artscapeレビュー
SYNKのレビュー/プレビュー
IMARI/伊万里──ヨーロッパの宮殿を飾った日本磁器
会期:2014/01/25~2014/03/16
サントリー美術館[東京都]
17世紀初頭から佐賀県有田でつくられはじめた日本で最初の磁器は、近隣の伊万里港から各地へ出荷されたために「伊万里焼」の名で呼ばれるようになった。17世紀半ばになると、伊万里焼はオランダ東インド会社の手によって大量にヨーロッパに輸出されるようになる。しかしながら、公式な輸出取引は18世紀半ばには途絶えてしまった。この展覧会では、この100余年における輸出用伊万里焼生産の盛衰、製品・絵付けなどの変化と海外での受容の様相を、大阪市立東洋陶磁美術館が所蔵する古伊万里コレクションを中心に、サントリー美術館、九州陶磁文化館の所蔵品を加えて辿る展覧会である。
第1章「IMARI、世界へ」は、1660年から1670年代までの初期輸出用伊万里焼を取り上げている。日本で磁器が初めて焼かれたのは17世紀初頭。おもに景徳鎮から輸入されていた磁器の代替品として生産が始まり、次第に生産量と技術水準が向上していった。転機をもたらしたのは明から清への王朝交代である。ヨーロッパでは長らく磁器を焼くことができなかったために、中国から輸入される磁器は「白い金(white gold)」と呼ばれ、金に匹敵する価値のある貴重な品として取引されていた。ところが、中国国内の内乱と清朝による海禁令(貿易禁止令)によって、ヨーロッパへの磁器輸出を行なっていた景徳鎮からの製品供給が途絶えた結果、オランダ東インド会社は有田にその代替的な供給を求めたのである。最初の輸出は1659年。初期の輸出品は中国の青花磁器(染付磁器)を模したものが多く、不足する供給をまかなうためか一部国内向けに絵付けされた製品も輸出されたという。第2章は、「世界を魅了したIMARI──柿右衛門様式」。1670年から1690年代までの輸出最盛期を取り上げる。暖かみのある乳白色の素地に色絵を施した磁器はヨーロッパで人気を博し、その後各地で多くの模倣品が作られた。第3章は「欧州王侯貴族の愛した絢爛豪華──金襴手様式」。1690年から1730年頃には柿右衛門様式の色絵磁器は姿を消し、大型の壺や瓶に色絵と金彩による金襴手と呼ばれる絵付けを施した製品が輸出される。他方で、清朝の安定により1684年に中国からの磁器輸出が再開されると、景徳鎮でも伊万里の様式を模した製品が作られるようになり、伊万里焼は熾烈な国際競争を強いられるようになる。第4章は「輸出時代の終焉」。最終的に伊万里焼は圧倒的な生産量を誇る景徳鎮との競争に敗れ、またヨーロッパでの磁器生産も始まり、輸出は衰退。長崎貿易制限令もあって1757年に公式な輸出は幕を閉じることになる。
オランダ東インド会社は、景徳鎮に対しても有田に対しても希望する製品の型や絵付けに詳細な指示を出していた。ヨーロッパ人は自分たちで磁器をつくることはできなかったが、長いあいだ自分たちが欲する製品の製造を「外注」していたのだ。ただし、希望どおりの品が手に入るとは限らない。こうした文脈で特に興味深かったのは、オランダ人画家コルネリス・プロンクの下絵によって景徳鎮と有田でつくられた《色絵傘美人文皿》である。同じ下絵が元になっているにもかかわらず、景徳鎮のものは中国風の美人図、伊万里は浮世絵に見られるような日本美人が描かれているのである(結局注文は景徳鎮の製品に行ったという)。こうした模倣の様相と、それが完全ではないために生じた「オリジナリティ」は、アジア内に留まらず、オランダのデルフト焼などのヨーロッパの窯とのあいだにも生じている。また、絵付けばかりではなく、ヨーロッパの金属器を模した磁器が日本でつくられた例もあり、グローバルな商品としての磁器の流通がデザインにおいて東西の交流をもたらした姿はとても興味深い 。
ものには、つくり手と受け手とで異なる文脈があることも、本展で示されている点であろう。伊万里焼はつくり手にとっては海外からの注文に応じた「商品生産」であったが、輸出先のヨーロッパにおいては高価な「美術工芸品」として需要されていた。本展の展示はつくり手側を取りまく環境の変化によって代表的な輸出品を構成しているが、他方で展示デザインではヨーロッパの宮殿につくられた「磁器の間」を再現している部分もあり、これは受け手の視点なのである。そして、受け手の側に立つならば、それが日本のものなのか中国のものなのか、明確に区別できていなかったであろうことも考慮する必要がある。
本展は、長野(松本市美術館、2014/4/12~6/8)、大阪(大阪市立東洋陶磁美術館、2014/8/16~11/30)に巡回する。[新川徳彦]
展示風景
2014/01/24(金)(SYNK)
手塚治虫×石ノ森章太郎──マンガのちから
会期:2014/01/15~2014/03/10
大阪歴史博物館[大阪府]
二人の偉大なマンガ家、手塚治虫(1928-1989)と石ノ森章太郎(1938-1998)の歩みに焦点を当て日本のマンガとアニメの源流を探る展覧会。二人による未使用原稿や生原稿、関連映像などが展示されている。また手塚治虫と石ノ森章太郎に影響を受けた各界のクリエーターたちやその作品も紹介されている。マンガの展覧会となると生原稿や資料をガラスケースに並べる場合が多く、時折退屈するものもあるが、同展はトキワ荘の再現やめくって読めるマンガ本、多様な記録映像など、さまざまな工夫が凝らされており、いっそう楽しむことができる。[金相美]
2014/01/18(土)(SYNK)
パテック フィリップ展──歴史の中のタイムピース
会期:2014/01/17~2014/01/19
明治神宮外苑 聖徳記念絵画館[東京都]
スイス・ジュネーヴの最高級時計ブランド、パテック・フィリップ社の創立175周年および日本・スイス国交樹立150周年を記念し聖徳記念絵画館で展覧会が開催された。ロシア圧制下にあったポーランドからスイスに亡命したアントワーヌ・ノルベール・ド・パテックと時計師フランソワ・チャペックによって創業されたパテック・チャペック社がその起源で、後にフランスの天才的な時計師ジャン=アドリアン・フィリップと出会い、1851年にパテック・フィリップ社と改称された。英国のヴィクトリア女王や夫であるアルバート公、作曲家のチャイコフスキーやワーグナー、作家のトルストイなど、多くの偉人たちが顧客となってきた時計メーカーである。今回の展覧会は、聖徳記念絵画館を舞台に、ジュネーヴのパテック・フィリップ・ミュージアムが所蔵する19世紀半ばから20世紀初めまでの懐中時計の名品80点が、それぞれの絵画に合わせて展示された。絵画館が会場に選ばれた理由は、主に3つ。パテック・フィリップ社が名声を確立した時代が日本の明治時代にあたること。明治天皇が時計好きであったということ。岩倉具視らの使節団が1873(明治6)年にヨーロッパを訪問した際にパテック・フィリップ社を見学した
絵画館の重厚な空間、明治天皇の事績が描かれた日本画と洋画80点を背景に、ほぼ同時代の懐中時計がケースに入って並んでいる。通常、歴史的な製品を紹介するのであればその製品の説明ばかりではなく、時代背景の紹介も必要となろう。しかしここにはすでに絵画と解説パネルが設置されており、それ以上の説明はいらない。空間それ自体が「伝統と革新」というパテック・フィリップ社のイメージと見事に一致している。とてもシンプルな会場構成であったが、それがなによりも効果的であった。
スイスの時計産業は1970年代のクオーツ・ショックで大きな打撃を受けた。しかしながら、その後の日本の時計産業が低価格競争によって疲弊していく一方で、スイスの時計産業は高級路線によって再編され、売上を拡大してきた。そうしたスイス高級時計ブランドのなかでも、とくにパテック・フィリップ社は他のブランドに呑み込まれることなく、独自の路線を貫いてきた存在である。170年余という歴史や、著名人に愛されてきたことがブランドのイメージに資してきたことはもちろんであるが、そのものづくりの背後には、技術や素材における絶え間ない革新が見て取れる。それでいながら、100年前の時計でも修理できるという技術を保持し続けている。デザインにおいて流行を追うことはなく、外部のデザイナーと共同することもないというが、つねに新しい製品を出し続け、それでありながら不思議と過去の製品が古びては見えない。消費されるデザインではないのである。時計以外の製品を手がけることはなく、ブランドのイメージは拡散しない。需要が拡大してもやみくもに生産を拡大することはなく、独自の基準を設けて品質の保証を優先する。きらびやかな宝石によって付加価値を付けるのではなく、手作業による超絶的な加工・組み立てがそのまま製品の価値、価格として認められている。それらを実現しているのは自社の歴史と強みに対する正しい認識ではないだろうかと今回のコレクションを見て感じた。アジアとの価格競争に窮している日本の製造業を見るに、パテック・フィリップを初めとするスイス時計産業の歴史的展開には学ぶところがたくさんあると思う。[新川徳彦]
2014/01/17(金)(SYNK)
「みんなのサザエさん」展
会期:2014/01/15~2014/01/26
大丸ミュージアム神戸[兵庫県]
1969年の放送開始から今年で45年目を迎えるアニメ『サザエさん』の世界を再現した展覧会。「サザエさん」は第一回から現在まで変わらず日曜の夕方に放送されるスタイル、ギネス記録をもつ世界一の長寿アニメ。本展では、磯野家やあさひが丘商店街をセットでつくり、家の間取りを模型で示したりと、工夫をしてアニメの世界を具体化している。長谷川町子の漫画「サザエさん」は、1946年に連載が始まり74年まで続いた。戦後復興から高度成長期を経る、戦後30年の生活変化の大きな振れ幅を示しているわけだ。以後、映画化やアニメ化がされたので、社会風刺精神の効いた原作漫画とアニメは別物と言える。とはいえ、核家族ではなく三世代が一緒に暮らす家庭の平和な情景、平等な家族観、近所とのオープンな関係という昭和時代の社会文化や、サザエさんという戦後の新しい女性像/キャラクター設定が生み出す魅力について、考えさせられる展覧会であった。[竹内有子]
2014/01/17(金)(SYNK)
アートが絵本と出会うとき──美術のパイオニアたちの試み
会期:2013/11/16~2014/01/19
うらわ美術館[埼玉県]
この展覧会はもともとは「前衛と絵本」というタイトルで企画されたと聞く(たしかに英文タイトルは「Avant-garde and Children」である)。すなわち、ロシア・アヴァンギャルドから現代アートまで、表現の先端にあり、かつ子どものための絵本においても実験精神を発揮した美術家たちの仕事を辿る展覧会である。展示はおおむね美術運動の時代別に7章に分けられ、美術家たちの多彩な作品を紹介するとともに、その制作活動のなかに絵本を位置づけている。第1章と第2章は海外の前衛美術運動と絵本の関係。単純な色と形、廉価な造本。革命直後のロシアにおいて絵本は子どもたちの教育と啓蒙の媒体であると同時に、ロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちの実験の場であったことが示される。また、ダダや未来派などのタイポグラフィによる絵本の試みも面白い。第3章からは日本の前衛と絵本。村山知義、柳瀬正夢らの仕事には、同時代の海外の動向を取り入れつつ、それを独自の表現へと昇華させていった様が見て取れる。第4章は絵本における抽象表現の先駆けとして恩地孝四郎、第5章では絵本雑誌『コドモノクニ』(東京社)を舞台とした古賀春江らの幻想的な世界が紹介されている。第6章は、童詩雑誌『きりん』を中心とした吉原治良ら具体美術協会と絵本の関係。さらに元永定正の抽象絵本が多数紹介されている。第7章は池田龍雄、山下菊二、高松次郎、大竹伸朗ら、現代美術家が手がけた絵本である。
なぜ美術家が絵本を手がけるのか。その理由はさまざまであるように見える。革命直後のソビエトにおいては、絵本には子どもたちの教育という目的があった。印刷技術や出版業の発展、絵雑誌など、絵本を取りまく環境の変化も挙げられる。しかしそれは童画家なども含む絵本画家全般に言えることである。もうひとつ、この展示で示唆されているのは、美術家と子どもたちとの直接的な関わりである。シュヴィッタースのおとぎ話や絵本は、彼とその子どもたちとの日常から生み出されたものだ。柳瀬正夢は無類の子ども好きであったという。恩地孝四郎は、絵本雑誌『子供之友』(婦人之友社)から村山知義や武井武雄の童画を抜粋し、自分の子どものために装幀し直したりもしている。子どもを持つことが、美術家たちに新たな表現の対象を見出させるのだ。そして何よりも、それはけっして大人から子どもに与えるという一方的な関係ではない点が興味深い。
絵本と子どもたちの関係を見ると、美術に対する反応が大人たちのそれとはずいぶんと異なっているようだ。元永定正の抽象絵本には、いったい誰を読者に想定しているのだろうという印象を抱いたのだが、これが子どもたちに人気で、なかでも『もこ もこもこ』(文研出版、1977)は最近100万部を超えたということを聞いて驚いた。アマゾンのカスタマー・レビューには、大人にはさっぱりわからないが、子どもにがとても気に入っているという記述がいくつもある。なるほど、子どもには見えていても大人になるにつれて見えなくなるものがあるのだということを改めて思い知らされる。
本展は下関市立美術館に巡回する(2014/7/17~8/31)。[新川徳彦]
2014/01/16(木)(SYNK)