artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
プレビュー:すべての僕が沸騰する─村山知義の宇宙─

会期:2012/04/07~2012/05/13
京都国立近代美術館[京都府]
ダダや構成主義といった前衛芸術から多大な影響を受け、大正末期から昭和初期にかけてジャンル横断的な活躍を見せた村山知義(1901~1977)。彼の業績を、1920年代以降の美術作品を中心に、雑誌、建築、舞台美術、商業デザインなどで振り返る。また、村山がドイツ滞在時に大きな影響を受けたカンディンスキーやクレー、活動を共にした和達知男、永野芳光の作品も展示される。1920年代日本の前衛芸術を語るうえで欠かせない存在ながら、今まで回顧展が開かれなかった村山。その全貌が遂に明らかにされる。
2012/03/20(火)(小吹隆文)
荒木経惟 写真集展 アラーキー

会期:2011/03/11~2012/07/22
IZU PHOTO MUSEUM[静岡県]
「3.11」に「写真集展」をぬけぬけとスタートさせるところが、いかにも荒木経惟らしい。タイトルが示すように、彼がこれまで刊行した写真集を中心とする著作450冊以上を一堂に会そうという破天荒な企画である。
僕は2006年に『荒木本!』(美術出版社)という本をまとめたことがある。荒木の全著作を解説つきで紹介したのだが、そのとき、1971年の「ゼロックス写真帖」シリーズから2005年に至る時期に出版された著作の数は357冊だった。それから6年余りで100冊ほど増えているわけで、これはやはり異常事態としかいいようがない。現時点において、またこれから先も、彼を超える生産量の写真家は絶対に現われてこないだろう。
実際に会場を見て、意外にすっきりと本が並んでいるのにむしろ驚いた。一番大きな壁に1冊ごとの小さな棚をつくって本を置き、その大部分は巨大なテーブルの上に並んでいて、手に取ってページをめくり、閲覧することができる。1980~90年代の名作がずらりと並んでいるのは壮観だし、最近はヨーロッパや台湾などで展覧会のカタログや翻訳本の出版が相次いでいるのもわかる。だが全体的には、本が整然と並んでいる印象が強いのだ。おそらく、杉本博司設計の美術館のスペースでは、荒木の事務所のように仕事と生活がごっちゃになったカオス的な雰囲気が感じられないのが、その大きな理由だろう。いっそのこと、美術館のスタッフが展示室をオフィスがわりに使ったりしていると、生活感が滲み出てきていいのではないかと思った。
著作のほかにも、「さっちんとマー坊」(1963)の巨大なポートフォリオの展示や「アラキネマ」全シリーズの上映、震災を全力投球で投げ返した新作の「‘11・3・11」シリーズの展示などもあり、盛りだくさんの内容だ。覚悟を決めて、朝から夕方まで部屋に詰めていれば、「荒木世界」にどっぷりと浸ることができるだろう。なお、関連企画として、6月10日(日)14:30~16:00に荒木と飯沢耕太郎との対談「『荒木本!』のマンダラ宇宙」が開催される。
2012/03/18(日)(飯沢耕太郎)
ベン・シャーン「クロスメディア・アーティスト──写真、絵画、グラフィック・アート」

会期:2012/02/11~2012/03/25
名古屋市美術館[愛知県]
アメリカの画家ベン・シャーン(1898-1969)の大規模な回顧展。会場の展示は、社会の不正義に迫り下層労働者の姿などにも目を向けていた時代に始まり、版画、グラフィック作品、戦前の写真やポスター、タイポグラフィなど、そしてアジアや日本をテーマにした作品という四つのセクションで構成されていた。なかでもたいへん興味深かったのは第五福竜丸事件(1954)をテーマにした「ラッキードラゴン」の一連の作品。イラストや絵画など、さまざまなものがあったが、シャーンがこんな作品を手がけていたとは今展で初めて知った。これは1958年から約10年間続けられたのだという。50枚のオリジナル、200枚以上のデジタルイメージが並んだ本人撮影の写真もさることながら、見応えのあるボリュームで、作品だけでなくベン・シャーンの作家像も浮かび上がってくるような内容。4会場を巡回する展覧会で現在は岡山県立美術館で開催中(会期:2012年4月8日~5月20日)。
2012/03/18(日)(酒井千穂)
青木野枝「ふりそそぐものたち」

会期:2012/03/01~2012/04/01
ギャラリー21yo-j[東京都]
天井が斜めってるギャラリー空間をいっぱいに使った彫刻インスタレーション。鉄板を細長く溶断したものを束ねてラッパ状の形態をつくり、それを12本林立させている。見上げると12個の鉄の輪が浮かんだようなかたち。各“ラッパ”は下方が細くて床との接点が小さいため不安定に見えるが、鉄の輪は3面の壁との接点で溶接され、また各ラッパも接点で固定されているという。これは力作。いつも思うのは、毎回すごい労力をかけて制作、運搬、設置しているけど、特定の空間に合わせてつくったインスタレーションだから売れにくいし、使いまわしもしにくいし、かさばるから倉庫代も大変だろうに、それでもつくり続ける強靭な意志はどこから来るんだろうということ。
2012/03/18(日)(村田真)
VOCA展2012

会期:2012/03/15~2012/03/30
上野の森美術館[東京都]
19回目を迎えたVOCA展。特定の様式や流行に収斂しがたいほど多様な平面作品をそろえた展観は例年とあまり変わらない。けれども例年以上に気になったのは、全体的に作品のサイズがあまりにも大きすぎるのではないかということ。出品規定の限界ぎりぎりまで巨大化させたような作品が数多く、その大半が必ずしも功を奏していないように見受けられた。
たとえば、桑久保徹。例によって海岸の夢幻的な光景を描いた油絵を発表したが、壁面を埋めるほど巨大なそれは、2点の作品をひとつにまとめて額装したものだという。たしかにサイズの迫力は認められるものの、桑久保の他の作品と比べると、画面の構成が粗く、全体的に大味すぎる。絵具の塗り重ねも単調で、何より桑久保絵画の真骨頂ともいえる艶やかな光沢感がまったく失われていた。そこに震災の影を見出すことはできるにしても、これはやはり支持体のサイズが大きすぎるがゆえに、肝心の絵が間延びしてしまったのではないかと思えてならない。桑久保が描いた六本木トンネルの壁画にも同じような粗い印象を覚えることを、例証として挙げておきたい。
さらに、ボールペンを塗りつぶす椛田ちひろの作品は、縦方向に3点展示されていたが、これも出品作品がそれぞれ空間を食い合っているため、次善の策として垂直方向に伸ばしているように見えて仕方がない。桑久保も椛田も、横浜市市民ギャラリーあざみ野の「いま描くということ」展に出品していたが、ここでの展示が抜群に優れていたことが、そのように見させてしまったのかもしれない。
しかし、作品の形式としての大きさと内容が必ずしも合致せず、むしろその矛盾が露わになっていることは、多くの来場者の支持を集めていたワタリドリ計画(麻生知子・武内明子)の作品にも該当するように思われる。日本全国を旅しながら各地で撮影した白黒写真を油彩で着色した絵葉書の作品だが、その活動を報告する「ワタリドリ通信」は本来A5版の印刷物であるにもかかわらず、会場にはそれらをひとつにまとめた手書きの大きな「絵画」が展示されていた。活動を手短に紹介するダイジェスト版としては有効なのかもしれない。だが、彼女たちの全国行脚を伝えるメディアはあくまでも「印刷物としての平面」であり、「絵画としての平面」ではなかったはずだ。つまり彼女たちが選び取ったマテリアルは、「絵葉書」と「印刷物」という私たちの身体にきわめて近い(裏返して言えば、「絵画」や「芸術」からは程遠い)、それゆえ本来的に私たちの文字どおり手の中に収まるサイズだったのだ。それを、無理やり身体から引き離し、「絵画」や「芸術」として仕立て上げることを余儀なくされるところに、同時代を生きるアーティストにとっての「平面」のリアリティがある。
VOCA展が「絵画」や「芸術」に拘泥することは、もはやさほど大きな問題ではない。肝心なのは、それらとの偏差によって同時代のリアリティをその都度計測することである。
2012/03/18(日)(福住廉)


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