artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
『野島康三写真集』
発行所:赤々舎
発行日:2009年7月17日
かえすがえす残念だったのは、京都国立近代美術館の「野島康三 ある写真家が見た日本近代」(2009年7月28日~8月23日)を見過ごしてしまったこと。ついもう少し長く会期があるように錯覚していて、気がついたら展示が終わっていたのだ。展覧会とほぼ同時期に、赤々舎から写真集が出ているので、そちらを取り上げることにしよう。
野島康三(1889~1964)は、いうまでもなく日本の近代写真の創始者の一人。写真家として重厚なヌードやポートレートで高度な表現領域を切り拓くとともに、洋画専門の画廊、兜屋画堂の経営(1919~20)、月刊写真雑誌『光画』の刊行(1932~33)など、日本の戦前の芸術・文化の状況に重要な足跡を残した。本書は京都国立近代美術館に保存されている彼の作品のほとんどすべてをおさめた、決定版といえる写真集である。ページをめくれば、野島が日本の写真家にはむしろ珍しい、強靭な視線と骨太の造形力の持ち主だったことがわかるはずだ。以前、アメリカの「近代写真の父」アルフレッド・スティーグリッツと野島の作品が並んで展示されているのを見た時、野島の方が圧倒的に力強いオーラを発しているのに驚嘆したことがある。今回の写真集及び写真展では、これまであまり注目されてこなかった『光画』以後の、技巧をこらしたモード写真や静物写真、また彫刻家・中原悌二郎や陶芸家・富本憲吉の作品集のために撮影された写真などにもスポットが当てられている。野島の作品世界の全体像がようやく姿をあらわしてきたといえるだろう。
写真集のレイアウトで気になったのは、初期の「にごれる海」(1910~12頃)など、「芸術写真」の時代の名作のいくつかが、断ち落としで掲載されていること。このように画面の端が切れてしまうと、絵画的な、厳密な美意識で為されていたはずのフレーミングがわかりにくくなってしまうのではないだろうか。
2009/08/27(木)(飯沢耕太郎)
後藤剛「日日日日。2001─2008」
会期:2009/08/17~2009/08/30
蒼穹舎[東京都]
後藤剛は1970年生まれ、大阪在住のアマチュア写真家だが、2000年代初頭から街歩きのスナップ写真を撮り続けてきた。今回の展示は蒼穹舎から同名の写真集が刊行されたのをきっかけにして、これまでの作品をまとめたもの。大阪・兵庫を中心にどこか「昭和」の匂いのする光景が写しとられている。「斜陽」という言葉がふと頭に浮かぶ。別に西陽の写真がとりたてて多いわけではないのだが、夕方の、闇が迫ってくる時や季節の哀感が、写真全体から滲み出ているように感じるのだ。また、どうしても尾仲浩二の旅のスナップを思い出してしまう。被写体に対峙する距離感が共通しているのだろう。画面の細部からわらわらと湧き出てくる、建物や通行人たちの表情がなかなか味わい深い。もう既にスタイルとしては確立しているので、これくらいの質の写真はいくらでも撮れるのではないか。とすると、もう少し違ったテーマにチャレンジしてもいいのではないだろうか。
2009/08/23(日)(飯沢耕太郎)
松本陽子/野口里佳「光」
会期:2009/08/19~2009/10/19
国立新美術館[東京都]
絵画と写真、2人の女性アーテストによる2人展。松本に「光は荒野のなかに輝いている」(1992~93)というシリーズがあり、野口にも「太陽」(2005~08)というシリーズがあるなど、一応「光」というテーマがゆるく設定されているが、実際には2人の独立した回顧展といってよい。
野口は1990年代の「フジヤマ」(1997)から近作の「虫と光」(2009~)まで、意欲的に作品の幅を広げ、ライトテーブルを使ったインスタレーション(「白い紙」2005)や、島袋道浩との共同制作のビデオ作品(「星」2009)などさまざまな手法にチャレンジしはじめている。ちょうど伊島薫の太陽の作品を見た後だったのでより強く感じたのだが、照明を暗く落とした部屋に、スポットライトをあてて作品を見せる「太陽」のインスタレーションなどを見ると、野口と伊島の世代では、展示の意識と仕上げにかなり差がついてしまっているように感じる。90年代以降、印刷媒体からギャラリーや美術館での展示に作品の最終的な発表の媒体が変わったことの影響とその消化のあり方の違いが、端的にあらわれてきているのだ。
もう一つ松本の作品を見ながら考えたのは、同じく「光」を扱うにしても、絵画と写真ではその見え方が違ってくるということ。絵画は「光」を現在形で、その生成や変化の相でとらえることができるのに対して、写真はどうしても過去形、「かつてあった出来事」としてしか定着することができない。それを何とか「生まれつつある」形で提示するために、野口はさまざまな工夫を凝らしている。ブレ、ボケ、滲み、ハレーション──論理的で明晰な構造を備えた野口の作品にそのような「揺らぎ」が付加されているのはそのためなのだろう。
2009/08/23(日)(飯沢耕太郎)
伊島薫「一つ太陽─One Sun」
会期:2009/08/22~2009/09/23
BLD GALLERY[東京都]
伊島薫は女優たちが死者を演じる「最後に見た風景」のシリーズを撮り続けるうちに、死の恐怖から逃れるための「宗教」がほしくなったのだという。自分にとって「宗教」とは何かを自問自答しているうちに「一つ太陽─One Sun」に行き着いた。この世にただ一つしかない、あまねく世界を照らし出す太陽──たしかに「自然に手をあわせたくなる対象」として、これほどふさわしいものはないだろう。さらにいえば、光の源泉である太陽は、写真家にとっては神そのものであるという解釈も成り立ちそうだ。
この「一つ太陽」シリーズのコンセプトはきわめて単純だ。「魚眼レンズを使って日の出から日没までの太陽の軌跡を長時間露光で一枚の写真に収める」ことで、円形の画面に太陽が大きな弧を描き出す。北極圏のような場所では、白夜になるため太陽の軌跡は丸い円を描く。このあたりのストレートなアプローチと、富士山頂や赤道上を含む綿密で粘り強い撮影作業の積み重ねは、いかにも体育会系の写真家である伊島らしいといえるだろう。
ただ残念なことに、展示が小さくまとまってしまった。つるつるのプラスティックでコーティングしたような仕上げではなく、もっとざっくりとした荒々しいインスタレーションの方が、テーマにふさわしかったのではないだろうか。広告や雑誌を舞台にする写真家の展示に共通する弱点が、この場合にもあらわれてしまったということだろう。
2009/08/22(土)(飯沢耕太郎)
岡本太郎・東松照明 写真展「まなざしの向こう側」
会期:前期(本島・久高島編)2009/05/23~2009/06/28
後期(離島編)2009/07/11~2009/08/30
沖縄県立博物館・美術館 コレクションギャラリー1[沖縄県]
インタビューの仕事で、皆既日食の日に、長崎から沖縄・那覇に拠点を移しつつある東松照明氏を訪ねる。ついでに2007年に新装オープンした沖縄県立博物館・美術館で、岡本太郎と東松照明の写真コレクション展を見ることができた。ちょうど開催されていたのは会期の後期にあたる「離島編」で、作品は各18点ほどと少ないが、緊張感あふれるいい展示だった。岡本は1959年の最初の渡沖の時に撮影された石垣島、宮古島、竹富島の写真、東松は1971~73年に撮影された奥武島、伊平屋島、宮古島、波照間島などの写真が中心で、1991年の多良間島のカラー写真もある。
これまで、この二人の沖縄に対するアプローチの仕方は、かなり異なっている印象があった。時代も違うし、撮影の動機も、それぞれの問題意識もかけ離れている。だが、あらためて見ると、むしろ二人の写真の等質性の方が目についてくる。表層的な現実を突き抜けて、そこにある風景の原質、古層というべきイメージを立ち上げるやり方、被写体となる人間や事物のディテールに細やかに分け入りつつ、全体を大きく みとる力──そのあたりがとても似通っているのではないだろうか。二人に共通する民俗学─人類学的な「まなざし」が、沖縄という希有な場所と出会ってスパークし、揺れ騒ぎ、見る者に飛びかかってくるような躍動感のあるイメージ群として形をとっている。
2009/08/22(土)(飯沢耕太郎)