artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
八木良太 山城大督 1/9「Sensory Media Laboratory」
会期:2021/01/11
THEATRE E9 KYOTO[京都府]
美術作家の八木良太と山城大督による一日だけの展覧会が、京都の劇場「THEATRE E9 KYOTO」で開催された。観客は各回定員9名で、八木と山城のガイドとともに、視覚、聴覚、触覚、運動感覚、そして味覚を使ってさまざまなオブジェや装置を体験していく参加型形式だ。タイトル中の「センサリーメディア」という言葉は映像人類学における新たな方法論で、「視覚偏重から脱却し、音・テクスト・写真・もののインスタレーション・パフォーマンスなど複合的なメディアを用いた、人の感覚をキーワードにした文化の記録や表象の方法」を指す。この方法論に共感した山城は、「センサリー・メディア・ラボラトリー」と名付けたプロジェクトを2017年から開始。今回、「ラボの研究員」として八木が参加し、劇場を舞台にした「一日だけの展覧会」を9年間にわたって継続するという。
舞台空間には、感覚を拡張・増幅・変容させるような器具や仕掛けが用意され、観客はそれらをひとつずつ体験していく。足ツボマッサージ器具やものすごく柔らかい毛のブラシを触るなど、触覚や皮膚への刺激。「水を入れた風船を投げ、キャッチする」動作は、簡単なようだが、予想を微妙に裏切ってズレる軌道で落下するため、慣習的な運動感覚が追い付かない。振動を拾って増幅するセンサーが付いたハサミで紙や布を切ると、素材の硬さや枚数の重なりによる音の違いが増幅されるとともに、自分の行為と音響が分離したような奇妙な感覚を味わう。「ゴロリメガネ」という既製品は、レンズ部分に仕込まれたミラーが光を屈折させ、「寝ころんだ状態で、上体を起こさなくてもテレビ画面が見える」という便利(?)グッズだが、立った状態でかけると、普通はありえない「斜め下の足元の床」が視野になり、他人の視覚をジャックしたような違和感や酔いに襲われる。終盤では、口の中でパチパチと弾ける駄菓子を食べながら、プラネタリウムのような回転装置が暗闇に投げかける無数の光の粒を鑑賞する。キャンディの弾ける音の集合が静かな雨音のように響き、星空と細雨を同時に疑似体験するような詩的な感覚に包まれた。
「触って体験する」たびに消毒が課されるとはいえ、徹底した体験型の展覧会を開催することは、大きな決断だったと思う。初回ということもあり、「集めた素材を羅列し、順番に体験してもらう」というプレゼンテーション的な性格が強かったが、今後は、独自のメディアや装置の開発が期待される。また、「劇場」という特性をより活かし、起点と終点のあるリニアな時間軸のなかで、感覚の変容や増幅をどうストーリーとして組み立てていくかという「演出」の方向づけも必要だろう。そのとき、知覚の変容とともに、「もののふるまい方」の変化の様相もまた、すぐれてシアトリカルな力の作用として立ち上がるはずだ。上述の終盤では、ある種の親密な共同体をつくりながら、日常感覚からの離脱や非日常的な体験へと開いていく回路の萌芽が見られた。それは、「劇場」という空間の使い方の実験でもある。THEATRE E9 KYOTOは昨年、写真家の金サジの個展も開催しており、「客席の雛壇」があたかも死出の山に変貌し、その山を登って胎内巡りのように再び産まれ直すような強度のある空間を出現させていた。本展も、「劇場」ならではの体験性に向き合い、年を重ねるごとの展開と深度を期待したい。
関連レビュー
金サジ「白の虹 アルの炎」|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年02月15日号)
2021/01/11(月)(高嶋慈)
「フランシス・ベーコン」展と葉山周辺の建築
会期:2021/01/09~2021/04/11
神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]
久しぶりに葉山の神奈川県立近代美術館を訪れた。というのも、1月9日にスタートした「フランシス・ベーコン」展が、政府の1月7日の緊急事態宣言を受けて、12日から臨時休館となることが決まったので、急いで出かけたからだ。実際、この原稿を書いている時点でも、さらに緊急事態宣言が1カ月延長されたことを受け、同展はいまだ再開に至っていない(会期は4月11日まで)。つまり、現時点ではわずか3日間しか開催されていない。個人的な意見だが、美術館は人がそこまで密になる場ではないし、しゃべらないようにすれば、ほとんど問題がないと思うのだが、もったいない。
さて、バリー・ジュールのコレクションによる展示は、完成された有名なベーコンの作品ではなく、その構想のスケッチ、本や雑誌の人物写真への描き込み、そして最初期の作品を紹介していたことで、非常に新鮮だった。ミック・ジャガー、プレスリー、グレタ・ガルボ、ヒトラー、ケネディらの肖像、メイプルソープの作品、ボクシングを含むスポーツや電気椅子の処刑場面の写真など、既存のイメージに手を加えることで、完全にベーコンの世界に変容していた。また結局、作品化されず、ありえたかもしれない他の作品の可能性も、圧倒的である。以前、あいちトリエンナーレ2013の長者町ビジターセンターで、一日店長を泉太郎がつとめ、ライブで似顔絵を描くイベントをやったのだが、その辺の雑誌を適当にめくって、下地になる写真を素早く選び、少し加筆するだけで、似顔絵が成立していた。そのときアーティストの力に感心したが、ベーコンの加筆も驚くべき技である。
ベーコンがアイルランド生まれということで、同時開催のコレクション展は「イギリス・アイルランドの美術─描かれた物語」だった。主に文学との絡みで作品を紹介し、中世の装飾本に学んだウィリアム・ブレイクや、英国らしさを打ち出したホガースの版画、渦巻派に接近した久米民十郎、ストーンヘンジを取材したヘンリー・ムーア、小説『ユリシーズ』を題材としたリチャード・ハミルトンなど、興味深いセレクションである。
なお、美術館の向かいは、芦原義信による《富士フイルム葉山社員寮》があったのだが、現在は改装されて《四季倶楽部 プレーゴ葉山》 になっており、宿泊できるようだ。また坂を登ると、吉田五十八が既存家屋を増改築した《山口蓬春記念館》がある。とくにモダンな意匠による大開口をもつ画室や、桔梗の間は、気持ちがよい空間だ。また住宅を展示空間に変えたリノベーションは大江匡によるもので、ポストモダン的なデザインである。
2021/01/10(日)(五十嵐太郎)
Connections─海を越える憧れ、日本とフランスの150年
会期:2020/11/14~2021/04/04
ポーラ美術館[神奈川県]
久々に足を伸ばして(といっても神奈川県だが)箱根のポーラ美術館へ。着いたのは3時過ぎ、いまは1年でいちばん日が短い時期なので、まずは森の遊歩道をぐるっと散策してみる。あー都会とは空気が違う。なにしろ活火山が近いからな。千年後、ポーラ美術館がポンペイみたいに発掘されないことを願うばかりだ。
「コネクションズ」はサブタイトルにもあるように、日仏の150年にわたる美術交流の一端を見せるもの。美術交流といっても、フランスからの一方的な影響を思いがちだが、150年前の発端は逆で、フランスが日本美術を熱烈に受け入れる「ジャポニスム」から始まった。展覧会は第1章を「ジャポニスム―伝播する浮世絵イメージ」とし、浮世絵と印象派やエミール・ガレの花器などを対置させている。例えば、ジヴェルニーの太鼓橋を描いたモネの《睡蓮の池》と、北斎の《冨嶽三十六景 深川万年橋下》はジャポニスム(ジャポネズリーというべきか)のわかりやすい例だが、ゴッホの《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》と、広重の《高田姿見のはし俤の橋砂利場》の対比は苦しい。ゴッホが浮世絵の熱烈なファンだったのは周知の事実だが、この頃はすでに外面的な模倣を超えて内面化していたはずだから、比較展示しても一目瞭然というわけではない。その印象派と浮世絵の合間に山口晃が割り込んできたり、荒木悠の映像が流れたりして、東西だけでなく今昔の対比も目論まれている。
もっとも興味深かったのは、第2章の「1900年パリ万博―日本のヌード、その誕生と展開」だ。日本に本格的にヌード画をもたらそうとしたのは、パリでラファエル・コランに学んだ黒田清輝だが、その彼が1900年のパリ万博に出品されていたコランの《眠り》に触発されて描いたのが、ポーラ所蔵の《野辺》。第2章ではこの2点を軸に、日本のヌード画の展開を追っている。黒田はそれ以前にも全裸のヌード像を描いているが受け入れられず、コランに倣って半身ヌードの《野辺》を制作。師弟のこの2点はよく似ているだけに、違いの持つ意味は大きい。まず目立つのが肌の違い。コランの白くて柔らかそうな官能的な肌に比べて、黒田のモデルは黄色っぽくて中性的だ。また、コランの女性は眠っているのか、無防備に腕を上げているのに対し、黒田の女性は目を開き、片手で腹部を隠している。さらに、コランの女性の腹部には毛皮がかかっているのに対し、黒田の女性にかかっているのは布という違いもある。こうした違いは、黒田が裸体表現から官能性を排して日本社会にヌード画を根づかせようと工夫したものだという。実際その後の岡田三郎助にしろ満谷国四郎にしろ、ヌード画の多くは腰を布で覆っているし、その影響は、本展には出ていないが、萬鉄五郎の革新的な《裸体美人》にまで及んでいるというのだ。なるほど、納得。
第3章の「大正の輝き」、第4章の「『フォーヴ』と『シュール』」では、印象派からシュルレアリスムまでめまぐるしく変わるフランス絵画の動きを、日本の画家が数年遅れで取り込んでいったことがわかる。ルノワールそっくりの中村彝、セザンヌそっくりの安井曾太郎、ユトリロそっくりの佐伯祐三といった具合に、一方的な影響が暴かれている。そこに森村泰昌を忍ばせることで、日本人の抱く西洋コンプレックスを決定づける。けっこうシビアな展示構成だな。
エピローグはフランスと対等に戦った画家としてレオナール・フジタが取り上げられている。このフジタ作品もそうだが、大半の作品をポーラ・コレクションで賄っているのはさすがだ。しかし「150年」とはいうものの、出品作品は明治から第2次大戦までの前半に集中し、戦後がすっぽり抜け落ちて、現代の森村や山口が唐突に登場するといういささかバランスの悪い配分になっている。もっとも戦後は相対的にフランスの影響力が落ちたから仕方ないけどね。
2020/12/20(日)(村田真)
大山エンリコイサム展 夜光雲
会期:2020/12/14~2021/01/23
神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]
最近、立て続けに作品発表と著書の出版を行なっている大山の最大規模の個展。大山は主に、グラフィティ(彼の用語によればエアロゾル・ライティング)特有の勢いあるジグザグの線を抽出した「クイックターン・ストラクチャー(QTS)」を用いて、壁画やペインティングなどを制作している。こうした絵画作品のタイトルはすべて「FFIGURATI」に統一され、作品ごとにナンバーが振られている。
最初の部屋は「レタースケープ」シリーズの2点。長さ6メートルほどの台紙に、漢字やアルファベットなどさまざまな言語で書かれた手紙をツギハギしたもので、片隅に「QTS」モチーフが小さく描かれている。どこか絵巻やパピルス文書を思わせるそれは、グラフィティの起源が文字と絵の融合にあることを証しているようだ。これも「FFIGURATI」の比較的初期の作品。次の部屋には2メートルを越す縦長の画面に、少しずつ異なる「QTS」を書いた「FFIGURATI」の新作9点が並ぶ。もっとも大山らしい作品だろう。逆によくわからないのは、黒い板状のスタイロフォームを斜めに天井まで積み上げた3点の立体。タイトルは「Cross Section/Noctilucent Cloud」で、訳せば「断面/夜光雲」となる。展覧会名にもなっている「夜光雲」は、噴霧状のエアロゾルからの連想だろうか。映像を見ると、黒いスタイロフォームを使っているのではなく、明るい色のスタイロフォームを積み上げて黒いエアロゾルを吹きつけているのがわかる。なにもない宇宙空間を切り取った暗黒の断片のようにも見える。
広大なメインギャラリーには、1点の《無題》と5点の「FFIGURATI」(うち2点は1枚の表裏に描かれている)が宙吊りになったり、壁にかけられたりして、スポットライトが当てられている。これこそ「夜光雲」か? 作品の下の床には塗料の滴りが認められるので、その場で制作し(または仕上げ)たのだろう。最後の部屋は真っ白で作品らしきものは見当たらない。よく見るとスピーカーがあり、エアロゾルの噴出音が流れているだけ……。ほかのアーティストなら笑ってしまうところだが、ここは大山だから納得する。あれこれ出している割にテーマも作品も絞れており、統一感のある展示に仕上がっている。が、裏を返せば、会場の広さに比して作品量が少なく、しかも色彩がないこともあって寂しい印象を受けたのも事実だ。
2020/12/19(土)(村田真)
海を渡った古伊万里~ウィーン、ロースドルフ城の悲劇~
会期:2020/11/03~2021/01/11(会期変更)
大倉集古館[東京都]
陶磁器にはまったく興味ないが、この展覧会は興味深く見ることができた。なにが興味深いかって、美術品の破壊と再生を目の当たりにできたからだ。展示は「日本磁器誕生の地─有田」「海を渡った古伊万里の悲劇─ウィーン、ロースドルフ城」の2部構成。1部は古伊万里の紹介だから素通りして、2部へ。ここでウィーン郊外にあるロースドルフ城の陶磁器コレクションの歴史が明かされる。城主のピアッティ家は代々中国や日本の陶磁器をコレクションし、19世紀にこの城を入手してからもコレクションを拡張。ところが第2次大戦後に旧ソ連軍の兵士たちが城を接収し、これらの陶磁器をことごとく破壊して去っていったのだ。まさに蛮行というほかないが、ピアッティ家はこの戦争の悲劇を記憶に留めるため、破片を捨てずに保存公開しているという。
これを知った日本人が古伊万里再生プロジェクトを立ち上げ、破片を調査研究し、一部を復元。西洋では一般に破損した陶磁器は廃棄されるので、日本のように高度な修復技術はないらしい。今回は部分的に修復したもの(足りない部分はそのままにして破片を組み上げる「組み上げ修復」)、足りない部分は補ってオリジナルのとおり修復したもの、および無傷のものを並べて見せている。陶磁器は同じ器を何点もセットでつくることが多いので(もちろん厳密には同じでないが)、修復前と修復後を比較展示することができるのだ。日本で修復された器は、どこが割れたのかわからないほど完璧に復元されていることに驚くが、欠けた部分を空白のまま残した組み上げ修復にも新鮮な驚きと危うい美しさがある。しかしいちばん驚いたのは、破片をそのまま床に並べた展示だ。これはまるで現代美術のインスタレーションではないか。
2020/12/18(金)(村田真)