artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
林忠彦×大和田良─五百羅漢を巡るふたつの視覚─
会期:2020/02/05~2020/04/29
天恩山五百羅漢寺[東京都]
とても興味深い企画である。東京・目黒の天恩山五百羅漢寺には、元禄4年(1691年)に松雲元慶が羅漢像を掘り上げて以来、500体以上の羅漢像が奉納されてきた(現在残っているのは305体)。林忠彦は、その五百羅漢像の喜怒哀楽の表情に魅せられ、1982年にそのすべてを撮影し、写真集『天恩山五百羅漢寺』(天恩山五百羅漢寺)を刊行した。そこには人物ポートレイトの撮影で鍛え上げたライティングや画面構成の技術が活かされていた。
その林の作品とともに、今回、同寺内で展示されたのが、大和田良が2018年に撮影した五百羅漢像である。大和田は19世紀の写真草創期の技法である湿式コロジオン法で撮影している。今回は、金属板に画像を直接焼き付けるティンタイプを使用していたが、露光時間はかなり長くかかったはずだ。だが、その柔らかく、繊細な画像によって、年月を経た五百羅漢像の微妙な質感、空気感が写しとられているように感じた。
だが、林の正統派の「ポートレイト」としての五百羅漢像と、大和田の古典技法の現代的な解釈を対比させる試みは、あまりうまくいっていたとは思えない。会場のガラス窓に貼りつけた作品は、光が強すぎてやや見づらかったし、羅漢像の実物と向き合う形の展示は、どうしてもその迫力に押されてしまう。別な会場で、写真作品だけを切り離して見せたならば、林と大和田のそれぞれの写真が語りかけるメッセージを、もっとしっかりと受け止めることができたのではないだろうか。
2020/02/17(月)(飯沢耕太郎)
二人「二人のショー」
会期:2020/02/01~2020/02/29
Gallery 工房 親 CHIKA[東京都]
「二人」(Two People)は、宇田川直寛と横田大輔によって2019年夏に結成されたアーティスト・ユニット。宇多川も横田もそれぞれ日本の写真表現の最前線を切り開いてきたが、2016年から北川浩司を加えた「Spew」というユニットでも活動し始めた。今回は北川が抜けた「二人」名義での発表になる。
「Spew」のときもそうだったのだが、彼らの発表はきちんとまとまった「作品」を見せるよりは、その制作のプロセスをそのまま提示することが多い。今回の展示もそうで、ライティングを落として暗くした会場に、複数のモニターやスクリーンが並び、バラバラの映像を流していた。どうやら「二人」は北海道らしき北の方に旅をしたようで、その途中の光景や、彼らがそれぞれの写真観を語る映像+音声などが、アトランダムに目に飛び込み、耳に入ってくる。他に会場には、互いに互いの作品をコラージュして制作した作品や、旅の途中の写真をミニアルバムにおさめた手作り写真集なども置いてあった。
今回の展示は、まだ小手調べという感じを受けた。ノイズを重ね合わせるようなインスタレーションも、やや中途半端な印象を受ける。もう少し、ユニットの活動が展開していけば、よりスリリングな展示が期待できるのではないだろうか。会場を変えて、次の企画を実現してほしい。なお、本展は第12回恵比寿映像祭の一環として開催された。キュレーションは、元川崎市民ミュージアム学芸員の深川雅文である。
2020/02/12(水)(飯沢耕太郎)
高島空太 写真展「20XX」
会期:2020/02/12~2020/02/25
銀座ニコンサロン[東京都]
高島空太は2012年頃から写真作品を発表し始め、清里フォトアートミュージアムの「ヤング・ポートフォリオ」の公募(2014、16、18年)や、「キヤノン写真新世紀」(2016年)などで入賞を重ねてきた。彼のスタイルは、日本の若手写真家たちの中では、かなり特異なものといえるだろう。現実世界の写しではなく、画像を合成して「自分の内にあるイメージと、撮り溜めた外の世界である写真を重ねて」いくことで、「純度が高くクリアな世界」を構築していく。モノクロームの表現にこだわっていることもあり、見た目の印象は19世紀のピクトリアリズム(絵画主義)の作風に近い。今回の個展では、これまで発表してきた作品を集大成していた。
表題作の「20XX」のように、その終末的な世界観がとてもうまく表現できているものもある。ただ、「小鳥のような気持ち」、「こじんまりとした世界に溺れて」、「あなたの中で休みたい」といった作品タイトルも見てもわかるように、集められている画像は意外なほどに感傷的なものだ。ゴシックロマン風の外観と内容とが、やや齟齬をきたしている。会場構成も一考の余地があるのではないだろうか。メインの作品はアクリルに裏打ちして展示しているが、額入りのやや小さめな作品が並んでいるパートもある。作品のテンションがそこで途切れてしまうので、あまりまとまりがよくない。彼のユニークな作風は、とても大きな可能性を秘めていると思うので、もう少し足元を固めて、細部まで神経を働かせたインスタレーションをめざしてほしい。なお、本展は3月5日~18日に大阪ニコンサロンに巡回する。
2020/02/12(水)(飯沢耕太郎)
土田ヒロミ写真展「Aging 1986-2018」
会期:2020/02/05~2020/03/01
ふげん社[東京都]
写真ギャラリー、ブックショップ、カフェ、プリント・ラボラトリーを兼ねたふげん社が、東京・築地から目黒に移転した。スペースもひと回り大きくなり、その活動がますます充実したものになりそうだ。3階のギャラリーでは、リニューアル・オープン展として、土田ヒロミの「Aging 1986-2018」が開催された。オープニング企画にふさわしい充実した内容の写真展である。
「Aging」はまさに現在進行形のセルフ・ポートレートのシリーズといえるだろう。土田は1986年から、毎日クローズアップで自分の顔を撮影し始めた。それから30年以上もその行為を続け、いまだに継続中である。言葉にすると簡単そうだが、自分でやることを考えれば、それが途方もない作業であることがわかる。日付を付して展示されている顔写真の群れを見ると、40歳代のまだ精悍さを残した男性が、次第に老化していくプロセスが、感情移入を排して淡々と記録されていることに感動を覚えずにはおれない。展覧会に寄せた文章で、生物学者の福岡伸一が、このシリーズは「生命とは何か?」「時間とは何か?」という「大きな問いかけ」だと書いているが、まったくその通りだと思う。
プリントの途中に空白の部分があるのだが、それは単純に撮り忘れたことも含む「撮れなかった」日を示している。2008年にかなり大きな空白があるが、それはデジタルデータを消去してしまったということのようだ。そのような「アクシデント」をも含み込んでいることが、この作品の「生の記録」としてのリアリティをより増している。「死ぬまで」続けられるという壮大なプロジェクトが、完結したときにどんな眺めになっているのか、想像しただけでワクワクさせられる。個人の作業としては、空前絶後のものになることは間違いない。
2020/02/08(土)(飯沢耕太郎)
原芳市『神息の音』
発行所:蒼穹舎
発行日:2019/11/22
『神息の音』は原芳市の最後の写真集になった。原が2019年12月16日に半年余りの闘病生活を経て逝去したからだ。没後に『時を呼ぶこえ』(でる舎)が刊行されたが、これは1980年代に寺山修司の短歌について書いた原のテキストと写真を組み合わせたものなので、生前の仕事としてはこの写真集がラスト・メッセージになった。タイトルの「神息」(かみき)は原の造語で、「主なる神は土(アダマ)の塵から人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた」という『旧約聖書』の語句を踏まえている。
原は2008年と2011年に刊行した二部作『現の闇』(蒼穹舎)と『光あるうちに』(同)の頃から、聖書を読み込み、神の存在を強く意識するようになった。本書におさめられた27枚の写真(プリントは写真家の和久六蔵)は、2019年の年明けから撮り始め、5月までに撮影した40本余りのブローニーフィルム(約480カット)の中から選ばれたものである。「神事、祭事の周辺」を撮影していると、「突然身体が重く感じ、視界のハイライト部分がいつも露出オーバーのように」なることがあったという。そのような「霊的な何か」に感応してシャッターを切った写真を集成したのが本書だが、被写体の幅はかなり大きい。折に触れて撮影した風景だけでなく、祭りの参加者、女装のゲイ、ピンぼけでほとんど何が写っているかわからない写真もある。そこに「神の息」を感じとれるかどうかは、見る人に委ねられているわけだが、たしかにただならぬ気配を感じる写真が多い。1970-80年代にストリッパーたちのドキュメントを発表することで、写真家として知られるようになった原が、さまざまな試行錯誤を経て到達した場所が、確実に刻み付けられた写真集といえるだろう。あらためて、彼の仕事をふりかえって見てみたいと強く思った。
なお、東京・新宿の蒼穹舎のギャラリースペースでは、写真集刊行を記念した同名の展覧会(2020年1月27日~2月9日)が開催された。
関連レビュー
原芳市「光あるうちに」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2014年11月15日号)
原芳市「ストリッパー図鑑」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2013年11月15日号)
原芳市「光あるうちに」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2012年03月15日号)
原芳市「光あるうちに」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2011年01月15日号)
2020/02/08(土)(飯沢耕太郎)