artscapeレビュー

SYNKのレビュー/プレビュー

モノトーンのかたち──陶芸の領域にある表現

会期:2011/05/28~2011/06/25

YOD Gallery[大阪府]

現代美術を扱うYOD Galleryが、美術と陶芸をめぐる芸術上のヒエラルキーのあり方に疑問を抱き、美術の視点から陶芸をとらえようとした3人展。サンドブラストによる幾何学模様が印象的な北野勝久の花器や皿、手びねりの半磁土が幻想世界を生み出す新宮さやかの花、陶でできた配管が壁中に張り巡らされる三木陽子のインスタレーションが出品された。3人とも黒と白のモノトーンによる表現であるが、これはまったくの偶然であったという。ギャラリーのウェブサイトによれば、色彩の限定は、造形表現を強調するための一要素になるという見方ができる。
それはつまり、3人のアーティストたちが、陶だからこそ生み出し得る造形に惹かれているということなのではないか。実際、陶を表現手段とする作家の多くは、土を触り、それがかたちになることに魅せられてこの媒体を選んでいる。すなわち彼ら彼女らにとっては、まず表現したい何かがあり、その手段として土を選ぶのではなく、土に対する愛と表現とが最初から分かちがたく結びついているのである。
この結びつきはおそらく、美術と呼ばれるものよりも、工芸やデザインにより特徴的な要素であろう。少なくとも観る側の意識においては、美術とは、素材や技法から遊離した主題やメッセージ性が際立つものに違いないからだ。そうした意味では、陶製の導管によるインスタレーションという陶芸のテーマを裏切るような三木の作品と、枯れたような花が陶であることを忘れさせる新宮の造形は、陶による美術として解されやすいものかもしれない。とはいえ、新宮の花の妖艶さは陶でなければ表現できず、三木の導管もまた、作者にとっては「土が流れるイメージ」、すなわち陶そのものに他ならないのだ。
北野の器はもっとも陶芸の伝統に忠実であるようにみえるが、ろくろ成形とマスキングによるサンドブラストという技法と結びつくのは、おそらく「装飾」のあり方に対する作者の関心であろう。装飾という概念は、長年、美術からも工芸からも排除されてきたものだが、美術の現況をみると、どうも装飾が、近年の隠された動向の鍵を握るように思える。すなわち、観念的なものの対極にあると見なされてきた「装飾」が、若手作家たちからは現代美術の新たな視座として注目されているように思えるのだ。北野、三木、新宮の陶の作品は、そのような新たな手がかりを指し示すものであるかもしれない。[橋本啓子]

2011/06/14(火)(SYNK)

オフセット印刷で探るグラフィック表現の可能性──グラフィックトライアル2011

会期:2011/05/13~2011/08/07

印刷博物館P&Pギャラリー[東京都]

オフセット印刷ではなにが可能なのか。どのような限界があるのか。ふだんの仕事では絶対に経験不可能な、極端に実験的な試みをほんとうにやってしまうのが、グラフィックトライアル。なによりも、これらの実験過程がすべて記録されている点がこの企画の最大の意義である。今年は祖父江慎、佐藤可士和、名久井直子、山本剛久の四氏がそれぞれ課題を出し、凸版印刷のプリンティング・ディレクターが苦心惨憺の果て(?)にそれらを実現する。祖父江慎氏はあえて正確なコントロールができないであろう要素を印刷に持ち込む。メディウムにカレー粉を混ぜて刷ったり、フィルムをたわしでこすって傷つけたり。それでも意外にも予測不能なトラブルは起きにくく、現代印刷技術の安定性を確認することになったそうだ。佐藤可士和氏は、オフセット印刷の限界を見極め、基準をつくるという課題。同じ色を100回刷り重ねたらどのような効果が得られるのか。細い罫線、小さな文字は、どこまで再現可能なのか。インキメーカーによって金、銀、黒の色味や効果にどれほどの違いがあるのか。名久井氏は大正から昭和初期にかけて刊行された絵本のような、懐かしい印刷効果の再現を試み、山本氏は色ごとに用意した版を重ね刷りすることによって木版画のような効果を再現する。課題の選び方にそれぞれのデザイナーの個性、関心が現われていてとても面白い。オフセット印刷は私たちにとってもっとも身近で見慣れた印刷方法であるが、これほどまでに圧倒的な質感が表現可能であるのかと驚かされる。[新川徳彦]

2011/06/08(水)(SYNK)

武田晋一のアプローチ

会期:2011/05/14~2011/06/07

space_inframince[大阪府]

今回、大阪のspace_inframinceにおいて武田晋一が発表したのは、店舗で使われていた什器や木箱、安価な合板などを利用したディスプレイ棚や椅子、オブジェなのだが、どうもそれらには家具やデザイン、あるいはオブジェという言葉がしっくりこない。作品のいくつかは家具として立派に機能しているので、美術にカテゴライズするのも戸惑いがある。
あえて家具作品として武田の作品をみるなら、それは少なくとも製品として褒められたものではないだろう。木箱の表面やエッジは何ら処理を施されず、むき出しのままだ。ディスプレイ棚はパーツを組み立ててつくられるが、通常の組み立て家具のように、パーツ同士はぴったりと合わさらない。それは、積み上げられた丸い石のように、箱や板がぎりぎりのバランスを保って積み重なっている。パーツは、武田自身が背負って会場に運んだものであり、彼はゆっくりと一個一個のパーツを並べ、積み重ねていく。Youtubeにアップされた動画をみると、何度もパーツを並べ直す武田の姿がみえる。つまりこれは、初めから組み立て方が決まっているわけではなく、組み立てる度にいちいちバランスを考えなければならない家具(?)なのだ。
武田はフランスに長く滞在したが、フランス語で家具は、「meuble」「mobilier」といい、どちらも「動く」という意味を含む。実際、戦争の絶えない中世の時代、タピスリーや椅子、櫃などの家具は次の戦地に赴く度に動かされるものだった。したがって、パーツにばらして持ち運びができ、組み立ての度に姿を変容させる武田の家具は、家具の原点回帰ととれないこともない。
このような歴史的背景と武田の作品に関わりがあるかどうかは不明だが、「動く」要素がこの家具を特徴づけることは確かだ。ばらばらのパーツは、人間がその時々の用途に応じて勝手につくり出し、不要となるや捨てられたものである。会期中にそれらは何度も組み変えられ、外観を変える。その変容は武田によりもたらされるとはいえ、逆に、パーツたちが武田という主に向かって生き物のごとく振る舞い、崩れないように安定を図ろうとする武田に歯向かうかのようでもある。同様に、黄色い輪郭線でできた椅子も、主(=人間)が座れない椅子だ。蝶番のついた輪郭線は、自らを変形することで、椅子のイメージであり続けることさえも拒絶するだろう。このように武田の家具を生けるものとしてみることは無論、筆者の空想以外の何物でもない。だがこの空想が、日常を取り巻くモノと人間との対峙を思いがけない視座から照射しようとする武田の企てによって生み出されたものであることは確かなのだ。[橋本啓子]

Takeda Shinichi's Approach (14 May 2011)

2011/06/07(火)(SYNK)

佐藤晃一ポスター

会期:2011/05/09~2011/05/31

ギンザ・グラフィック・ギャラリー[東京都]

グラフィック・デザイナーの佐藤晃一のポスターを紹介する展覧会。ふたつのフロアは青いグラデーションで包まれ、壁には代表的なポスター約100点、中央に置かれた台にはポスターのための印刷指定原稿が並べられている。トレーシングペーパーに書き込まれた指示の数々に「印刷のメカニズムを最大限に引き出した鮮明な色彩とグラデーションを駆使したポスター作品(展覧会サイトの解説より引用)」が生まれたプロセスを、完成作品とともにみることができる仕掛けだ。
佐藤晃一の作品は「超東洋的」と評されるという。ここで「超」がどのような意味で用いられているのか私は知らないのだが、作品を見て感じたのは、日本的、あるいは錦絵的ということである。作品とともに展示されていた指定原稿からは、錦絵同様、技術を知り、技術を使いこなし、それを独自の表現様式に高めてゆくありようを感じる。もうひとつの特徴は光の表現である。佐藤の表現には光がある。光とはいっても、光源の存在を感じさせる光ではない。たとえば夜が明ける直前、あるいは陽が沈んだ直後の、空全体に拡がるほのかな明るさとグラデーションであり、モノ自体から滲み出るアウラでもある。そして、光はあるが、影はない。光によってあらわになるのは、モノの立体的な形ではなく、輪郭である。西洋的な光と影の関係ではないのだ(もっとも、近年の作品はこれらの表現からずいぶんと離れてきている)。
興味深かったのは、同じ草月のための作品であっても、全紙のポスターに比べてB3判──おそらく電車の中吊りか、百貨店のエスカレーター脇に掲出されるもの──のもののほうが、テキストによる情報量がずっと多いこと。ポスターがはたすべき役割についての佐藤の考えかたがこの対比に現われているように思う。[新川徳彦]

2011/05/26(木)(SYNK)

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カリブ海とクナ族のモラ

会期:2011/05/13~2011/06/11

世田谷文化生活情報センター生活工房ギヤラリー[東京都]

世界は海によって分断されているのではなく、海によってつながっている、との考えから世界の海の暮らしを手仕事を通じて紹介する連続企画の第1弾。「モラ」とはパナマのカリブ海沿岸の島々に暮らす、クナ族の民族衣装に施されたアップリケ刺繍のことである。黒い布をベースに複数の色布を重ね、模様を切り抜き、刺繍を施していく。はっきりとした輪郭と鮮やかな色彩。模様には生活の場である海をモチーフとした図案も多いが、そればかりではなく、伝説や空想の世界から、動植物、身の回りの品々まで、あらゆるものが用いられ、これがとても面白い。刺繍の技術は母親から娘へと伝えられ、作品を身にまとうのも女性たちである。
現在ではブラウスに使用されるこの刺繍であるが、その歴史は必ずしも古いものではない。17世紀後半にクナ族と数カ月を過ごしたイギリス人は、女性たちは上半身が裸で膝までの腰布を巻いていると伝えている。彼女たちは鮮やかな絵の具で体中に絵を描いていたという。やがて、18世紀半ばにはイギリス人やフランス人との交易によって外国製の布を手に入れた女性たちは、その布で身体を覆うようになり、それまで肌に直接描かれていた模様が身につける布に描かれるようになったというのである。異文化との交流により新しい文物が生活に入り込み、生活の様式は表面的には変化した。しかしかつて女性たちの身体を飾った装飾の伝統は、素材やモチーフを変えつつも、彼らの生活の根底に脈々と受けつがれているのである。
会場には色とりどりのモラが展示され、またモラの制作風景やクナ族の祭りの映像を見ることができる。7つの海を主題とするこの企画、カリブ海から次はどこの海につながっていくのか、楽しみである。[新川徳彦]

2011/05/20(金)(SYNK)