artscapeレビュー
SYNKのレビュー/プレビュー
柏木博『日記で読む文豪の部屋』
発行日:2014年03月12日
出版社: 白水社
発行日:2014年03月12日
価格:2,200円(税別)
サイズ:四六版、250頁
近年、とりわけ小説における室内/インテリアをテーマに執筆している著者が、日本近代の作家たちの日記をもとに、「住まいへの意識」を考察した書。取り上げられるのは、夏目漱石・寺田寅彦・内田百閒・永井荷風・宮沢賢治・石川啄木・北原白秋の七人。彼らが自分の部屋や他者の室内をどのように記述したのか。著者は、日記と文学作品の世界を自由に行き来しながら、「住人の痕跡」である部屋の記述を読み解く。作家による眼差しの特色は、ヴァルター・ベンヤミン等の論考が援用されることで、厚みを増して分析されてゆく。同書は、明治から大正にかけての生活文化、社会文化的な様相を浮き彫りにするばかりでなく、読者にももうひとつの楽しみを与えてくれる。作家たちの著述を通して、シャーロック・ホームズのように探偵あるいは観察者として、その人物像を想像するという楽しみを。[竹内有子]
2014/06/15(日)(SYNK)
「江戸の異国万華鏡─更紗・びいどろ・阿蘭陀」展
会期:2014/03/15~2014/06/08
MIHO MUSEUM[滋賀県]
江戸時代、オランダの東インド会社を通じてもたらされた舶来品「インド更紗・更紗・びいどろ・阿蘭陀(デルフト焼等の陶器)」が、いかに日本で受容されたかについて紹介する展覧会。170点余りの資料が展示され、見応え十分。インドの更紗で仕立てられた小袖、羽織、茶道具の袋物に加え、西欧の陶器・ガラスと、それらに影響を受けてつくられた日本の阿蘭陀写し(尾形乾山)・和ガラスをも見ることができる。なかでもひときわ目を惹いたのが、《杜若文様更紗縫合小袖》。日本の伝統的な意匠「杜若」と、20数種にも及ぶインド更紗が縫い合わされた大胆なデザインには、息をのむ。通覧して、江戸の粋の新たな面を発見した思いがする。ちなみに同館の建築を手掛けたのは、I・M・ペイ。本館正面の窓から山向こうに見えるのは、ミノル・ヤマサキによる礼拝堂。建築に興味のある方にも、ぜひ訪れてほしい。[竹内有子]
2014/06/07(土)(SYNK)
SIMONDOLL 四谷シモン
会期:2014/05/31~2014/07/06
そごう美術館[神奈川県]
人形作家・四谷シモンの70歳を記念した回顧展。2000年に開催されて以来の、14年ぶりの本格的な個展だという。今回は四谷シモンがハンス・ベルメールの球体関節人形に出会って以降の50年間に制作された人形のうち、46体を6つのテーマに分けて紹介している。第1章は少年と少女。主に1980年代から2000年代にかけてつくられた、美しい顔の少年少女たちの像。第2章は人々を誘惑する女。状況劇場で女形として舞台に立っていたシモン自身の姿を彷彿とさせる娼婦たち。第3章は機械仕掛けの人形。第4章は天使とキリスト。澁澤龍彦の没後、故人に捧げる「副葬品」としてつくられた人形。第5章はナルシシズムをテーマに自己を写した作品。第6章は未完の人形たち。木の骨組みが剥き出しになったボディ、ざらざらとした肌の質感、ベルメールの人形のように胴や乳房にも納められた球体が特徴である。四谷シモンの人形とは何かと問うたとき、その表現のヴァリエーションや変遷の理由は今回の展覧会で十分に示されていると思う。そしてその姿が、たとえ少年であっても少女であっても、娼婦であっても聖者であっても、シモン自身の姿を写したものだという点もその通りだと思う。しかしそれはつくり手と人形との関係である。それに対して、私たちから見た四谷シモンの人形の魅力とはなんだろう。何が私たちを惹きつけるのだろう。なぜ、その姿、その顔、その眼に吸い込まれるような感覚に陥るのだろう。
一般に人形は子供の遊び道具であったり、祈りの対象であったり、死者とともに葬られる魂の容れ物であったりする。では、シモンの人形は人々にとってどのような存在なのか。その人形に魂はあるのか。シモンは以前「人形はね、死体なんですよ。(…中略…)いい人形は死んでいるように見える。死んだ瞬間のまま、永遠に死に続けるんですよ」と語っている 。シモンの人形は死体なのか。死体ならばその人形に生はあったのか。シモンが人形に自分の姿を写しているとして、それでは私たちにとってもその人形は四谷シモンなのか。私にはそうではないように思われる。シモンの人形は「死体」ではない。だからといって、生きているわけでもない。シモンの人形には魂がない。「魂がこもっていない」というと出来が悪いことの慣用句であるが、そういう意味ではない。魂はないが、魂の抜け殻でもない。それ自体に、知性や意志があるわけではない。名前を持たない。過去も未来もない。固有の物語を持っていない。ただ美しく、ただ純粋なるボディ。いつでも魂を受け入れる用意のできたうつわ。少年や少女の姿であっても、それは「子供」ではなく小さな「大人」。大人であっても、子供の姿によって未完の精神を象徴している。たとえ娼婦の姿であっても無垢なる存在。人間に倣って性別はあるけれども、どちらであるかは自由。魂がないから、背負っている物語がないから、それが誰であっても、見る者のすべてを受け入れる。私たちの魂を吸い込む。そういう恐ろしい存在なのではないか。[新川徳彦]
展示風景(第2章:誘惑するもの──女)
2014/05/30(金)(SYNK)
フランス印象派の陶磁器 1866-1886──ジャポニスムの成熟
会期:2014/04/05~2014/06/22
パナソニック汐留ミュージアム[東京都]
アビランド社は、1842年に設立され、170年余の歴史を持つフランス・リモージュの高級磁器メーカーである。創業者のダビッド・アビランドは輸入陶磁器の販売を手がけていたアメリカの商人であったが、当時フランスの貿易商が送ってくる商品がアメリカ人の嗜好に合わないため、1842年に渡仏し自ら商品の選定と輸出を手がけることになった。やがてアメリカからの絵付の要望に応えるために装飾工房を設立。その成功を見て磁器の生産にも乗り出した。経営を引き継いだ息子のシャルル・アビランドは、日本美術の蒐集家であり、サミュエル・ビングや林忠正の店の顧客であったという。1872年、パリの国立セーヴル磁器製作所を訪れたシャルルは、セーヴルの絵付部門責任者で、第1回印象派展の出品作家であり、北斎漫画を発見した人物としても知られるフェリックス・ブラックモンと知り合い、彼をアビランド社の装飾部門の責任者に抜擢した。ブラックモンは、すでに1866年にはパリの陶磁器業者フランソワ=ウジェーヌ・ルソーのために北斎などの浮世絵をモチーフに用いた大胆な意匠のテーブルウェア《ルソー》シリーズをデザインしている。ブラックモンは、モチーフを自由なレイアウトで器に散らすというデザイン手法をアビランド社の磁器にも取り入れ、伝統的な図案の構成に代わる斬新なデザインを生み出した。同時期にアビランド社と関わったもうひとりの芸術家が、陶芸家のエルネスト・シャプレである。彼は色を着けた泥漿(スリップ)によって陶器に油画のような絵付けを可能にする方法(バルボティーヌ)を発明した。新しい製品を欲していたシャルルは、1874年にシャプレの技術を買取って彼をアビランド社に雇い入れ、バルボティーヌ技法で印象派の絵画のような絵付けの陶器を制作した。その装飾の評価は高かったが、残念なことに一般にはあまり受け入れられず、1870年代の終わりには制作されなくなってしまったという。すなわち印象派風の陶磁器は、絵付けもその技法も極めて短期のうちに姿を消してしまった存在なのである。しかし、エルネスト・シャプレはその後もアビランド社で新しい装飾の炻器や釉薬の開発に携わった。アビランド社におけるジャポニスムおよび印象派風の陶磁器生産は、シャルル・アビランドの趣味嗜好を強く反映したものだと思われるが、シャルルはあくまでもビジネスマンであって、製品が売れなくなったときにその様式に拘泥するようなことはなく、その後は高級テーブルウェアで成功を収めてゆく。シャルルの性格はきわめて独善的であったと評されるが、アメリカとヨーロッパの両市場の新しい流行を素早く取り入れ、優れた職人たちを雇い入れ、同時代の趣味嗜好に即した製品を生み出していった優れたプロデューサーであったと言って良いかもしれない。アビランド社のディナーウェアは、日本の宮家の正餐用食器、日本政府の正餐用食器としても用いられたという。
本展では、ブラックモンが手がけた《ルソー》シリーズの器、そしてアビランド社が制作したジャポニスムから印象派の様式まで、19世紀後半の約20年にわたるテーブルウェアや装飾皿、花瓶が紹介されている。パナソニック汐留ミュージアムでは恒例と言ってよい実際の製品を用いたテーブルコーディネートは木村ふみ氏によるもの。加えて、ルノワールやコローら印象派の画家たちの作品が壁面を飾り、同時代の空気を感じる工夫がなされている。[新川徳彦]
2014/05/29(木)(SYNK)
通崎睦美選 展「通崎好み──コレクションとクリエイション」
会期:2014/05/20~2014/06/29
東大阪市民美術センター[大阪府]
通崎睦美は音楽家である。その事実をあらためて実感させられる展覧会であった。
本展は二会場構成。第一会場には、銘仙きもの、はきもの、半襟などのアンティーク・コレクションと、アーティストたちとの共同作業で誕生した浴衣ブランド・メテユンデ関連の展示、須田剋太と小磯良平による幼少期の通崎の肖像画、谷本天志による新作のきものなど、「通崎好み」のものが賑かに溢れている。全体を見渡すと、文字通り「好み」としか言い表わしようがないものの存在がたしかに感じられる。アンティーク着物のコレクターとして、文筆家としての通崎の旺盛な活動に触れるといつもその多才ぶりに驚かされるが、そこから浮かび上がってくるのは独特の美意識であり、しかも日々の生活のなかで磨かれてきた活き活きとした美意識である。アサヒビール大山崎山荘美術館での展覧会 から10年を経て、その美意識がいっそう明確にいっそうシンプルに見えてきたように思う。
とはいえ、本展での発見は第二会場にあった。ここには、昨年上梓された通崎睦美『木琴デイズ──平岡養一「天衣無縫の音楽人生」』(講談社、2013)にまつわるものが展示されている。同書は昭和期にアメリカと日本で活躍した木琴奏者・平岡養一の人生を綴ったドキュメンタリーである。執筆のために収集された各種資料や、当時の木琴人気を物語る玩具や楽譜などが展示されている。ことのきっかけは通崎と平岡の木琴との出会いにあったという。楽器を、音を、演奏を介して、音楽家同士、通じ合うものがあったのである。会場では、第一会場にあった楽しさや親しさは気配を鎮め、少しばかり近寄りがたい静かな集中力が感じられた。
音楽は目に見えない抽象的なもの。そして音楽の演奏はライブ、まさに生き物で、その場で体験することしかできない。そんな刹那の世界と、時を超えて、色や形、質や量をもって存在するアンティーク着物の世界、本展ではその二つの世界を併せ持つ通崎睦美の世界に触れることができる。[平光睦子]
2014/05/26(月)(SYNK)