artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
都築響一presents 妄想芸術劇場 ぴんから体操

会期:2012/04/30~2012/05/12
ヴァニラ画廊[東京都]
いわゆるエロ雑誌の投稿イラストページに25年以上も投稿を続けている、ぴんから体操の個展。投稿されたイラストのなかから厳選された作品で会場の壁面という壁面がびっしりと埋め尽くされ、屈折した欲望が匂い立つような迫力を醸し出していた。
なかでも際立っていたのが、暖色系の色彩で丸みを帯びた女体を描いたシリーズ。頭部と乳房と臀部をすべて丸に還元して再構成した女体は、もはやエロティシズムの対象ですらなく、部分と部分を接続させて理想的な女体を造成しようとした結果、えもいわれぬ怪物をつくり出してしまったように見えたからだ。限界芸術としての手わざを反復していくうちに、やがて欲望が極限化してゆき、ついに限界芸術から離れた異形の物体を創造してしまったぴんから体操。そこに、じつは純粋芸術にも大衆芸術にも限界芸術にも通底する、ものづくりの核心がひそんでいるように思えてならない。あえて比較するとすれば、バッタもんのバッタもんの制作に熱中している90歳のおばあさんも、ぴんから体操の「狂気」を、方向性こそちがうとはいえ、じつは共有しているのではないだろうか。
なお、余計な一言を付け加えておけば、本展企画者の都築響一は、ぴんから体操のような周縁的なクリエイターの仕事を、例によって現代美術界からの無視や黙殺に対抗するかたちで紹介しているが、きわめて例外的であるとはいえ、現にこのようにして鑑賞され、言説化されている以上、その手はもはや通用しないのではないか。都築自身による新たな文脈化、もっと平たく言えば、新たな「芸」を期待したい。
2012/05/10(木)(福住廉)
今村源・袴田京太朗・東島毅「Melting Zone」

会期:2012/05/05~2012/06/02
ARTCOURT Gallery[大阪府]
事前に「ジャム・セッションのような展覧会になる」と聞いていたが、なるほどこのようなかたちだったとは。ジャムといっても3人が共作するのではなく、作品はあくまでそれぞれのものが展示されている。しかし、作品の配置を熟考することで、互いの作品があるときには近景になり、またあるときは遠景になって作用し合っているのだ。特に活躍しているのが今村の地下茎のような作品で、3人の世界をくっつける接着剤のような役割を果たしていた。また、中庭に置かれた東島の大作《聴嵐》(481×851cm)も、彼のこれまでの作品とは異なる存在感を放っていた。
2012/05/10(木)(小吹隆文)
勝正光が作品を携えて、別府から神戸に船でやって来た。──神戸での制作と展示とまち歩き
会期:2012/05/10~2012/05/15
GALLERY 301[兵庫県]
鉛筆によるドローイングを手がける勝正光の個展。1981年生まれの勝は大学卒業後、東京で活動していたが、2009年に別府で開催された「わくわく混浴アパートメント」への参加を機に同地に移り住んだ。今回の神戸での個展は、別府で勝に出会った神戸大学大学院国際文化学研究科の学生が企画したもの。出品作からはアートで結ばれた心と心の交流が伝わってきた。
それをもっとも象徴するのは、天井から無造作につり下げられた単語帳だろう。めくってみるとカードの一枚一枚に街角のスケッチ。さらには、側の机の上にも多数の単語帳──これは、展覧会に先立って行なわれた神戸の「まち歩き」の成果だ。勝と参加者たちは、2日間にわたり単語帳と6Bの鉛筆を手に長田や元町の路地を歩いてスケッチした。ぶら下がっているのは勝の単語帳、机の上にあるのは参加者たちの単語帳だ。描きなれない絵を描くことに最初は躊躇した参加者も、まち歩きが進むにつれ、スケッチに熱中し始めたという。勝は自らの制作スタイルを「自分の体を通して向き合えた姿勢そのものを鉛筆と紙で落とし込む」と述べるが、机の上の単語帳はまさに、言語ではなく黒鉛の線で街のイメージを表わす行為が、戸惑いから喜びへと変わる瞬間をとらえている。
実際、鉛筆と紙は、勝の身体そのものというべきかもしれない。本展には旧作も展示されたが、四角い紙の表面を筆触の跡形もなく鉛筆で丹念に塗りつぶした初期の作品は、紙という支持体によって、やっとのこと黒鉛がその薄氷のような身体を持ちこたえるかのようだ。鈍色の平面はやがて、スカーフの柄の輪郭線などを内部に刻み込むことになるが、これもまた、黒鉛でできたレースを想わせる。
対照的なのは、写真をもとに人物を描いた近作であるが、これは、別府で出会った人々に思い出の写真を見せられたことがきっかけで始められたという。「写真を描くことでその人の思いに寄り添えることに気づいた」と勝は語る。ここでも、写真のイメージをかたどる鉛筆の線は、たんなる輪郭線ではなく、黒鉛という彼の身体の断片であるかにみえる。おそらくは、黒鉛が織りなす物質性こそが、彼の感情そのものなのだ。この特質は、やはり既存のイメージを描いたドローイングではあるが、実物を見ずに、勝が幼い頃、神戸を訪れた記憶を頼りに描かれた甲子園球場などの新作ドローイングに一層あらわである。それゆえ、「尖った鉛筆を紙に押し当てること」に向き合う勝の姿勢には、人間が絵を描くことの根源的な意味をみる思いがする。[橋本啓子]


会場風景
2012/05/10(木)(SYNK)
土田ヒロミ「BERLIN」

会期:2012/05/09~2012/05/22
銀座ニコンサロン[東京都]
土田ヒロミは昨年11月に写真集『BERLIN』(平凡社)を刊行した。1983年、まだ“壁”の崩壊前に撮影したモノクロームのベルリンの写真に、1999~2000年に撮影し、写真集『THE BERLIN WALL』(メディアファクトリー、2001)にまとめたカラー写真群、さらに2009年にカラーとモノクロームで新たに撮影し直した写真群を加えた、三層構造の写真集だ。「見える壁と見えない壁の間に流れゆく時間」を、定点観測の手法を駆使して捉え切った力作である。その『BERLIN』の写真群が、「ニコンサロン特別展」として展示された(6月28日~7月11日に大阪ニコンサロンに巡回)。あらためてこのシリーズの意味と厚みを問い直すのに、ふさわしい機会になったと思う。
写真集を見たときにも感じたのだが、このシリーズでは、いつもの土田の明快な二分法的なコンセプトが影を潜めている。1983年、1999~2000年、2009年という、ベルリンを撮影した3つの時間、モノクロームとカラー、やや引き気味の建築写真と街頭の人々にカメラを向けたスナップショット──これらの異質な要素を、あえてシャッフルして無秩序に投げ出しているように見えるのだ。そのかなり混乱した印象を与える展示のレイアウトは、土田の現時点での世界観、歴史観をストレートに反映しているのではないだろうか。むろん、このシリーズは完結したわけではなく、これから先も続いていくはずだ。土田の『BERLIN』が、今後どんなふうに生成・変質していくのか、よくわからないだけに逆に楽しみだ。
2012/05/09(水)(飯沢耕太郎)
芸術家の肖像~写真で見る19世紀、20世紀フランスの芸術家たち

会期:2012/04/14~2012/06/24
三鷹市美術ギャラリー[東京都]
どちらかといえば渋い、地味な印象の展覧会だが、写真や美術に関心のある鑑賞者にとっては、とても興味をそそられる展示なのではないだろうか。出品されているのはフランスのコレクターが長年にわたって蒐集したという、画家、彫刻家を中心にしたアーティストたちの肖像写真群である。アングル、ドラクロアから、マネ、セザンヌ、ルノワール、ロダンなどの巨匠のポートレートがずらりと並び、マティスやブランクーシの写真に至る。詩人のシャルル・ボードレールや女優のサラ・ベルナールの肖像も含めて、19世紀~20世紀のフランスの錚々たる文化人たちが、こんな顔をしていたのだということがリアルに見えてくること自体が、なかなかの見物といえるだろう。
それに加えて、写真におけるポートレートというジャンルができあがってくるプロセスが、くっきりと浮かび上がってくるのが興味深い。いかにも型にはまったウジェーヌ・ディスデリの1850年代の名刺判写真(カルト・ド・ヴィジット)から、ナダールやエティアンヌ・カルジャの堂々たる古典的な構図の肖像を経て、ドルナックやエドモン・ベナールのアトリエの環境とモデルとの関係のあり方を緻密に測定・定着した作品まで、19世紀フランスの肖像写真の歴史は、写真という表現媒体の受容と発展の経緯を示す見事なサンプルでもある。それにしても、ここに写っているアーティストたちの姿かたちは妙に生々しい。画家や彫刻家たちの生身の身体から発するオーラが、写真家たちによって捕獲され、これらの写真のなかに封じ込められているようにも見えてくる。最近の「芸術家の肖像」では、なかなかこうはいかないのではないだろうか。
2012/05/09(水)(飯沢耕太郎)


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