artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
俵萌子 展

会期:2011/01/07~2011/01/16
Oギャラリー[東京都]
こちらも若手の女性作家。作品は、関西のペインター館勝生とターナーをたして2で割ったような、抽象画のようにも風景画のようにも見える絵。色彩が深く、筆に勢いもあるので見ていて気持ちがいい。
2011/01/08(土)(村田真)
白石綾子 展

会期:2011/01/07~2011/01/22
ギャラリーQ[東京都]
近ごろ、ちょっと暗めな少女像を得意とする若手女性作家を輩出しているギャラリーQ。白石は、花柄の布を張った円形の画面に、身を丸めて寝ていたりうずくまっていたりする女性を描いている。どれもしどけない下着姿で、畳の上には衣服が脱ぎ捨てられ、おまけに顔が画面から切れていたり髪で隠れていたりするため、まるで小さな穴からのぞき見ているような淫靡な印象を与える。さらに、女性の腿や肩に刺青のように浮き出て見える地の花柄も、その印象を強めている。この地と図のダブルイメージはとても新鮮だ。
2011/01/08(土)(村田真)
喜多村みか/渡邊有紀「TWO SIGHT PAST」

会期:2011/01/07~2011/02/21
GALLERY at lammfromm[東京都]
喜多村みかと渡邊有紀は、東京工芸大学在学中の9年前から、互いにポートレートを撮り合うという「TWO SIGHT PAST」のプロジェクトを進めている。2006年には「写真新世紀」で優秀賞(飯沢耕太郎選)を受賞したが、それから各自の仕事が忙しくなったこともあって、しばらくこのシリーズは休止状態にあった。ところが、2009年にハンガリー・ブダペストのギャラリーで二人の展示があったのをきっかけにして、旅先でふたたびポートレートが撮影された。それをまとめたのが今回の二人展である。
二人の写真家が長期にわたってポートレートを撮影し合うという作品は、僕が知る限りナン・ゴールディンとデイヴィッド・アームストロングの『A Double Life』(1994)を唯一の例外として、ほとんどないのではないかと思う。ただ『A Double Life』は、ゴールディンが35ミリカメラのカラー、アームストロングは6×6判のモノクロームで撮影していてかなり作風に違いがある。だが喜多村と渡邊の場合は、ほとんど同じ撮り方なのであまり見た目の区別はつかない。また、ドラマチックな場面よりは、日々の出来事をあまり肩に力を入れないで撮影しているので、むしろ彼女たちの方が繊細な感情の交流や反応をしっかりと定着しているようにも見える。このシリーズがどれくらい長く続くのかはわからないが、仮に10年、20年と続いていけば、年齢や経験の積み重ねによってさらに味わいが深まってくるのではないだろうか。
2011/01/08(土)(飯沢耕太郎)
福沢一郎 絵画研究所展

会期:2010/11/20~2011/01/10
板橋区立美術館[東京都]
日本にシュルレアリスムを導入した画家として知られている福沢一郎が主宰していた絵画研究所の実態を明らかにした企画展。《牛》をはじめとした福沢の絵画はもちろん、研究生として通っていた山下菊二や杉全直、高山良策などの作品もあわせて展示された。福沢のシュルレアリスムを見ていて気づかされるのは、その着想の起源としての満州の存在だ。どこまでも広がる荒涼とした光景には、たしかに無意識の深遠さが託されているのかもしれないが、その無意識は中国東北部という現実的な国土のかたちをとおして現われていたのではないか。地政学的にも政治経済的にも、かつて満州には狭い島国とは比べものにならないほどの可能性が宿っていると信じられていた。少なくとも日本のシュルレアリスムにとって、満州が果たした役割はかなりの程度大きいといえるように思う。作家の内発性や無意識などをより深く掘り下げるには、表現の起源としての満州という問題を考える必要があるのではないか。そして、福沢のみならず、たとえば五代目古今亭志ん生や赤塚不二夫、加藤登紀子など満州からの引揚者たちの創作活動を比較検討することができれば、現行の美術史をより幅広く、厚みのある表現史として書き換えることができるだろう。
2011/01/08(土)(福住廉)
「日本画」の前衛

会期:2011/01/08~2011/02/13
東京国立近代美術館[東京都]
第2次大戦をはさんだ1938~49年の実験的な日本画を集めたもの。大ざっぱな印象としては、比較するのも大人げない、同時代の「前衛絵画」であるアメリカ抽象表現主義と比べれば、ただ表面に描くイメージが抽象またはシュルレアリスムに傾いて新奇に更新されたというだけで、絵画(日本画)のシステムや構造自体を揺るがし、再編するほどの根本的変革ではなかったということだ。あるいは十歩譲って、日本画にとっては根本的な変革だったとしても、美術全体から見ればローカルな台風にすぎなかったと。たしかに余白を多くとって色彩構成した山岡良文の《シュパンヌンク》や、画面に深紅の絵具を散らした船田玉樹の《花の夕》、画面中心部がねじれてこんがらがったような岩橋英遠の《都無ぢ》などは、「日本画」としては画期的だったかもしれないが、比較のために並べられた村井正誠や靉光らの「洋画」より新しいとはいえない。ましてやカンディンスキーやポロックと比べたら一目瞭然……。
2011/01/07(金)(村田真)


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