artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

石塚元太良『LENSMAN』

発行所:赤々舎

発行日:2009年5月30日

石塚元太良と石川直樹はどこか似ている。精力的な旅人というポジションに立ち、旺盛な創作意欲で次々に作品を発表している。着眼点がよく、撮影の方法論を的確に設定し、プリントの仕上げや展示も悪くない。にもかかわらず、いつも「物足りなさ」が残ってしまう。ボールを蹴る所まではいいのだが、それがすっきりとしたファイン・ゴールに結びつかないのだ。
このシリーズは、もしかすると石塚の転回点になる作品かもしれないとは思う。「あとがき」にあたる文章に彼が書いているように、今回は「特別どこにも出かけないで目のまえのモノたちを、普段見慣れたモノたちを、僕は次のモチーフとして撮るのだ」という意気込みで撮影された写真が並んでいるからだ。石塚はそのアイディアを、アラスカの石油パイプラインの撮影の終着点、北極圏のデッドホースという土地で思いついたのだという。地球上で最も遠い場所まで出かけていった時に、ふとかつて撮影した晴海のスクラップ工場の眺めを思い浮かべる。そしてさらに記憶をさかのぼって、幼年時、身のまわりのモノたちに違和感を覚えて「自分をつなぎ止めるようによく自分の手のひらを眺めていた」という原体験にまで行きつくことになる。
この方向づけはまっとうであり、彼がようやく写真家としてのスタートラインをきちんと引き直そうとしているのがわかる。だが、結果的にこの写真集から見えてくるのは「物足りなさ」であり「もどかしさ」だ。被写体としてのモノ、ヒト、記号の選択の仕方、その配置、レイアウト──すべて悪くはない。が、すとんと腑に落ちない。これがいま伝えたいものだというメッセージがクリアに焦点を結ばないのだ。どうすればいいのか。もがき続けるしかないだろう。「レンズマン」の旅はまだ始まったばかりなのだから。

2009/08/05(水)(飯沢耕太郎)

野村仁「変化する相──時・場・身体」

会期:2009/05/27~2009/07/27

国立新美術館[東京都]

日本を代表する現代美術アーティストの一人である野村仁。立体やインスタレーション作品も多いが、彼は本質的には「写真家」なのかもしれないと、代表作を集成した回顧展「変化する相──時・場・身体」を見て思った。彼の方法は、とりあえず流動し変容する世界を写真という画像形成システムにインプットする所から始まる。その場合、被写体が固定している場合と動いている場合、カメラ(眼)が固定している場合と動いている場合があり、その組み合わせは計8通りになる。いったんその組み合わせが決まれば、あとはほぼ自動的に撮影が進み、画像はとめどなく増殖していく。その進行にどこかで区切りを付けるために、秒、分、時、日、年といった時間の単位が導入され、その単位ごとにひとまとまりの作品が成立してくる。
言葉で書くとシステマティックな印象だが、実際にできあがってくる作品は偶発的な意外性にあふれ、網膜を気持ちよくマッサージするチャーミングな美しさを備えている。高度に論理的、知的でありながら何ともユーモラスでもある。とはいえ「見るものすべてを写す」というとんでもない構想によって、ムービーカメラのコマ撮り機能で10年間にわたり撮影した連続写真を、120冊の本の形にまとめた「Ten-Year Photobook 又は視覚のブラウン運動」(1972~82)といった作品には、ほとんど狂気すれすれの画像システムへの没入が垣間見える。刺激の多いラディカルな展示。個人的には、「宇宙はきのこのように発生したか」(1987)という作品を見ることができたのが大収穫だった。

2009/07/26(日)(飯沢耕太郎)

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鈴木涼子「Recent Works ANIKORA-Kawaii」

会期:2009/07/07~2009/07/31

ツァイト・フォト・サロン[東京都]

「ジェンダーをテーマに、人間の欲望や社会の歪みに焦点をあてた作品」を制作してきた鈴木涼子。「ANIKORA」のシリーズは、アニメ・キャラのフィギュア人形のボディに、自分自身の顔を画像合成で繋ぎ合わせるという意表をついた発想を展開する。フィギュアの身体パーツは若い男性の性的な欲望の投影であり、畸形的に巨大化した胸とお尻、極端に細い腰と長い脚で作られている。そのエロティックな媚態で、あくまでも受動的なポーズをとる人形に、典型的な日本人顔の鈴木の頭部を接続することで、どうにも身もふたもないズレが生じてくる。そのあたりの批評的でシニカルな笑いの取り方が、このシリーズの見所といえるだろう。
ところが今回の「ANIKORA-Kawaii」では、顔にもかなりの修整が施されていることで、他のパーツとの繋がり具合にあまり違和感がなくなってしまっていた。これ以上滑らかに接続してしまうと、ミイラ取りがミイラになって、ただの「Kawaii」作品としてしか見られないのではないかと心配になってしまうほどだ。プリントだけでなく、液晶ビュアーで見せるという新しい試みの作品も2点展示されていた。ウィンクしたり、画像の一部が微妙に揺らいだりする「動画」的な要素と、静止画像との組み合わせは、さらに大きく展開していく可能性がありそうだ。

2009/07/25(土)(飯沢耕太郎)

東松照明デジタル写真ワークショップ沖縄 実習生5人+2人展

会期:2009/07/10~2009/07/24

おもろまち沖縄タイムス1階ギャラリー[沖縄県]

東松照明は、いま撮影からプリントまで完全にデジタルに移行してしまった。このあたりの徹底ぶりがいかにも彼らしいのだが、今年4月から「デジタル写真ワークショップ」というプロジェクトを開始した。単純にデジタルカメラやプリンターの使い方というだけではなく、「これまで60年間蓄積してきた写真のノウハウ」を新しい世代に伝えようという意欲的な試みである。29歳以下という条件を付けて募集したところ、30人あまりの応募があり、面接と作品審査を経て5人が残った。今回の展示はその卒業展にあたるもので、5人の実習生(新崎哲史、上原エリカ、新城昇子、堤義治、仲村ちはる)に加えて、同じ条件で個別に指導した2人の特別参加者(伊波リンダ絵美子、北上奈生子)の作品が展示されている。
2週間に一度、5回の授業をおこなうなかで徹底したのは、毎回100点のプリントを提出してもらうということだった。そこから東松と一緒に作品を絞り込んでいく。これは仕事を持っている受講生にとってはかなり過酷な条件だが、7人とも何とかクリアしたという。その過程で、作品を選択する目が確実についてきた様子がうかがえる。基本的には全員がスナップショットだが、それぞれが自分の「まなざし」を研ぎ澄まして、個性的なスタイルを作りあげつつある。特に新城昇子の「ゴーストフレンズ」や仲村ちはるの「うりずん」には、沖縄の地霊の促しによって撮影されたかのような生命感がみなぎっている。
なお東松は長崎美術館での個展「東松照明展 色相と肌触り 長崎」(2009年10月3日~11月29日)にあわせて、長崎でも「デジタル写真ワークショップ」を開催の予定という。このエネルギッシュな活動ぶりには敬服するしかない。

2009/07/22(水)(飯沢耕太郎)

荒木経惟「POLART 6000」

会期:2009/07/17~2009/08/20

RAT HOLE GALLERY[東京都]

まずはその量に圧倒される。タイトルが示すように、6,000枚のポラロイド写真(実際には少し少ないようだが)が壁にずらっと並ぶ様は壮観としかいいようがない。特に27×97=2619枚(!)が全面にびっしりと貼られた一番大きな壁は、思わず笑ってしまうようなとんでもない迫力である。派手好み、お祭り好きの荒木経惟の面目躍如というべき展示だ。
その祝祭性は写っている被写体にまで及んでいる。ポラロイドでヌードといえば、普通はやや秘密めいた淫微なイメージを想い描くだろう。ポラロイドは現像や焼き付けを業者に出す必要がないので、「危ない」写真を撮るのによく使われてきた。それに加えてフィルムの表面の、つるつるした人工皮膚を思わせる質感そのものもエロティックだ。だが荒木の「POLART」に登場してくるヌードの女性たちは、ひたすら晴れやかでお目出度い。裸体だけでなく、花や食事のようなオブジェも、日々撮り続けられているスナップも、膨大に増殖していくイメージ群は、あっけらかんとした開放的な生命力を発しつつ、大声で呼び交しているように見える。
そのうちの幾つかは、20~100枚くらいの単位でグリッド状に構成されて展示してある。その組み合わせ方が、いかにも荒木らしくウィットと奇想に飛んでいる。それぞれの女性モデルごとに一まとめにした組もあり、「明太子」「パンと牡蠣」のような男性器、女性器への見立ての妙を発揮したシリーズ、ポラロイド・フィルムの表面に直接絵具で書き込んだ「花画」「闇夜2射精」など、抽象画のような作品もある。ポラロイドというシステムの可能性を、ほぼ極限まで、出し惜しみせずに開陳するやり方も、荒木ならではというべきだろう。表現者としての底力に脱帽。まだまだやんちゃな創作意欲は衰えを見せていないようだ。

2009/07/19(日)(飯沢耕太郎)