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SYNKのレビュー/プレビュー

徒然草──美術で楽しむ古典文学

会期:2014/06/11~2014/07/21

サントリー美術館[東京都]

近年サントリー美術館の所蔵となった海北友雪筆「徒然草絵巻」二十巻を中心に、描かれた古典としての『徒然草』の流れをたどる展覧会。『徒然草』は鎌倉時代後期に兼好法師によって書かれたが、これが鑑賞されるようになるのは100年余の後、室町時代になってからのこと。展示第1章では兼好法師の人物像と『徒然草』が古典の代表作となるまでの受容の歴史が紹介される。そして『徒然草』の受容が本格化するのは慶長年間(1596-1615)以降。研究・鑑賞が行なわれてゆくなかで、『源氏物語』の源氏絵、『伊勢物語』の伊勢絵と同様、『徒然草』のエピソードを描いた「徒然絵」とも呼ばれるような絵画作品が登場する。第2章では狩野派、土佐派、住吉派など、多様な流派によって描かれた徒然草が展示されている。そして第3章は海北友雪による「徒然草絵巻」二十巻。一般的な「徒然絵」が一部の人気のある章段を選択して絵画化しているのに対して、この絵巻はほぼ全段を連続して描いている。それゆえ、絵巻を順に見ていくことで、兼好が『徒然草』を綴ったその流れと、各エピソードのつながりを読み解くことができる。今回は特設の展示台でこの絵巻全巻がお披露目されている。そして第4章ではこの絵巻を描いた海北友雪(1598-1677)と、その父海北友松(1533-1615)の画業が紹介される。
 この展覧会の展覧会のチラシを最初にみて(良い意味で)気になったのは、そのデザインである。表も裏もすべて横書き。「徒然草」というタイトルはゴシック体に近い描き文字。タイトル以外もすべてゴシック体なのだが、見慣れない書体が使われている。調べてみると「国鉄方向幕書体」というフォント。これはかつて国鉄車両の行先表示に用いられていた書体をフォント化したもの。ゴシック体系列ではあるが、やや平たく、角が丸くて柔らかい印象を与える。『徒然草』といえば日本文学の古典。となれば、タイトルは縦書きで、毛筆書体や明朝体であってもおかしくない。じっさい、同時期に神奈川県立金沢文庫で開催された「徒然草と兼好法師展」のチラシはそのようなオーソドックスなデザインである(左)。しかし、サントリー美術館のチラシは印象を異にする(右)。いったいなぜこのようなデザインになったのか。上野友愛・サントリー美術館学芸員によれば、堅苦しい「古典」ではなく、若い人々にも楽しんで見てもらえるようなイメージをアピールしたいという意図があったという。広報デザインを手がけたのはデザイン事務所・FRASCOの石黒潤氏。「古典文学」の展覧会ではなく「絵画」の展覧会。現代の私たちに『徒然草』の世界はどのようなイメージとして写るのか。展覧会の趣旨、内容、ターゲットを考えれば、変わってはいるが、とても理にかなったデザインなのである。[新川徳彦]


左=金沢文庫チラシ
右=サントリー美術館

2014/06/25(水)(SYNK)

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'Cazador' KURAMATA Shiro / TAKAMATSU Jiro Photographed by FUJITSUKA Mitsumasa

会期:2014/06/18~2014/07/19

Yumiko Chiba Associates Viewing Room Shinjuku[東京都]

商業空間のデザインは、とてもとても儚い。商品の変化とともに姿を変え、時代の変化とともに消えてゆく宿命にある。デザインは私たちの記憶の中に留められるか、あるいはかろうじて図面やスケッチ、写真などによって記録されるが、それも十分になされることは稀で、あっという間に忘れ去られてゆく。その点、形あるもののデザインと大きく異なる。だから、倉俣の仕事でも家具やオブジェのような形が残るもののデザインに比べて、同時代でその場を共有しなければ体験できない空間デザインの仕事は語りにくい。そうした条件でありながらも、2013年に開催された「浮遊するデザイン──倉俣史朗とともに」(埼玉県立近代美術館、2013/07/06~2013/09/01)は、倉俣のインテリアデザインにかなりの比重をおいた意欲的な試みであったと思う。その展覧会を企画した平野到・埼玉県立近代美術館学芸員が展覧会準備のために倉俣事務所で調査を行なった際に見出したのが、倉俣史朗と高松次郎との共作空間「サパークラブ・カッサドール」の施工中の写真であった。その時点では撮影者不明であった写真を倉俣の仕事を数多く撮影してきた写真家・藤塚光政氏に見せたところ、氏の撮影であることがわかり、そのネガから改めてセレクションした写真で構成されたのが本展覧会である。
 倉俣が1967年に内装を手がけた新宿二丁目のバー「サパークラブ・カッサドール」で、倉俣は高松に壁画の制作を依頼した。バーの壁面にはさまざまなポーズをとる男女の影が描かれ、そこを訪れる実際の人物の影と交錯する、幻想的な空間が完成した。藤塚氏が撮影した写真には壁画を描く高松の姿などを見ることができる。空間の中央に光源がおかれ、周囲にモデルとなる人物がポーズをとり、壁に映った影の輪郭を高松がなぞる。その後輪郭の内部は手際よく塗られ、「影」と壁面との輪郭がぼかされ、あるいは形が修正されてゆく。倉俣自身が影のモデルになって写っている写真もある。倉俣の空間デザインの仕事で施工中の記録はほとんどないということであり、藤塚氏も施工中を撮影したのはこのときだけであったと述べていたので、これは倉俣の仕事としても、高松の制作の記録としても重要な写真であるにちがいない。また、平野学芸員によれば、倉俣にとってカッサドールの仕事はそれ以前の壁面装飾的なインテリアから、より建築的な空間デザインへと転換した端緒となった重要な仕事であるという。
 カッサドールのオープニングを捉えた写真には倉俣、高松のほかに、篠原有司男、田中信太郎らのアーティストたちが写っている。となると、カッサドールは、誰がどのような人々のための空間としてつくったのかという疑問が湧く。6月28日に行なわれた平野学芸員と藤塚氏によるトークの折りにそのことを質問したところ、会場に居合わせた当時カッサドールに通っていたという人物から貴重な証言が語られた。詳しい内容は平野学芸員の調査に委ねるとして、倉俣が手がけた「カッサドール」や「サーカス」など4軒は以前から倉俣の仕事を知っていた同一のオーナーの依頼による物件であり、さほど営利を重視していなかったようだ。そのなかでもカッサドールはデザイン、アート、演劇など多様な分野の人々が集い、賑わっていたとのことである。倉俣(1991年没)も高松(1998年没)も早世してしまったが、まだまだ同時代を知る人々が存命であり、調査の可能性が知れたことは収穫であったと思う。[新川徳彦]

関連レビュー

「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」(オープニングトークと特別シンポジウム):artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape
浮遊するデザイン──倉俣史朗とともに:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape

2014/06/22(日)(SYNK)

中村誠の資生堂──美人を創る

会期:2014/06/03~2014/06/29

資生堂ギャラリー[東京都]

昨年6月に亡くなったグラフィックデザイナー・アートディレクターの中村誠の回顧展。1949年に資生堂に入社した中村は、1950年代から80年代にかけてアートディレクターとして資生堂の、ひいては化粧品広告全体のイメージを牽引する多数のグラフィックを手がけた。展覧会は、中村誠がディレクションしたポスターを中心に、詳細な指示が入った校正紙、ダーマトグラフなどの仕事道具、生前の本人へのインタビュー映像によって、その仕事を振り返る構成。なんといっても横須賀功光が山口小夜子をモデルに撮影したポスターが印象的だ。もとになった写真自体が完成度の高いものであるが、レイアウトや色校正に書き込まれた指示からわかるのは、写真やコピーがひとつのポスターとして完成するまでに及ぼされたディレクターの力である。写真の大胆なトリミングはもちろんのこと、中村は校正紙に色鉛筆で色調を追加し、カッターで削ってハイライトを入れた。校正は幾度も繰り返され、多いときには11校にまで至ったこともあるという。こうした厳しい要求に応える印刷会社の製版・印刷担当者を敬意をもって「プリンティング・ディレクター」と呼んだのは彼が最初だという。
 中村誠は、資生堂広告の女性像をイラストレーションから写真へと転換させたといわれる。表現手法としてはたしかにそのとおりである。中村自身はイラストでは先輩にあたる山名文夫の領域に達することはできないと自覚し、またデザイナーでなければ写真家になりたかったと語っているほど写真表現が好きだったようである。しかし、写真が、コピーが、一枚のポスターとして完成するまでのプロセスをみると、彼がつくりあげた表現はそんな単純なものではなく、印刷技術をも駆使して描き上げた一枚の絵といってよい。また中村誠の功績は変化以上に継承にある。展覧会関連トークで資生堂出身のグラフィックデザイナー・松永真は、中村誠がそのディレクションによって資生堂の「記号」をつくりあげたことを繰り返し強調していた。すなわち、山名文夫らはイラストレーションによって資生堂の企業アイデンティティを確立させた。中村は異なる表現手法によってそのアイデンティティを継承していったのである。人が変わっても、商品が新しくなっても、企業のアイデンティティ、文化は受け継がれていく。資生堂はこのような文化の継承をミーム(文化的遺伝子)ということばで語ってきた。資生堂はそれぞれに個性溢れるデザイナーを多数抱え、またフリーランスになって活躍する者が数多くいるなか、中村は「一業、一社、一生、一広告」をモットーに、企業デザイナーとして資生堂のヴィジュアル・アイデンティティを継承し、それを発展させ続けた人物なのである。[新川徳彦]

2014/06/22(日)(SYNK)

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藤井達吉の全貌──野に咲く工芸 宙(そら)を見る絵画

会期:2014/06/10~2014/07/27

松濤美術館[東京都]

工芸家・藤井達吉。「といってもほとんどの人がご存じないと思いますが」という言葉がその解説には必ず付くというが、じっさい筆者もその名前を知らなかった。1881(明治14)年生まれの藤井が創作活動を行なったのは明治末年から大正期にかけて。輸出振興を目的とした工芸の時代が終わりつつあるころに、素材や技巧を極めるのではなく、身の回りの生活を豊かにする新しい自由な工芸を創造した人物である。吾楽会、フュウザン会、装飾美術家協会、日本美術家協会、无型などの前衛的なグループに参加。その活動は藤井とも交流のあった富本憲吉、津田楓風、バーナード・リーチ、高村豊周らの活動、そして民藝運動やアーツ・アンド・クラフツ運動の思想とも重なる。作品は文字通り「自由」だ。七宝、刺繍、染織、金工、木工、陶芸、漆工などの工芸全般から、日本画、油彩画、木版画などの絵画まで、手がけた技法は驚くほど多彩。「工芸家」という肩書きは仮のものに過ぎない。展示された作品を見ると、形よりも装飾、図案に関心を抱いていたことがうかがわれる。おそらくそのことが、多様な技法を横断した作品づくりの理由のひとつであろう。装飾には多く自然の植物がモチーフとして用いられている。伝統的な既存の文様が用いられていない点は、富本の「模様から模様をつくらず」という言葉と響き合い、また絵画も含め身の回りのあらゆる工芸を自身で手がけていた点は、ウィリアム・モリスの仕事を想起させる。技術を追求するのではなく、つねにアマチュアリズムを標榜した藤井の活動は、雑誌『主婦之友』に手工芸制作の連載を持ったことに現われている★1。近年になって近代工芸における藤井の革新性、先進性が評価され始めたということもうなずける。
 昭和に入ると藤井は公募展やグループ展などとの関係を絶った。1964(昭和39)年に83歳で亡くなるまで創作活動や後進の指導を継続していたにも関わらず、自ら表舞台から去ってしまった。彼のものづくりには常に支援者があり、作品は彼らの手元で大事に使われていたために、一般の目に触れることもほとんどなくなってしまった。それゆえこれまで美術史や工芸史において評価されることがなかったという。1990年代になり、とくに大正期に藤井を支えていた支援者たちのもとにあった作品の存在が明らかになり、工芸史の展覧会に出品されたり、回顧展が開催され、その活動と作品とが明らかにされてきた。2005年には本展と同じ松濤美術館で、支援者のひとりであった芝川照吉(彼は岸田劉生の支援者でもあった)に焦点をあてた展覧会が開催され、芝川が支援した他の画家・工芸家の作品とともに多数の藤井作品が紹介されている★2。2008年には藤井達吉の出身地、愛知県碧南市に「碧南市藤井達吉現代美術館」が開館。今回の展覧会は、近年行なわれてきた藤井達吉研究の集大成といえよう。[新川徳彦]

★1──近代デジタルライブラリーで、藤井達吉の「家庭手芸」に関する書籍が閲覧可能である。藤井達吉『家庭手芸品の製作法』(婦人之友社、大正12年)藤井達吉『素人のための手芸図案の描き方』(婦人之友社、大正15年)
★2──「幻想のコレクション:芝川照吉──劉生、達吉、柏亭らを支えたもう一つの美術史」(渋谷区立松濤美術館、2005/12/6~2006/1/29)。

2014/06/19(木)(SYNK)

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琳派展XVI:光琳を慕う──中村芳中

会期:2014/05/24~2014/06/29

細見美術館[京都府]

江戸時代後期に大坂を中心に活躍した絵師、中村芳中(?~1819)の展覧会。芳中の描いた屏風や図絵、扇面、木版などを中心に、尾形光琳による屏風や乾山による絵付茶碗、芳中と同時代に活躍した絵師らの作品が会場に並ぶ。琳派といえば、第一世代の本阿弥光悦や俵屋宗達から第二世代の尾形光琳と乾山へ、そして江戸琳派と称される第三世代の酒井抱一までの流れが思い浮かぶ。のびやかな形態の抽象化、おおらかで力強い構成、はなやかで優美な色彩を特徴とする、日本美術を代表する流派のひとつである。
芳中を琳派の一角に位置づけたのは《光琳画譜》(1802)である。琳派の特徴はたしかにみられるものの、第一印象は「やさしい」である。しかも、気抜けするほどに「やさしい」。梅も蒲公英も葵も、仔犬も鳩も鹿も、六歌仙も七福神も、皆のんびりほのぼのとした笑顔で、かつ形象はどこまでも丸い。相当の描写力がなければこのように描くことはできないとは思うものの、それを感じさせないほどに筆致はいかにも軽快で、なんの気負いもなく気楽に描いたかのようにみえる。さらに、芳中が得意とした技法、たらし込みが画面を和らげる。たらし込みは濃淡の異なる絵の具をにじませてむらをつくる塗り方で、俵屋宗達が生み出した技法というから琳派としても正当な技法なのであろう。
時代は、上方が華やいだ元禄期を終えて、江戸が主役の文化・文政期を迎えようとしていた。江戸の庶民はきりりと引き締まった粋を好み、滑稽や洒落、風刺をもてはやした。芳中は《光琳画譜》を刊行して間もなく帰坂し、生涯を大坂で閉じる。江戸での活動はわずかな期間であった。江戸を後にするとき、彼はなにを思ったのだろうか。どこまでもやさしい作風に、その人柄を想像せずにはいられなかった。[平光睦子]

2014/06/18(水)(SYNK)

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