artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
カレル・ゼマン展 トリック映画の前衛

会期:2011/06/14~2011/07/24
渋谷区立松濤美術館[東京都]
イジー・トゥルンカと並び、チェコ・アニメを代表するカレル・ゼマンの展覧会。人形や切り絵、ガラスなどを駆使して制作されたアニメーション映像をはじめ、それらの絵コンテや資料などが展示された。1940年代から50年代にかけてのアニメーションだから、その技術はきわめてローテクであり、CGや3Gがデフォルトになりつつある現在の基準からすれば、たしかに稚拙に見えるのかもしれない。けれども、重ね撮りによってイメージを合成したり、ガラスの湾曲面によって海中のゆらぎを表現するなど、画面の随所に見られる工夫の痕跡が、なんともほほえましい。技術や制度が確立されていなかったからこそ、知恵を絞ってなんとかしようと努めたのであり、それだけ表現の意欲が掻き立てられたのだろう。技術的には成熟期を迎え、産業的には逆に斜陽の時代に入りつつある現在のアニメーションを顧みると、はたしてゼマンの時代とどちらが幸福なのかと考えざるをえない。今後は表現の意欲という原点がますます問われるのではないか。
2011/06/24(金)(福住廉)
佐川好弘 展──トラフィックマーキング シリーズ

会期:2011/06/20~2011/07/03
STREET GALLERY[兵庫県]
商店街の道路に面したショーウインドウスタイルのギャラリーで佐川好弘が作品を展示した。道路に表記される案内表示を真似て、実際に路上にメッセージボードを設置するという《トラフィックマーキングシリーズ》で、ギャラリーの近所にある道路の「止まれ」に「ない」の二文字のボードを加えてその場を撮影した写真作品と文字ボードのパーツが通りから見える。近所の子たちだろうか、訪れたとき、外に吊るされた芳名帳に作家へのメッセージを熱心に書き込んでいる二人の小学生がいた。このギャラリーならではの場面だが、佐川の言葉の作品にはおしなべて、世代を問わず見る人が彼に近づき、話しかけたくなるような魅力があるよう。明快で笑いを取りやすいインパクトのせいももちろんあるだろうが、どちらかというとそれよりも、こっそりといたずらを仕掛けるような引っ込み思案の“匂い”がするせいかもしれない。
会場風景
2011/06/24(金)(酒井千穂)
プレビュー:生誕100周年記念フェリックス・ホフマン展 うつくしい絵本の贈りもの

会期:2011/07/16~2011/08/28
伊丹市立美術館[兵庫県]
スイス生まれの絵本作家であり、多彩な活動を行なった画家フェリックス・ホフマン。もともと画家活動と美術教師をしていた。日本でも馴染みのある絵本の原画、リトグラフとともに、挿絵、ステンドグラスの下絵、壁画の試作など、これまであまり知られていなかった絵本以外の彼の画業を見ることができる。
2011/06/24(金)(酒井千穂)
カレー屋で彫刻:北浦和也

会期:2011/06/07~2011/07/10
little GANESH[兵庫県]
インドカレーの店で開催された北浦和也の個展。飲食店なので他のお客さんがいると展示作品に近づくのにも少し気が引けるのだが、鼻の先がバールになっているゾウ、水道の蛇口から飛び出しているようなスーツ姿のサラリーマンなど店内のあちこちに展示されていた小さめの彫刻作品はどれもユニークでついうろうろと見て回りたくなる。無骨な彫り跡とその豊かな表現力には今回も目を見張る。自由な想像力という才気も感じる人だ。
2011/06/24(金)(酒井千穂)
増山士郎
会期:2011/05/21~2011/06/25
ギャラリーαM[東京都]
増山士郎の新作展。北アイルランドのベルファストで滞在制作した作品などを発表した。会場の中央に広がるベルファストの街を再現したジオラマで、建物に記されたマーキングを見ると、カトリックとプロテスタントによって分断された街の様子が手に取るように分かる。イギリスからの分離独立を目指すナショナリストとイギリスとの連合を唱えるユニオニストの対立も読み込むことができる。この容易には解きほぐし難い対立関係を前に、基本的にアートはなす術もない。けれども増山がおもしろいのは、そのことを十分に承知しつつも、あくまでも個人的な視点から社会的な文脈に到達すべく、パフォーマティヴに行動しているからだ。そのことを示す象徴的な作品が、住まいの庭に転がる犬の糞を白い防護服に身を包んで処理する映像作品である。スローモーションを多用した映像は、いかにも深刻な報道番組を連想させるが、そのあまりにも馬鹿馬鹿しい行為とのギャップが見る者の笑いを誘う。しかし、このジオラマに囲まれた空間でこの映像を見ていると、この撤去する行為が、ちょうどテロリストによって仕掛けられた爆弾を処理する様子と重なって見えることに気づかされる。卑俗な日常生活と、果てしないテロとの闘いが重ねられているわけだ。これは、一見すると「日常と非日常」という古くからの対立項にもとづいているように見えるかもしれない。けれども、少なくともアイルランドにおいては、犬の糞を撤去する行為と爆弾を処理する行為が同じ水準にあることを想像的に思い巡らすと、この単純な図式がもはや失効していることに驚きを禁じえない。爆弾闘争というかたちはとらずとも、虚構をはるかに凌駕する現実の圧倒的な力を前にした今となっては、アイルランドであろうと日本であろうと根本的にちがいはないのかもしれない。増山のアートは、非日常が日常と化してしまったことを告げるリアリズムであり、それでもなおアートを試みる愚直なアートなのだ。
2011/06/23(木)(福住廉)


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