artscapeレビュー

SYNKのレビュー/プレビュー

WA:現代日本のデザインと調和の精神──世界が見た日本のプロダクト

会期:2011/06/24~2011/07/30

武蔵野美術大学美術館[東京都]

日本のプロダクト・デザインにおける日本らしさとはなんなのか。ここにはこの疑問に対するひとつの答えがある。国際交流基金により2008年のパリでの開催を皮切りに、ブダペスト、エッセン、ワルシャワ、サンティエンヌ、ソウルを巡回してきた本展覧会は、現代日本のプロダクト・デザインから「和」をキーワードに選び出した160点を展示するものである。
解説によれば、キーワードに設定された「和」とは「さまざまな価値、さまざまなひとびと、さまざまな立場、対立する項を融和し、より高次元なレベルで統合しようとする精神」を指す。対立する項をもう少し具体的にすれば、「新しいものと古いもの、先端技術と伝統文化、人工と自然、グローバルとローカル、日本的なるものと西洋的なるもの、遊びと実用、感情と理性」であり、現代日本のデザインの特徴としてこれらを互いに結びつけ、調和させる精神があるとする。展示では製品をジャンル別に12のカテゴリーに分けると同時に、ジャンル横断的に六つのキーワード──かわいい、クラフト、木目、てざわり、ミニマル、心くばり──で分類を試みる。トネリコが手掛けた展示方法も含め、本展のセレクションには一貫性をみることができ、海外巡回展も好評であったようだ。
そのうえでさらに疑問となるのは、この日本的なるものが国内にとどまるものなのか、海外の市場に受け入れられるものなのかという点である。日本人の考える日本的なものと、海外の人々が考える日本的なものとにはズレがある。そのズレかたは国によって異なる。はたして本展における切り口は日本のプロダクトにおける海外戦略として有効なのだろうか。日本デザインのヴィジョンとして育ててゆくべきものなのだろうか。この展覧会には日本のプロダクトをプロモートする意図はまったくなかったようであるが(図録には海外での鑑賞者から展示されたプロダクトがどこで入手できるのかと聞かれたというエピソードが特筆されているほどである)、ものづくりにとってマーケットへの対応は不可欠である。帰国展では各国における反応についても触れてもらいたかった。[新川徳彦]

2011/07/14(木)(SYNK)

明・清陶磁の名品──官窯の洗練、民窯の創造

会期:2011/06/28~2011/09/04

出光美術館(東京本館)[東京都]

出光の中国陶磁コレクションのなかから、明から清にかけての陶磁の名品を展観する。展示はおおむね時代を追いつつ四つのパートに分かれている。最初は「明朝前期の官窯」。洪武から正徳までの官窯の作品。つづいて、清朝官窯の粉彩による絵画的な磁器の数々。三つめのパートでは明清の民窯と官窯を対比する。最後に景徳鎮以外の地方窯の特色ある作品を紹介する。出光の清朝磁器は、戦後比較的新しく形成されたコレクションであり、その内容は鑑賞陶器、すなわち純粋な鑑賞を目的とする考えで収集されたものであるという。そのために、茶道や文人趣味の審美眼による蒐集品とは異なり、むしろ中国陶磁器の本流が蒐集されることになったという。
展示のなかでも目を惹かれたのは、景徳鎮官窯「大清乾隆年製」銘(1736-95)がある茶葉末(ちゃようまつ)釉の器である。同じ様式のものが3組4点出品されているが、渋い深緑色の釉薬の美しさとあわせて、器形の抽象化のされかたがたいへんにモダンなのだ。とくに象の頭をかたどった耳がついたシンプルな方形の器。両側面の象の鼻が環を下げているのだが、その環は独立した実用的なものではなく、象の頭とともに器の表面に浅く浮き彫りにされた、高度に様式化されたデザインなのである。単色の釉のみで、絵付けはない。他の展示品にみられる絵付けを中心とした装飾とは明らかに異質で、さながらアールデコの器のようである。この時代、だれがどのような用途にこの器を求めたのであろうか。この様式はどのように評価されていたのであろうか。また後の様式にどのように影響を与えたのであろうか。たいへん気になる作品である。[新川徳彦]

2011/07/13(水)(SYNK)

服部正志 展──○再↑生○

会期:2011/07/08~2011/08/06

YOD Gallery[大阪府]

YOD Galleryに着くや否や、ギャラリーの外壁に描かれた巨大な「ヒト」型が目に飛び込んできた。「ヒト」の中央には、なにやら非常ボタンのような、大きな赤いボタンがある。このボタンは何なのだろう、と思いつつ、入口の扉を開けると、今度は小さな「ヒト」たちに出くわす。型やシルエットとしての「ヒト」は各々、植木鉢から伸びたり、料理用ミキサーの中にいたり、時計の上を回転したりしている。
「ヒト」型は近年、服部が用いているモティーフであり、前回の個展では「ヒト」型のさまざまな変奏を通して、普遍性と違和感という人間の二面性を提示することが試みられた。今回は、「ヒト」型に電化製品という文脈が与えられることで、人とモノ、ひいては人と人とのコミュニケーションのあり方が思いがけないかたちで炙り出される。
男女の「ヒト」型がLEDでかたどられた作品は、配線がなされているにもかかわらず、スイッチを入れても光がつかない。また、白と赤のLEDが寄せ集められてできた「日の丸弁当」にも光が灯ることはない。服部によれば、電気がつかないようにしたのは白い空間での展示効果を考えてのことだが、光がつかないことに不満をもらす観客もいるという。このエピソードは、筆者にひとつの解釈をもたらした。それは、電気のつかない服部の作品が示唆するのが、われわれの想像力の存在ではないか、ということだ。観客の不満は、服部の作品にもし電気がつけばどんなにか美しいだろう、とわれわれが懸命にその状態を夢想することを示す。
電気も、人間同士のコミュニケーションも、「見えないもの」だ。しかし、人間は見えないものを想像することで、豊かな精神世界を構築し、日々の生活や人同士の関係をより前向きに、楽しいものへと変える力を有している。たとえば、古いミキサーを用いた服部の作品の中の「ヒト」型が空想させるのは、このミキサーを使い、家族で美味しい夕飯をつくった記憶だろう。この記憶は、過去には存在し、現在は「見えなくなった」家族の「コミュニケーション」である。そして、このコミュニケーションの記憶は、本展では、外壁のあの赤いボタンを押すことで蘇る。それにはふたりの人間が必要であり、ひとりはギャラリーの外に出て、あの外壁の赤いボタンを押す。もうひとりは室内で、ボタンを押されて廻り出す「ヒト」型を観る。この作業が示すのは、過去のコミュニケーションを呼び覚ます現在のコミュニケーションもまた、行為や伝達、結果が見えないもどかしさをともなうことだ。そして、われわれはそれを想像力によって補おうとする。服部の作品はデザインではなく、アートであるが、このように人間の想像力の喚起するものとして、彼の作品を解することは、デザインの新たな発想へのひとつの手がかりになるのではないかと思う。[橋本啓子]

2011/07/09(土)(SYNK)

もてなす悦び──ジャポニスムのうつわで愉しむお茶会

会期:2011/06/14~2011/08/21

三菱一号館美術館[東京都]

三菱一号館美術館がコレクションするジャポニスムの器を愛でる展覧会。19世紀後半、明治政府は外貨獲得のため、日本の工芸品を積極的に輸出してゆく。展示・商談の場として重要であったのが当時各国で開催されていた万国博覧会で、1873(明治6)年に開催されたウィーン万国博覧会で、日本政府は初めて公式に参加している。欧米に渡った日本文化は、同時代の芸術家たちの創造の源泉ともなり、西欧の絵画や工芸に多くの影響を与えた。この展覧会ではガラス器、銀器、絵画などさまざまな工芸への影響を取り上げているが、タイトルに「お茶会」とあるとおり、中心となるのはカップ&ソーサーなどティ・ウエアのコレクション。大きな展示室に再現されたティー・テーブルと、特設ケースに配されたカップ&ソーサーの数々。器の魅力が伝わる美しい展示である。
ひとくちにジャポニスムといっても、なにを日本的なものとするか、その解釈は直接的な引用から、メンタリティにまで遡るものなどさまざまである。19世紀後半にリチャード・ウィリアム・ビンズがデザインを統括したロイヤル・ウースターの製品には、ビンズが日本美術のコレクターであったこともあり、日本磁器の写しや文様のアレンジが多く見られる。1860年にクリストファー・ドレッサーがデザイン主任を務めたミントンのジャポニスムには、ドレッサーの日本美術に対する深い理解が反映されている。また、展示にはティファニーのガラス器などに現われたように、「朝顔」というモチーフ自体が日本趣味を象徴する例も挙げられている。ただ様式を追うばかりではなく、ジャポニスム誕生の背景、欧米における受容までを視野に入れ、展示にも工夫を施した優れた展覧会である。[新川徳彦]

2011/07/06(水)(SYNK)

映画『テンペスト』

会期:2011/06/11

テアトル梅田ほか[大阪府]

ウィリアム・シェイクスピアの最後の戯曲といわれる『テンペスト』。筆者が記憶するだけでも二回映画化されている。デレク・ジャーマン監督の『テンペスト』(1979)とピーター・グリーナウェイ監督の『プロスペローの本』(1991)。上記の二作は、監督の知名度もあって話題になったもので、映画化された作品はもっとあるはずだ。文学作品の映画化はそれほど珍しいことでもないが、400年も前の作品が繰り返し映画化されるにはそれなりの理由があるだろう。ジュリー・テイモアがメガホンをとった、今回の『テンペスト』は、主人公のプロスペロー(ヘレン・ミレン扮)を女性に変えたこと以外、粗筋から台詞に至るまで原作(原文)に忠実である。シェイクスピア戯曲独特の台詞を(現代人にとっては冗長かもしれない)、観客は延々と聞かされる。もちろんそこには言葉の美しさや、時代を超え人間の本質を暴く鋭さがある。だが、それはあくまでもシェイクスピアの力量であり、戯曲の魅力である。映画としての『テンペスト』は、空気の妖精エアリエルの表現など、CGを駆使したファンタジックな映像作りが試みられたものの、映画という媒体の特性が十分に活かされているかについて疑問が残る作品だ。アカデミー賞の衣装デザイン賞にノミネートされるだけあって、ゴージャスな衣装は見応えあり。[金相美]
図版クレジット=テンペスト �2010 Touchstone Pictures

2011/07/03(日)(SYNK)