artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

村越としや「ここから見える光は?」

会期:2012/03/06~2012/03/18

TAP GALLERY[東京都]

村越としやは福島県須賀川市の出身。いうまでもなく、震災による福島第一原子力発電所の大事故は他人事ではなかったはずだ。だが、今回彼がTAP GALLERYで開催した写真展を見てもわかるように、あえて原発や避難対象区域を撮影するのではなく、震災前から続けていた故郷の須賀川市を中心とした風景写真を発表している。35ミリ、6×6、6×7、パノラマサイズなど、さまざまなフォーマットの写真が壁に40枚ほど並んでいた。インクジェットで出力した大判プリントも1枚ある。もっとたくさん見せたかったそうだが、手持ちのフレームの数が足りなかったので断念したのだという。
村越の仕事は、いかにも古風でオーソドックスなモノクローム・プリントであり、湿り気の多い田園地帯や里山の眺めがしっとりとした雰囲気で画面におさまっている。その穏やかで繊細なたたずまいの風景を見ていると、震災や原発事故が実際に起こったことが信じられなくなってくるほどだ。だが逆に非常事態の写真があふれている現在の状況のなかで、彼があえて日常の眺めにこだわり続けていることの意味が見えてくる。震災後に6×7判のカメラで撮影した近作も6点ほど並んでいたが、その「変わりのなさ」に村越の強い意志を感じるのだ。これはこれで、震災に触発された写真のひとつの問いかけとして、充分に成立しているのではないだろうか。

2012/03/15(木)(飯沢耕太郎)

新井卓「Here and There──明日の島」

会期:2012/03/14~2012/03/20

銀座ニコンサロン[東京都]

ダゲレオタイプはいうまでもなく世界最初の実用的な写真技法。1839年にフランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが発明を公表したこの古典技法を、新井卓はそのままの製法で再現している(ただし、カメラは8×10インチ判のビューカメラを使用)。銀板を磨き上げて感光性を与え、水銀蒸気で現像するという、手間と時間のかかる技法を、彼がなぜわざわざ用いるのかといえば、ネガとポジが一体化した画像に独特の物質的な魅力があるからだろう。
新井はそのダゲレオタイプで、東日本大震災後の2011年4月~2012年2月に、福島県南相馬市、飯館村、川内村など自主的避難等対象地域を中心に撮影した。今回の「Here and There──明日の島」展には、風景、住人たち、飼い犬、山百合の切り花などに、1954年にビキニ環礁の核実験で被爆した第五福竜丸の船室に残されたカレンダーを撮影したダゲレオタイプを加えて15点が展示されていた。
ダゲレオタイプは、先に述べたように大変な手間がかかるだけでなく、1回の撮影で1枚の印画しかつくることができない。それゆえ、ダゲレオタイプで被災地の光景を撮影するという行為は、いやおうなしにモニュメント(記念物)として成立してしまう。実は普段見慣れている写真にも、このモニュメント性は分有されているのだが、われわれはそのことをあまり意識することはない。今回の大津波や原発事故のような非常時になって、初めてそのことが強く浮かび合ってきたともいえるだろう。だからこそ、津波で流失した家の瓦礫をかき分けて、人々はまず写真を探し求めたのだ。その意味で、一点制作の印画としてのダゲレオタイプの緊張感を孕んだ画像は、「震災後の写真」のひとつのあり方を明確にさし示しているのではないだろうか。
なお、同時期に新宿ニコンサロンでは鷲尾和彦「遠い地平線」(3月13日~19日)が開催された。被災地に向かうときの私的な感慨を、率直に、日記のように綴ったモノクロームのシリーズである。

2012/03/14(水)(飯沢耕太郎)

「遠くて、近すぎる ドミニク・レイマン」展

会期:2012/03/06~2012/03/25

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

3点の映像作品が出品された。2点は壁面に直接投影され、1点は絵画に映像を投影している。40秒ごとに人物が登場しては暗闇に吸い込まれていく《Let me Jump》という作品に軽い恐怖感を覚えた。40秒という単位は、世界で40秒ごとに誰かが自殺をしているというWHOの発表によるものらしい。残り2点は、スカイダイビングのチームが空中で大聖堂の天井を表現する様子を捉えた《60 sec. Cathedral》と、警察犬の訓練の噛まれ役の姿を抜き出した《Basic Training(bunraku)》だった。

2012/03/14(水)(小吹隆文)

GALERIE QUYNH/SAN ART

[ベトナム・ホーチミン]

アメリカ軍のもたらした悲劇を伝える戦争博物館や、川の中に浮かぶガウディ的な装飾に覆われた異形の寺院を見学した後、数少ない現代のアートスペースを訪れた。ひとつはベトナムやフランスの作家を扱うGALERIE QUYNHである。普通の店舗が並ぶストリートにおいて唐突にギャラリーが出現し、その内側では二層の良質なホワイトキューブが確保されていた。もうひとつは、ちょうど小泉明郎の映像作品を紹介する展覧会を開催していたオルタナティブスペース、SAN ARTである。これも住宅街の一部を改造して、現代美術の場に変えたものだった。

写真:上=GALERIE QUYNH、下=SAN ART

2012/03/13(火)(五十嵐太郎)

林忠彦 写真展 紫煙と文士たち

会期:2012/01/21~2012/03/18

たばこと塩の博物館[東京都]

林忠彦が『小説新潮』に1948年1月号から連載した「文士シリーズ」は、これまで何度も写真展に出品され、写真集として刊行されてきた。坂口安吾、太宰治、織田作之助、檀一雄ら、いわゆる「無頼派」の作家たちのイメージは、このシリーズによって決定されたといってもよい。だが、眼に馴染んだそれらの写真も、あらためて別なくくりで見てみると面白い発見がある。今回の「林忠彦 写真展 紫煙と文士たち」展は、その意味でとても気が利いた企画といえるのではないだろうか。
たしかに1970年代くらいまでの作家のポートレートといえば、くわえ煙草が定番だった。紫煙を燻らせながら沈思黙考し、原稿用紙に向う姿には、「文士」という古風な言い方がぴったりくる。80年代以降になると、「嫌煙」「禁煙」の声が高まり、煙草を吸っている姿を雑誌などの誌面で発現するのは難しくなってくる。先日、ある写真家と話をしていて、煙草を吸っている姿を撮影しようとしたら、同行した編集者からストップがかかり、その作家が激怒したという話を聞いた。そんなことがいろいろな場所で起こっているのではないだろうか。僕自身は煙草を吸わないので、「禁煙」が定着するのはいっこうに構わない。だがこの写真展を見ていると、小道具としての煙草の重要性にあらためて気づかされる。いかにもという雰囲気を醸し出すだけでなく、紫煙がその場の光を和らげるのに効果的に働くことが多いのだ。「作家と煙草」というテーマは、今後も取りあげられていくべきだと思う。
個人的な好みで、出品作から煙草が似合う作家のベスト3を挙げてみることにしよう。3位井伏鱒二、2位三好徹、そして1位は高見順。眉根に皺を寄せて、煙草の灰を灰皿に落とす様が見事に決まっている。

2012/03/13(火)(飯沢耕太郎)

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