artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

都筑アートプロジェクト2010 ニュータウン+ニュータウン+ニュータウン

会期:2010/10/09~2010/11/05

大塚・歳勝土遺跡公園+都筑民家園[神奈川県]

雨のショボ降るなか見に行く。会場は、弥生時代の竪穴式住居と江戸時代の民家が復元された丘の上の公園一帯で、周囲をニュータウンに囲まれてるため新旧の落差が激しい。そこに切り込めばおもしろい作品が生まれるかも。まず丘に登る途中、ビニール傘でつくったトンネルをくぐる。今井紀彰が子どもたちとコラボしたものだ。今井は竪穴式住居の横にもビニール傘や梱包材で「秘密基地」をつくっていて、これがホームレスの家を思わせ、竪穴式住居との対比が笑える。大谷俊一は二つ出しているが、民家園の裏のなかば埋もれた湯たんぽみたいな作品が傑作。タイトルの《OOPARTS》は、考古学では「場違いな発掘品」といった意味があるらしい。まさにぴったり。阿部剛士の《盆栽-MH》は民家園の庭にキャプションだけ置かれ、近くにはマンホールのふたがあるだけで作品らしきものは見当たらない。考えてみれば民家園にマンホールがあるのも変なので触ってみると、これがプラスチック製の作品だった。マンホールのふたに土がたまり植物が芽を出せば、たしかに盆栽になる。タムラタクミは竹林のなかに約30個のミラーボールをぶら下げて光を当て、まるで月に帰るかぐや姫の送別パーティー。客はタヌキかゲジゲジか。これは愉快。

2010/10/25(月)(村田真)

ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス展

会期:2010/09/18~2010/12/25

金沢21世紀美術館[石川県]

映像作品《事の次第》でよく知られた二人は、必ずしもヴィデオの作家ではない、むしろ彫刻の作家ととらえるべきかもしれない。彼らの作風がもっとも端的に表われているのは「グレイ・スカルプチャー」と呼ばれるポリウレタン製の彫刻群だろう。中が空洞で、お尻の穴から覗くとくり抜いた顔のパーツが見える作品《動物》や湾曲していて覗いても向こうが見えない作品《管》は、見るとなんだか情けない気持ちになる。脱力系? そう、知的な解釈も可能に違いないだろうが、作品に向き合って沸いてくる率直な感想は「へたれてるなー」。《不意に目の前が開けて》も90点の粘土作品がテーブルに並ぶ彫刻群。空想譚もポテトチップスもすべて同じ粘土で、似たようなサイズで表象されている。チープな素材が実現するイメージの世界、それはなにかを「可視化」させるという営みそのものの面白さとばかばかしさを同時に示している。ところどころに用意された失笑のポイントを通して、彼らが見る者に気づかせようとしているのは、「見ること」や「つくること」というきわめて基本的な行為の最中なにが起きているのかということだろう。それら二つを媒介するのが彫刻という存在に違いない。《事の次第》は、そう考えると動く彫刻の映像化なのであって、「見ること」と「つくること」の相互作用が緊張感を保ち、そのことが作品の強度を生み出している。

2010/10/24(日)(木村覚)

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豊島美術館(西沢立衛)/《母型》(内藤礼)

[香川県]

竣工:2010年

内藤礼氏による《母型》というたったひとつの作品のための美術館。設計は西沢立衛氏。瀬戸内海の豊島に建てられ、瀬戸内国際芸術祭会期中の10月17日に、一般公開が始まった。延床面積2,400平米の空間を、その大きさに比して、約4.5mという非常に低い天井のコンクリートシェルが覆うため、無柱空間であることがひときわ強調される。シェルには二つの大きな穴が開けられており、全体として閉じられた内部空間はどこにもない。内藤氏の作品は、床にあけられた186の穴から地下水が断続的に湧き上がり、水滴がある一定の大きさを超えると、撥水剤を塗布され、眼に見えないくらいの微細な傾きをもった床の上を、生き物のように流れだし、時に連結し、時に分裂もしながら、複雑に動き、水たまりを構成したり、別の穴へと吸い込まれていくもの。その水の移動のスピードにも驚かされた。広大な空間に、多種多様な水の動きが同時存在し、風や光や音、温湿度の状況、そして観察者の存在によって、どんな瞬間でも、二度と同じ動き、同じ状態は現われないであろう。自然と建築とアートが、完全に一体となり切り分けることのできないような作品である。この建築自体が水滴をモチーフにしており、さらに呼応して、内藤氏が作品の一部として開口部に設置したリボンが、遠目には建築に入り込む大きな水滴を出現させているようにも見える。また、眼に見えないくらいの床の微地形の施工精度は驚くべきである。これまでのどんな建築にもなかった床であり、同時にそれは美術作品の一部ともなっている。サイト・スペシフィックな美術作品は数あれど、基本的にはその場所に特有の作品ということであり、逆にその作品がその場所の条件となっていることはない。つまりこの美術館と作品は、サイト・スペシフィックなアート作品とも同列には並べられない。建築のゆるやかな自由曲線から、同じく西沢氏が、妹島和世氏とともにSANAAとして設計した、ローザンヌ連邦工科大学ロレックス・ラーニング・センターの形状も思い浮かぶ。曲面や開けられた開口部は似ているかもしれない。しかしロレックス・ラーニング・センターが、人間のスケールにあったゆるやかな曲面から空間が構成されるのに対して、豊島美術館は、内部も外部もなく、環境と建築の区別もなく、知覚される床はフラットであるにもかかわらず、水の動きを見ているとフラットではないといったような、人間のスケールをなにか超越したような、また対立概念の数々を乗り越えるような、これまでになかった存在感を持った建築であるといえるだろう。「奇跡の建築」といって相応しいように思えた。

2010/10/23(土)(松田達)

三瀬夏之介「肘折幻想」

会期:2010/10/02~2010/10/23

imura art gallery[京都府]

三瀬夏之介が山形に移住して初めての京都での個展。十曲一隻の屏風絵の大作《肘折幻想》は、「肘折版現代湯治2009」の際に発表された作品で、肘折が1万年前の火山の爆発によって形成された地であることから着想を得て取材をもとに制作された。連なる山々に覆いかぶさるように煙が立ち上る噴火と雪深い大地の光景は、極寒の厳しさや悲劇的な物語ではなく、これまでの三瀬の作品にも見られる無数の星や、花火が天空に打ち上がる模様が描かれていて、どこか祝福にもあふれた印象がある。画面に優しく穏やかな表情の数人の人物像を見つけたのだが、聞いてみるとそれらは「お地蔵さん」だった。肘折には「地蔵蔵」といういまも多くの人が訪れるという霊場の洞窟があるが、信仰の場として長い歴史を培ってきた場や、そこにある人々の生活の営みへと容易に想像を巡らせる。じっくりと見ていると、圧倒的に厳しい自然のなかで生きる人々、そしていまそこに住む三瀬のリアルな感覚が全面に現われている気がした。その三瀬の身体感覚そのもののように感じたのが、和紙をつなぎ合わせて描かれた山の形の《千歳》。 墨の濃淡、画面の凹凸、ダイナミックに構成されながら繊細な筆の跡が確認できる部分の数々など、彼が山形で触れるもの、そこから感じ取っているものが凝縮しているように思えた。今展で本人に会うことは叶わなかったが、作家の生々しい感覚が充満する会場で、今後の活動がいっそう楽しみになった。

2010/10/22(金)(酒井千穂)

石子順造と丸石神

会期:2010/10/16~2010/10/30

CCAAアートプラザ(ランプ坂ギャラリー)[東京都]

丸石神とは球体状の天然石に神が宿ると考える民間信仰。山梨県を中心とした地域に根づいており、美術評論家の故・石子順造が晩年にフィールドワークを行なったことで知られている。多摩美術大学芸術人類学研究所が企画した本展は、石子順造を理論的な糸口にしながら、遠山孝之による写真と小池一誠による石の作品を展示したもの。長い年月をかけて風雨や流水によって丸く削り取られた石を見ていくと、たしかに自然と芸術の境界が怪しく思えてくるし、真円とは程遠い歪な球体の造形に石子が近代の限界を乗り越える可能性を見出していたことにも頷ける。しかし、石子によって近代批判のための突破口として意味づけられた丸石神を、展覧会という近代的な文化装置のなかで見る経験には、やはり少なからず違和感を覚えざるをえない。写真であろうとオブジェであろうと、土地から切り離されたうえ、展示会場に移動させられた丸石神の数々は、展覧会という「見る制度」によって、造形的な美しさを際立たせる物体として否応なく見せられているからだ。けれども、丸石神には、造形的な側面と同時に、民俗学的・宗教的な側面があり、そこに民衆による声なき声が仮託されていることはいうまでもない。はたして、その多面性をとらえることができる文化装置はありうるのか。石子が近代的な表現概念の呪縛を問題視しながらも、ついに解放することができなかったという限界を思えば、わざわざ同じ轍を踏むことはあるまい。たんに石子の業績を再評価するだけでなく、石子がなしえなかった不可能性を受け止めながら、別のアプローチを切り開くことこそ、危急の課題である。

2010/10/22(金)(福住廉)