artscapeレビュー
SYNKのレビュー/プレビュー
愛せよコスメ!
会期:2014/01/25~2014/03/30
伊勢半本店 紅ミュージアム[東京都]
江戸時代後期、文政8(1825)年に紅屋として創業した伊勢半は、戦前期から西洋風のスティックタイプの口紅の研究に取り組んでいたという。そうした試みが開花し、伊勢半が紅屋から総合化粧品メーカーとして飛躍するのは第二次世界大戦後。「キスミー」ブランドのもとで、口紅をはじめとして、香水、リップクリーム、ファンデーションなど、さまざまな商品が販売されてきた。この展覧会は、商品やパッケージ、広告や宣伝活動など、さまざまな側面から戦後のキスミーブランドの歴史をたどる構成である。たとえば、戦後すぐにはアメリカ的、アメリカ受けする真っ赤な色の口紅が流行。その後もトレンドに合わせて口紅の色も変化してゆく。映画がモノクロからカラーになったことで、海外の映画女優たちのメイクがお手本になったり、演出色が優れない蛍光灯の普及によってそれを補うべくメイクの色が鮮やかになる。販売方法もまた女性のメイクに影響する。一般に対面販売が行なわれていた化粧品において、セルフ販売方式のパッケージを最初に開発したのは伊勢半だ(昭和38年)。これによって美容部員に勧められて買うのではなく、スーパーやドラッグストアで消費者が自ら好きな商品、色を買うことができるようになったのである。最近の商品では、少女漫画風のヒロインをパッケージに配した「ヒロインメイク」シリーズが印象的だ。「エリザベート姫子」と名付けられたこのキャラクターによる広告は、メイクに縁のない筆者にも強烈な印象を与えた。ファッションもそうであるが、化粧品もまた社会や時代の変化と密接に結びつき、そして時代をつくってきたことがよくわかるすぐれた企業史展である。[新川徳彦]
2014/02/21(金)(SYNK)
東宝スタジオ展 映画=創造の現場
会期:2015/02/21~2015/04/19
世田谷美術館[東京都]
世田谷美術館がある砧公園と小田急線成城学園前駅のあいだ、仙川沿いに立地する東宝砧撮影所、現・東宝スタジオの80年余にわたる歴史を、膨大な資料で読み解く展覧会。
映画というテーマを、それも映画そのものではなく、撮影所という場とその歴史を、美術館でどのように見せるのか。展覧会の縦糸となっているのはもちろん時間。展示は1954年に公開された東宝映画を代表する二つの作品『ゴジラ』と『七人の侍』で始まり、東宝映画の前身のひとつである写真化学研究所(Photo
Chemical Laboratory 、略称P.C.L.)によるスタジオの設立(1932)に時間を戻し、そこから戦中戦後を経て、日本映画の最盛期である1950年代60年代にフォーカスする。そして1971年に東宝スタジオと名前を改め、東宝映画専門の撮影所から貸スタジオになり、映像のデジタル化が進んだ現在の仕事までが紹介されている。
緯糸は撮影所に関わった人とその仕事。とはいえ、その視線は監督や出演者ではなく、美術監督や衣装デザイナー、すなわち映画の裏舞台にいるクリエーターたちに向けられているところが本展の特徴であろう。映画監督も一部紹介されているが、資料は本人によるスケッチや絵コンテなどが中心。それらに加えて、日誌など撮影所の資料、映画ポスターや台本、パンフレット類が並ぶ。展示のあいだには関連する映画の予告編映像などがモニタで流されているほか、美術館の壁面をホリゾントに見立てて雲が浮かぶ青空が描かれている。これはゴジラシリーズにも関わってきた特撮映画の背景師、島倉二千六氏に描いてもらったものだという。東宝撮影所を語るうえで避けて通ることができない東宝争議についてもきちんと触れられている。山下菊二(東宝映画に務めていた)や、高山良策(その後のウルトラシリーズの怪獣造形で知られる)による封鎖中のスタジオのスケッチ、内田巌《歌声よ起これ(文化を守る人々)》など、絵画に描かれた争議の記録も興味深い。
このほか撮影所が立地した場にも光が当てられている。東宝スタジオに関わった世田谷在住作家の作品は2階のコレクション展(「世田谷に住んだ東宝スタジオゆかりの作家たち」、2015/1/4~4/12)と併せて見たい。高峰秀子が寄贈した梅原龍三郎らによる自身の肖像画、東宝で映画美術監督を務め画家でもあった久保一雄の油彩、宮本三郎が描いた女優たち、一時期東宝映画に務めていた村山知義、難波田龍起らの作品が出品されている。
資料が多く鑑賞にはかなりの時間を要する。ただし展覧会図録には美術監督や衣装デザイナー、映画監督ら18人の一部の作品が収録されているのみなのが残念である。また「企業と美術」というテーマで世田谷美術館で開催されてきたこれまでの企画展のひとつとして本展を見るならば、もう少し撮影所の経営面についても触れて欲しかったと思う。映画はクリエーターたちが生み出す芸術作品であると同時に、映画会社にとっては商品である。制作の現場である撮影所が主題であっても、生み出される作品、映画作りのシステムの変遷を理解するうえでそれぞれの時代における経営面での課題を知ることは欠かせないと思うのだ 。[新川徳彦]
2014/02/20(金)(SYNK)
熱情と冷静のアヴァンギャルド
会期:2014/01/17~2014/03/05
dddギャラリー[大阪府]
ロシア・アヴァンギャルド、デ・ステイル、バウハウスといった1920~30年代のアヴァンギャルディストから、50~60年代に影響力をもったスイス派やオランダのグラフィック作品まで約50点が揃う、小規模ながらたいへん充実した展覧会。ポスターのみならず機関誌・カタログ等が展示され、20世紀モダンデザインの潮流・展開、芸術家同士の相互交流について理解できるように配慮されている。前述のビック・ネームから、珍しいところではチェコ・アヴァンギャルドの諸作品も見ることができる。社会的ユートピアを追求する戦前のモダニストたちの熱い息吹を感じさせるものから、戦後における理知的・論理的に構成されたグラフィック作品群、そしてユーモア溢れる表現まで、十分にその世界を堪能できる。大阪新美術館建設準備室のデザイン・コレクションの質の高さにも目を瞠らされる。と同時に、同ギャラリーの外装や展示のデザイン、素敵に工夫されたデザインの変形リーフレットにも注目。[竹内有子]
2014/02/20(木)(SYNK)
7つの海と手しごと《第4の海》──ギニア湾とヨルバ族のアディレ
会期:2014/01/25~2014/02/23
世田谷文化生活情報センター「生活工房」[東京都]
「7つの海と手しごと」と題したシリーズ。4回目の今回は、ナイジェリアのギニア湾沿岸に暮らすヨルバ族がつくる藍染めの布「アディレ(adire)」と、その制作を行なう人々の暮らしが紹介されている。この藍染めの技法には、布を糸で括って染める絞り染め「アディレ・オニコ」、ミシンのステッチで縫い絞る「アディレ・アラベレ」、防染糊をへらで布に置いて文様を描いて染める「アディレ・エレコ」がある。技術は母から娘へと受け継がれ、つくられた布は婚礼の持参品とされたり、女性のラップドレスや肩掛け布として売られる。
その技法の歴史的展開はとても興味深い。「アディレ」はもともと絞り染めを指す言葉であったが、19世紀にヨーロッパから安価で目の細かい布が大量に入ってきたことで、1900年頃から糊防染による「アディレ・エレコ」が行なわれるようになり、より細かく自由度の高い文様が染められるようになったという。ギニア湾沿岸はかつて奴隷貿易で栄えた地域であり、古くからヨーロッパとの経済的な交流が盛んであった。防染糊に用いられるキャッサバ芋も、ヨーロッパ人がアメリカ大陸からアフリカに食料としてもたらしたものである。「アディレ・アラベレ」に用いられるミシンも、欧米の製品だ。アフリカが海を通じてヨーロッパやアメリカとつながったことが「アディレ」の歴史をつくり、ヨルバ族の女性たちはその時々の新しい素材、新しい技術によって、伝統を守りつつ、ものづくりを発展させていったのだ。
とはいえ、手仕事を中心としたアディレの生産は衰退しつつあるという。教育水準や所得の向上、生活様式の変化が、賃金も生産性も低い伝統的な生産方法を衰退させ、製品は合成染料を用いたプリントによる安価な量産品へとシフトしているのだ。その一方で、伝統的な製法によるアディレを高く評価する動きもあるというが、十分な市場を見出すことができるかどうか、注目したい。[新川徳彦]
2014/02/18(火)(SYNK)
メイド・イン・ジャパン南部鉄器──伝統から現代まで、400年の歴史
会期:2014/01/11~2014/03/23
パナソニック汐留ミュージアム[東京都]
ピンク色の鉄瓶と鍋敷き。日本語よりも大きな面積を占めている英文の展覧会タイトル。「南部鉄器」という言葉から抱く伝統工芸的なイメージと、本展のポスターやチラシとのギャップにまず驚かされる。モチーフとなっているカラフルな鉄瓶は、1902(明治35)年に創業した南部鉄器メーカー・岩鋳が欧米向けに製造しているティーポットである。岩鋳の海外進出は1960年代後半。鮮やかに着色されたティーポットはフランスの茶葉専門店からの依頼で昭和50年代半ばに開発された製品で、欧米では「イワチュー(iwachu)」が鉄瓶の代名詞になるほど売れているのだという
展示第1部「南部鉄器の歴史」では、江戸時代からの伝統的な南部鉄器の歴史が綴られる。17世紀半ば、南部家の藩主南部利直が街づくりと文化の振興に努めるなかで京都などから鋳物師や釜師を呼び寄せて仏具や兵器、そして茶の湯の釜をつくらせたのが南部鉄器の始まりである。1750年頃に鉉(つる=持ち手)と注ぎ口のついた鉄瓶が開発されたことで、南部鉄器は茶の湯の道具から日用品へとその用途が拡大する。しかしながら、社会環境の変化や戦争は南部鉄器にとって逆風となった。太平洋戦争期には金属製品の製造が制限され、その伝統の継承も一時的に危機に陥る。戦後はまたアルミニウムやステンレスなどの軽くて丈夫な金属製品が登場し、熱源がガスや電気に変ったことで、南部鉄器への需要が失われてゆく。第2部「南部鉄器の模索・挑戦といま」では、そうした環境の変化のなかで行なわれてきた新しい製品づくりの試みが紹介される。釜定工房・宮昌太郎のモダンなオブジェ、岩鋳の輸出向製品などの革新が目を惹くばかりではなく、伝統を継承した茶釜や鉄瓶にもすばらしいものがたくさんある。そして第3部は「南部鉄器による空間演出」。工業デザイナー・柳宗理による南部鉄器を用いた鍋と、キッチンや食卓のコーディネート。釜定工房・宮伸穂とインテリアデザイナー内田繁とのコラボレーションによる釜と茶室。カラフルなティーポットによる店頭展示の再現や、鉄器を用いたテーブルコーディネートによって、南部鉄器のある生活空間が提案されている。歴史、現在、提案とパートごとにメリハリをつけた展示空間も美しい。
最近では欧米ばかりではなく、中国でも南部鉄器の鉄瓶が人気を博しているという。かつては中国から質の悪い偽モノが日本に流入するという事件もあったようだが、茶が美味しく入れられるということで、この数年は富裕層のあいだで質の高い南部鉄器を求める動きが顕著で、生産量が限られる南部鉄器の工房は殺到する注文に悲鳴を上げるほどと聞く。この展覧会にも中国からのお客さんが多く訪れているという。欧米での人気を受けて、日本国内でも南部鉄器への人気が高まっている。手作業による伝統的なものづくりを守る一方で、量産も可能な新しい製品と、海外を含む新しい市場を開拓してきた南部鉄器。現在の成功は生活スタイルや文化が異なる多様な市場の要望に丁寧に応えてきた結果であり、伝統と革新のあいだでバランスを取りながら発展してきたその歴史の延長上にある。南部鉄器は「メイド・イン・ジャパン」のモデルケースのひとつなのだ。[新川徳彦]
2014/02/13(木)(SYNK)