artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

彫刻の時間─継承と展開─

会期:2011/10/07~2011/11/06

東京藝術大学大学美術館[東京都]

東京藝術大学美術学部彫刻科による企画展。同大学が所蔵する仏像や彫刻を中心に、同大学の教員による彫刻作品もあわせて約100点を展示した。なかでも見どころは、平櫛田中と橋本平八の作品が公開されていること。後者については「橋本平八と北園克衛」展(世田谷美術館、2010)があったが、前者とあわせて見る機会はなかなかない。両者による木彫彫刻がずらりと立ち並んだ展示の風景は圧巻だ。すべての輪郭線が明瞭な平櫛の彫刻と、柔らかな曲線で構成された橋本のそれはじつに好対照。天心や芭蕉、良寛など、おもに実在の人物(おおむね男性)を写実的に造形化した平櫛の彫刻は、リアルな再現性を重視する現在の彫刻家や造形師にとっての回帰点になりうるだろうし、猫や馬などを柔らかな曲線によって彫り出し、その内側にただならぬ気配を感じさせる橋本の彫刻も、超越性や神秘性を体感させる昨今の彫刻ないしはインスタレーションに、大きな示唆を与えるはずだ。平櫛田中と橋本平八を大いなる原点として、彫刻の歴史が展開していったことを如実に物語る展観だった。

2011/10/13(木)(福住廉)

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マリオ・デ・ビアージ「CHANGING JAPAN 1950-1980」

会期:2011/09/27~2011/10/30

JCII PHOTO SALON[東京都]

マリオ・デ・ビアージは1923年生まれのイタリアの写真家。1953年にグラフ雑誌『Epoca』のスタッフ・カメラマンになり、世界中を駆け回って同誌に写真を寄稿してきた。1956年のハンガリー動乱の生々しい記録写真が代表作として知られている。日本には1950年代から11回も訪れ、さまざまなテーマの写真を撮影した。特に1970年代の高度経済成長期の人々とその暮らしを撮影した写真群は、貴重な記録といえるだろう。
デ・ビアージの写真を見ていると、腕利きのフォト・ジャーナリストの仕事ぶりがどのようなものであるかがよくわかる。目についたもの、撮りたいものにカメラを向け、シャッターを切っていることは確かだが、そこにはいつでも読者の眼を意識する姿勢がある。彼らがどんな写真を見たいのか、何を求めているのかを敏感に察知して、そのような被写体にアンテナを向けているのだ。
その結果として、カプセルホテルの女性客、地下鉄のホームでゴルフの練習をする会社員、客にお酌をする宴たけなわの芸者といった、イタリア人にとってエキゾチックな日本の風俗が的確に押さえられている。ヌードスタジオで、全裸で笑顔を見せる女性のポートレートなど、こんな写真がよく撮れたものだと驚いてしまう。それらの多くは、現在のわれわれから見ても充分にエキゾチックな魅力を発している。ということは、既に30年もの時が過ぎてしまったことで、1970年代の記憶、そこにまつわりつく匂いや手触りのようなものは、写真を通じてしか喚起されなくなっているということだ。イタリア人の眼差しを介して、あらためて過去の日本を知るというのも奇妙な体験ではあるが、写真が開かれたメディアであることを証明しているともいえそうだ。

2011/10/12(水)(飯沢耕太郎)

榎忠 美術館を野生化する

会期:2011/10/12~2011/11/27

兵庫県立美術館[兵庫県]

数々の異色作で、半ば伝説的存在といえる榎忠。美術館や画廊という既成のシステムに頼らず、会場探しからすべてを自力で行なうスタイルを貫徹したため、彼の作品には現存しないものも多い。それゆえ、美術館での大規模個展は不可能だと思い込んでいたが、遂にその機会がやって来た。出品作品には旧作も含まれるが、多くは新たなアレンジが施されており、榎自身もすべてが新作という意識で展覧会をつくり上げたという。自動小銃をモチーフにした作品、パフォーマンスでお馴染みの大砲、おびただしい数の薬莢を用いたインスタレーションなどはこれまでにも見たことがあるが、溶鉱炉の廃棄物(不純物を多く含む鉄の塊)や、パイプラインに使用される巨大な鉄管(製品検査用の断片)などの作品は、まったくの新作。それらには、ほとんど榎の手が入っておらず、素材本来の美を抽出している。こうした榎忠作品の知られざる側面に光を当てたのは、本展の功績と言えよう。

2011/10/12(水)(小吹隆文)

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一点消失・中村宏

会期:2011/10/03~2011/10/22

Gallery-58[東京都]

中村宏の新作展。昨今精力的に取り組んでいる「一点消失」のシリーズを発表した。中央部の一点に消失する遠近法にもとづきながらも、同時に表面をグリッドで仕切ることで奥行き感と平面性をひとつの画面のなかで並立させている。それゆえ、見る者の視線は絵画の奥に引き込まれる絵画の魔術を味わいつつも、その経験自体があくまでも平面上での出来事であることを思い知らされるのである。絵画の再帰性を強く意識させる絵画だが、ほとんどの画面の右下を大きく横切る黒い影が、その再帰性そのものを自己言及しているように思われた。

2011/10/12(水)(福住廉)

Chim↑Pom「SURVIVAL DANCE」

会期:2011/09/24~2011/10/15

無人島プロダクション[東京都]

Chim↑Pomが調子に乗っている。もとい、ノリに乗っているというべきか。かつての荒削りな魅力はどこへやら、今回の展示は個別の作品の完成度も、それらを構成する展示の仕方も、ともに優れていたから正直驚かされた。一発逆転ホームランをぶちかますわりに空振りも多かった打撃のスタイルから、確実に出塁できる打撃法へと進化したといってもいい。さまざまな映画の銃撃シーンを集めた映像を投影したスクリーンに向けてエリイがマシンガンをぶっ放す映像作品は、銃撃音の迫力もさることながら、会場に実弾を浴びて穴だらけになったスクリーンを掲げ、その上に映像をプロジェクションしていたため、暴力的なカタルシスと甘い狂気を効果的に倍増させていた。天井裏の空間でミラーボールの回転する照明とともに新旧の《スーパー☆ラット》を見せる映像インスタレーションにしても、来場者に梯子を登らせて天上の世界を垣間見させるやり方が、なんともうまい。作品の形式的な面でいえば、前者はクリスチャン・マークレーを、後者はオノ・ヨーコをそれぞれ彷彿させるが、いずれもChim↑Pomのほうが断然おもしろいことは明らかだ。映画的編集の妙を見せるのではなく、映画というフィクションそのものを撃ち抜く暴力的な想像力。それを映像によって表現しながらも、穴だらけの布切れ一枚によって現実と接続することで、映像という自律圏にも風穴を開けてみせたわけだ。ようするに、現代アートの文脈を確実に踏まえつつ、それを一歩前進させているのである。パズルのピース(一片)に見立てた会場の壁を一部崩落させ、ピース(平和)の瓦解を象徴的に表現したり、「原爆の火」で消費文化の記号を描くなど、他の作品もいちいち心憎い。現代アートの流儀をスマートに使いこなすようになったのかと思えば、その一方で稲岡求と水野俊紀の生身の肉体を使ったバカな作品もあり、自分たちの原点を決して忘れているわけではないこともしっかりアピールしている。このバカから出発して社会や政治、あるいは美術の文脈に到達する振幅こそ、Chim↑Pomの醍醐味であり、それがバカを隠したがる現代アートに満足できない私たちの心を鷲づかみにするのである。彼らに追いつき、拮抗し、やがて鮮やかに乗り越える新しいアーティストが待望される。

2011/10/12(水)(福住廉)