画家」バルテュスの作品の構図をそのままなぞり、モデルを使って活人画風にその場面を再現しているのだ。とはいえ、フランスの豪奢な邸宅は日本家屋に置き換えられ、モデルはセーラー服や学生服を着ていて、背景の家具・調度もそれぞれ別なものになっている。だが全体としてみると、バルテュスの《居間》(1942/47)、《美しい日々》(1944/49)、《本を読むカディア》(1968)などの作品の雰囲気は、とてもよく再現されているといえるだろう。そのエッセンスにかなり深く肉迫しているように感じられるのだ。
作者の原久路がなぜこんな作業を思いついたのかは知らない。どちらにしても、絵画の画面を写真に移し替えていくのには、大変な手間と時間がかかり、繊細な集中力が必要だったことは容易に想像がつく。「絵画の空気遠近法を表現するために」、テレビの撮影などで使う濃縮した液体で霧を発生させる機械を利用しているのだという。また、バルテュスの絵のポーズは実際にやってみると、かなりアクロバティックで無理な体位のものが多いのだそうだ。そんな苦労を楽しみつつ、細かな作業に無償の情熱を傾けている様子が、画面からじわじわと伝わってきた。絵画と写真の独特のハイブリッド様式のスタイルが形をとりつつあるように見える。

2009/11/01(日)(飯沢耕太郎)

対照 佐内正史の写真

会期:2009/10/10~2010/01/11

川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]

佐内正史が持ち直しているのがわかって、とりあえずほっとした。昨年から立ち上げたネット販売の写真集レーベル「対照」の最初の3冊、『浮浪』『DUST』『trouble in mind』があまりにもひどい出来だったので、これはもう佐内の神通力も失せたのではないかと、内心見限っていたのだ。
ところが、今回の岡本太郎美術館の展示(大きなテーブルの上にプリントを並べるアイディアがすごくよかった)を見る限り、近作の『ARCA』『彩宴』『EVA NOS』『フラワーロードの世界』では、いかにも佐内らしい、スキップしつつ、リズミカルに被写体に弾を撃ち込んでいくような感覚がよみがえってきている。これはつまり、佐内の写真のあり方が、彼自身の精神的、身体的なバイオリズムを忠実に反映していることのあらわれだろう。要するに、彼のアンテナがちょっとでも錆びついてくると、てきめんに写真のボルテージが落ちてくるのだ。「自分」以外に写真を撮り続ける基準を持たない写真家の強みと弱みが、そこにははっきりとあらわれている。その不安定感が、佐内の写真の持ち味でもあるのだが、もう少しなんとかならないかとも思ってしまう。自己完結することなく、他者や社会とも風通しよく繋がっていくようなシステムを写真に導入することができれば、彼は「この時代」を体現し、代表するいい写真家になると思うのだが、それができないのがなんとももどかしい。このままでは、センスのいいインディーズ・バンドで終わってしまうだろう。それでいいのだろうか。

2009/10/29(木)(飯沢耕太郎)

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荒木経惟「広島ノ顔」

会期:2009/10/10~2009/12/06

広島市現代美術館[広島県]

「アラーキーと写真」というレクチャーをするために広島市現代美術館に行ってきた。同館で開催中の荒木経惟「広島ノ顔」展の関連企画である。2002年に大阪からスタートをした「日本人ノ顔」プロジェクトも、福岡、鹿児島、石川、青森、佐賀と続いて今回で7県目。既に6,000人以上の公募モデルのポートレートが撮影済みという。とはいえ全国47都道府県を全部網羅するのが目標という壮大な企画だから、まだまだ先は長い。あとは荒木の体力と気力がどこまで続くかということだが、今の勢いを考えると何だかやってのけそうな気もする。もし完成すれば、個人の写真プロジェクトとしては史上最大級のものになるのは間違いないだろう。
レクチャーのために、以前の写真集と「広島ノ顔」を比較してみると、撮影のやり方や様式が少しずつ変化しているのがわかる。以前は単独のモデルの顔写真が多かったのだが、「石川ノ顔」のあたりから家族やグループの、全身像に近い写真が増えてきた。一人の“顔”に視線を集約していくだけでなく、集団の横の繋がりを意識させるようになってきているのだ。撮り方も、ブレや揺らぎ、画面の傾きが目立つようになってきている。フレーミングを保ち続ける集中力が落ちてきているということだろう。だが、それをマイナスととらえるのではなく、むしろ荒木自身の変化とプロジェクトそのものが一体化することをめざすべきではないかと思う。倒れるまで、いや倒れても撮り続けて、文字通りの「ライフワーク」にしてしまえば、これまでにない写真による日本人論の形が見えてくるはずだ。

2009/10/24(土)(飯沢耕太郎)

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杉本博司「光の自然(じねん)」

会期:2009/10/26~2010/03/16

IZU PHOTO MUSEUM[静岡県]

新しく静岡県東郡長泉町のクレマチスの丘に開館したIZU PHOTO MUSEUMのプレス・ツアーに出かけてきた。隣接するヴァンジ彫刻庭園美術館では、2006年以来松江泰治、古屋誠一、川内倫子らの写真展が開催されてきたが、その実績を踏まえて、写真専門の美術館としてオープンしたのがIZU PHOTO MUSEUMである。建物と中庭の設計は、オープニング展の招待作家である杉本博司自身であり、展示室が二部屋しかない小ぶりな美術館だが、すっきりとまとまっていて使い心地はよさそうだ。細部まで杉本の「モンドリアン風の数寄屋造り」というコンセプトが貫かれている。
オープニング展の「光の自然」は、静電気を放電させて山水画を思わせるイメージを印画紙にフォトグラムで定着した「放電日月山水画」(長さ、15メートル)と、写真術の発明者であるW・H・F・タルボットが1830~40年代に撮影したカロタイプのネガをポジ画像として拡大した「光子的素描(フォトジェニック・ドローイング)」シリーズの二部構成。写真のオリジンというべき光そのものの生成と物質化の過程を追体験するという展示は、新しい写真美術館のスタートにふさわしいものといえるだろう。新幹線・三島駅からシャトルバスで20分ほどかかるという立地条件は、たしかにあまりいいとはいえないが、周囲の環境はとてもよく、一日をつぶしても充分お釣りが来る。これから年3回程度の企画展を開催していく予定。次回は2010年4月から、アメリカの写真史家、ジェフリー・バッチェンが企画する「時の宙吊りー生と死のあわいで」展が開催される。

2009/10/23(金)(飯沢耕太郎)