artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
清野賀子『至るところで 心を集めよ 立っていよ』
発行所:オシリス
発行日:2009年9月19日
自ら命を絶ってしまったという清野賀子の遺作写真集。前作の『THE SIGN OF LIFE』(オシリス、2002年)からは、もう一つその立ち位置、狙いが伝わってこなかったのだが、この写真集からは差し迫った心の動き、これを見せたいという思いが伝わってくる。揺らぎ、傾き、歪み、間隙といった要素が強まり、特に散在するヒトの写真に痛々しさを感じないわけにはいかない。
あとがきにあたる文章に「もう『希望』を消費するだけの写真は成立しない。細い通路を見出して行く作業。写真の意味があるとすれば、『通路』みたいなものを作ることができたときだ。『通路』のようなものが開かれ、その先にあるものは見る人が決める。あるいは、閉じているのではなく、開かれているということ」とある。だが文章の最後は「それでもあきらめず、『通路』を見出し続けることが大切。いや、大切とすら本当は思っていない」と書く。このような「希望」と「絶望」の間を行ったり来たりしながら、消しゴムで消すように最後は「希望」をぬぐい去ってしまう身振りが、写真集全体にあらわれているのだ。でも僕は、この写真集では、「見る人」に向けられた「通路」はきちんと確保されていると思いたい。なお、印象的なタイトルは、ドイツの詩人、パウル・ツェランの詩「刻々」から採られている。
2009/10/18(日)(飯沢耕太郎)
尾形一郎/尾形優「HOUSE」
会期:2009/10/16~2009/11/02
FOIL GALLERY[東京都]
尾形一郎(当時は小野一郎の名前で活動)が以前発表した「ウルトラバロック」のシリーズは、なんとも印象深い作品だった。メキシコの教会内部の、目がくらくらするような過剰な装飾を、8×10カメラで緻密に記録した建築写真のシリーズである。それから10年あまりが過ぎ、奥さんの尾形優と共作したのが今回の「HOUSE」で、「ナミビア:室内の砂丘」「中国:洋楼」「ギリシャ:鳩小屋」の3シリーズが展示されていた。砂に埋もれつつあるダイヤモンド鉱山で栄えたナミビアのゴーストタウン、海外で稼いだお金で中国の片田舎に建てられた洋風建築、ギリシャ正教の聖地であるティノス島の素朴な作りの鳩小屋という、かなり珍しい被写体を扱っている。
その目のつけどころが、いかにも一級建築士の資格を持つ「ウルトラバロック」の作者らしい。有名建築家の作品ではないが、その土地固有の様式と奇妙にねじ曲がったイマジネーションが混淆した、バロック的な建築群。ヴァナキュラーな様式美への徹底したこだわりと、建築家の視点でしっかりと構築された画面構成が融合していて見応えがある。人が家を建てて住むという行為が、たとえば言葉で何かを表現するのと同じように、単純素朴なストレートな形ではおこなわれないこと、そこに何かしら過剰な身振りが付け加えられ、思っても見なかった方向に伸び広がっていくことを、これらの写真は教えてくれる。
なお、同時に刊行された写真集『HOUSE』(FOIL)は、展示された3シリーズに「沖縄:構成主義」「メキシコ:ウルトラバロック」「日本:サムライバロック」のパートを加えて構成されている。沖縄の基地の周辺のコンクリート住宅群にロシア構成主義の要素を見出したり、日光東照宮と霊柩車が共通の美意識によって作られているのを発見したりする、スリリングな眼の愉しみを味わわせてくれる写真集だ。
2009/10/16(金)(飯沢耕太郎)
村田兼一「屋根裏の写真師」
会期:2009/10/02~2009/10/21
ギャラリーミリュウ[東京都]
前に一度、大阪郊外にある村田兼一の自宅兼スタジオを訪ねたことがあるのだが、実に面白かった。彼の家は戦前に建てられたという旧い木造家屋で、本当に屋根裏部屋がある。そのあまり広くはないスペースをスタジオに改造し、照明や小道具を持ち込んで、秘密めいた撮影を続けているのだ。
そこで繰り広げられているのは、年若い女の子たちが裸体で淫らなポーズをとる、あまりお行儀がいいとはいえないセッションである。だが、そうやって撮影され、きめ細やかな手彩色を施されたプリントは、不思議な優しさと安らぎを感じさせるものになっている。おそらく、モデルの女の子たちと村田との間に成立しているコミュニケーションの形が独特なのだろう。無理強いされたような窮屈さはまったく感じられず、モデルはむしろのびのびと、体の隅々までも開ききっているように感じられるのだ。写真のほとんどは、村田が設定した“物語”に沿うように撮影されているのだが、それもまたあまり強制力を持つことがない。写真全体に漂うゆるさと、性的なイマジネーションのエスカレートぶりが絶妙なバランスを保っている。おそらく、あの奇妙な「屋根裏」のスペースが、魔術的な効果を発揮しているのではないだろうか。
2009/10/14(水)(飯沢耕太郎)
ニューアート展2009 写真の現在・過去・未来──昭和から今日まで
会期:2009/10/09~2009/10/28
横浜市民ギャラリー[神奈川県]
横浜開港150周年記念事業の一環として開催された写真展。他に横浜美術館で「近代日本の残像──幕末明治から大正へ」展(9月19日~11月23日)、横浜市民ギャラリーあざみ野で「Photo Communication」展(10月23日~11月8日)も開催された。横浜は1862年に下岡蓮杖が写真館を開業した「写真発祥の地」でもあり、このような連動企画はなかなか面白い試みだと思う。
関内駅前の横浜市民ギャラリーでの「写真の現在・過去・未来」展は、横浜市民ギャラリーと横浜美術館のコレクションからピックアップした「昭和の写真」、山手地区を撮影するという市民参加のプロジェクト「未来に残したいヨコハマの風景」、池田晶紀、進藤万里子、原美樹子の三人展「現代の写真表現」の三部構成である。やや総花的な企画で、焦点がぼやけているのは否定できないが、写真表現の多様な広がりをできるだけ噛み砕いて伝えたいという主催者側の意欲は伝わってきた。原美樹子の浮遊感のあるスナップ、「未来に残したいヨコハマの風景」のプロジェクトにアドバイザーとして参加した常磐とよ子の力強い作品などは、なかなか見応えがあったが、全体的に見ると、やや入り込みにくい印象を観客に与えたかもしれない。丁寧なキャプションやわかりやすい順路の設定など、もう一工夫必要だったのではないだろうか。
2009/10/12(月)(飯沢耕太郎)
写真と民俗学 内藤正敏の「めくるめく東北」
会期:2009/10/03~2009/11/08
武蔵野市立吉祥寺美術館[東京都]
写真家という人種には変人が多いが、内藤正敏はその中でも極めつけの一人。何しろ羽黒山で修験道の修業をして山伏の資格を持っているのだ。写真家としてもユニークな仕事ぶりが知られているが、むしろ民俗学の世界でその業績が高く評価されている。『遠野物語』の「山人」の描写を、山中を漂泊する金堀り師やタタラ師の活動と重ねあわせた「金属民俗学」、江戸や日光の寺院の配置を呪術的な都市計画として読み解く「徳川マンダラ」など、そのスケールの大きさとイマジネーションの広がりには驚くべきものがある。
今回の武蔵野市立吉祥寺美術館の展示は、その内藤の写真と民俗学の交叉のあり方を探ろうとするもの。薬品の化学反応を造形写真に応用した「コアセルベーション」「白色矮星」といった初期作品から、1960~70年代の「婆バクハツ!」「遠野物語」などを経て、80年代の「出羽三山の宇宙」に拡大し、近作の山岳信仰の世界を写真によって定着しようとする「神々の異界」に至る作品の流れを辿ることができた。全27点と数は少ないが、大きく引き伸ばされた写真から、あの話し出したら止まらない内藤のマシンガン・トークが聞こえてきそうな、活気あふれる展示だ。「私にとって、写真がモノの本質を幻視できる呪具であるとすれば、民俗学は見えない世界を視るための“もう一つのカメラ”だ」。彼の写真と民俗学に対する姿勢は、この言葉に尽きるだろう。「シャーマンとしての写真家」の原点というべきその存在感は、ますます大きなものになってきている。
2009/10/12(月)(飯沢耕太郎)