artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

改組 新 第7回日展

会期:2020/10/30~2020/11/22

国立新美術館[東京都]

日展は2000年から見始めたが、全体の印象は毎年ほとんど変わっていない。20年前の作品と今年の作品を入れ替えても、たぶん気がつかないと思う。20年1日のごとし。これが日展の最大の強みだが(もちろん最大の弱みでもあるが)、まったく変化がないわけじゃない。特に不正審査が表面化した2013年以降、なんとなく柔らかくなっている。というより「ゆるく」または「ぬるく」なっているというべきか。

日本画の洋画化、洋画の日本画化は毎年感じることだが、いつまで「洋画」という死語を使い、いつまで「日本画」と分けるつもりだろうか。ある観客が洋画の展示室を見渡して「暗い」とつぶやいていた。もちろん照明の問題ではなく作品についてだが、それがその部屋だけの印象なのか、洋画全体のことなのかはわからない。でもいわれてみれば確かに暗い。日本画と比べても暗く感じる。その原因は人物画の表情にあるんじゃないか。日本画に比べて洋画のほうが圧倒的に人物画が多いが、ほぼどれも無表情で、ポーズも静止している。躍動感がなく、なにか淀んでいる。もっといえば、死んでいる。死臭が漂う。それが「暗さ」の原因ではないか。

さて、今年はコロナに明け、コロナに暮れてきたが、不思議なことにマスクを描いた作品がほとんどない。作品点数は日本画285点、洋画718点だが、日本画でマスクが描かれているのは、岩田壮平《何も見えない》、能島千明《不安》、川崎鈴彦《古寺風声》、有沢昱由《メディカルⅥ》の4点だけ(ちなみに岩田の作品は写真画像を使っているように見える異色作だが、これでも日本画なのか)。さらに洋画では、曽剣雄のガスマスクをつけた自画像《2020》のたった1点のみ。700点以上あるなかで今年を象徴する作品がわずか1点しかないのだ。あとは地中海の風景だったり、田舎の年寄りだったり、古典絵画の前の女性像だったり、アロワナやペンギンだったり……。いったい、いつの時代に生きているのか? どこの世界を描いているのか?

彫刻ものぞいてみたら、作品点数222点のうち人物像が95パーセントくらいを占めているにもかかわらず、マスクをつけた像は西沢明比児《テレヴィ・ウイルス》の1点だけ。観客は全員マスクをしているのに、その対比が鮮やかだった。そういえば、確か東日本大震災後の2011年も震災ネタ、原発ネタはほぼ皆無だったなあ。さすが日展、世の動きに動じず、超然としてらっしゃる。

2020/10/29(木)(村田真)

アール・ブリュット2020特別展 満天の星に、創造の原石たちも輝く ─カワル ガワル ヒロガル セカイ─

会期:2020/09/05~2020/12/06

東京都渋谷公園通りギャラリー[東京都]

石原元都知事が設けた現代美術の拠点のひとつ、トーキョーワンダーサイト渋谷が、小池都知事によって東京都渋谷公園通りギャラリーと改められ、アール・ブリュットを普及していく場として再出発した。まあ現代美術もアール・ブリュットも境界線上に位置するキワモノ的存在である点、大して変わりはないんで、どっちでもいいけど。今回は「アール・ブリュット2020 特別展」として、日本人16人、海外から2人が出品。しかしキュレーターの名が明記されておらず、誰が、どういう基準で選んだのかわからない。

出品者は、各地で開かれるアール・ブリュット展の常連も多く、本岡秀則、魲万里絵、澤田真一らの作品は何度見ても驚かされる。なかでも感心するのは、本岡の《電車》。ただひたすら電車の正面を描き連ねたものだが、おもしろいのは、初めはフツーに描いていたのに、「いっぱい描きたかったから」という理由で1台1台の幅が次第に狭まり、ギューギュー詰めのまさに「満員電車」になったこと。別の紙に描けばいいものを、1枚にいっぱい描きたいという欲望を優先してフォルムを変えてしまったのだ。美濃部責夫の作品は抽象画のように見えるが、作画には独自のルールがある。まず着席する。また立って紙を持ってきて再び着席。また立ってペンを持ってきて着席、を繰り返す。いざ描くときは、まず小さな枠を描き、その中に仕切りのようなものを描き、最後に細かな縦線で埋め尽くす、という工程を何度も繰り返して画面を埋めていく。描く手順も配色もあらかじめ決まっているのだ。

Yasuhiro K.は札幌のテレビ塔から見た同じ風景6点を展示。それぞれ写真を元に1997年から2003年にかけて制作したもので、遠近法的に正確に作図されている。不可解なのは、どれも画面の左隅から描いていくのだが、最初のころは全体を描いているのに、徐々に右上まで描ききれなくなり、最後のほうは左隅の一部しか描いていないこと。同じ風景が徐々にフェイドアウトしていくのだ。原塚祥吾の《繋がってゆくまち》にも感心する。最初はチラシの裏に想像の街を細かく描いていたが、やがて上下左右に1枚ずつ紙を継ぎ足し、街の風景を広げていく。まるで高度成長期の都市開発を追体験しているよう。10歳のころから始め、現在14枚目。このまま死ぬまで続けたらどんな想像の大都市が築かれるやら。

いずれの作品もわれわれの常識のはるか上空を飛んでいる。凡人はそれを見上げてただ驚嘆するだけ。ひとつ難点をいえば、「満天の星に、創造の原石が輝く」ってタイトルがクサイ。誰がつけたんだ? 「難点の星」、なーんてんね。

2020/10/28(水)(村田真)

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第16回死刑囚表現展

会期:2020/10/23~2020/10/25

松本治一郎記念会館[東京都]

会場は、部落解放の父とも呼ばれた松本治一郎記念会館。玄関を入ると佐藤忠良による松本の銅像が立っている。差別をなくそうとした人の銅像というのも、なんか違和感があるなあ。本人が望んだわけではないだろうけど。その5階の会議室に簡易な仮設壁を立て、作品を展示している。主催は、死刑制度について考えるために設立された「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」。死刑囚の作品展を始めたのは2005年からで、これまで谷中のギャラリーや鞆浦のミュージアムなどで目にしてきたが、そのつど出品者が異なっている。おそらく刑が執行されたり、新たに死刑を宣告されたりで、少しずつ入れ替わっているのだろう。もうそれだけですくんでしまう。

作品の大半は紙に色鉛筆や水彩で描いた絵だが、俳句もあれば、書画のように絵に文字を加えたものもある。内容的には、仏画や神像などの祈り系、花や富士山などの癒し系、名画やマンガなどの模写系、欲求不満のエロ系、理解不能なアウトサイダー系、自説を訴えるアジ系などに分けられる。パズルやエッシャー的な位相空間を描いた秋葉原通り魔事件の加藤智大はアウトサイダー系、ピカソやマティスを意識した露雲宇流布(ローンウルフ?)は模写系、安楽死の法制化や大麻合法化などを主張した相模原殺傷事件の植松聖はアジ系、ケバい化粧の女性ヌードの余白に粉砕、弾劾、革命といった勇ましい言葉を書き連ねた保険金目的替え玉殺人事件の原正志は、エロ系+アウトサイダー系+アジ系の合体か。

出品は18人による120点ほど。それがさほど広くない会議室に並んでいるため、観客もけっこう密になる。だいたいこんなに人が入るのは(しかも若者が多い)、死刑制度に対する関心が高まったからではなく、植松の作品が展示されるとネットで話題になったかららしい。植松は「より多くの人が幸せに生きるための7項目」と題し、前述のように安楽死や大麻のほか、環境問題や美容整形、軍隊などについて書き連ねた。これが異色なのは、背景に墨を散らせているとはいえ、明らかに「作品」というより扇動的なメッセージとして読めるからだ。もちろん作品に扇動的なメッセージを込めて悪いはずはないのだが、しかしそれが大量殺人を犯した死刑囚のものであり、それを見に若者たちが集まるのを目の当たりにすると、やはり小心者のぼくなんかはとまどってしまうのだ。死刑囚に表現の自由はあるのか? 人権はあるのか? そもそも死刑制度は必要なのか? そんな問題提起的な展覧会。

2020/10/24(土)(村田真)

池田忍編『問いかけるアイヌ・アート』

発行所:岩波書店

発行日:2020/09/16

マンガ『ゴールデンカムイ』のヒットや国立アイヌ民族博物館のオープンによって関心の高まるアイヌ文化や造形表現について、現代の作家、研究者、学芸員らが多角的に紹介・検証する書籍。本書で「アイヌ・アート」として取り上げられる作家は、「木彫り熊」を生涯彫り続けた木彫家の藤戸竹喜、アイヌ文様の木彫りの伝統技法を用いた具象彫刻を手掛ける貝澤徹、材木の質感やノミ跡を残した抽象木彫作品で知られる砂澤ビッキ、アイヌ文様刺繍家のチカップ美恵子、CGイラストで動植物やアイヌ文様を描き、ポストカードやカレンダー、アイヌ語の単語カルタなどを制作する小笠原小夜の5名である。世代、表現媒体や技法は多様で、「アイヌ文化」「アイヌ性」に対する意識や距離感もそれぞれ異なる。

本書が含む「問いかけ」もまた、極めて多岐にわたる。すなわち、「伝統」「文化の固有性・真正性」への疑義、「伝統」の固定化と「商品・観光・消費」「経済的基盤」とのジレンマ、近代ナショナリズムと「民族」の純粋性や原理主義、「二次創作」がはらむ他者による「文化の盗用」、「手芸=女性の家庭内での手仕事」として美術の制度・ジェンダー双方における二重の周縁化、文化の継承やコミュニティの活性化とミュージアムの役割、メディアにおけるマイノリティ表象の功罪である。例えば、本書では、現代日本において「伝統的なアイヌの造形」「典型的なアイヌイメージ」と見なされる「木彫り熊」や、正装したアイヌ男女一対を彫った「ニポポ人形」の「起源」には近代化を契機とする諸説があり、両者とも1960~70年代の北海道観光ブームのなかで大量生産され、他者化されたイメージとして定着したことが指摘される。また、視覚文化論・ジェンダー論研究者の山崎明子は、戦後、日本人女性デザイナーによるアイヌ文様のドレスやインテリア、和服、洋服のデザインの事例を紹介し、マジョリティによる「文化の盗用」の問題の一方、民族的手仕事への関心が生き延びる契機にもなった両面性を述べる。

だが、本書の投げかける「問い」の最重要点でありつつも、曖昧にぼかされて踏み込んだ議論が回避されているのが、「アイヌ・アートとは何か」という定義(とその困難さや不可能性)であり、命名の主体と権力をめぐる問いである。「序」冒頭で早々に「本書は(…)典型的な美の提示や定義を意図していない」(1頁)と宣言され、「アイヌ・アート」という用語は「果たして術語として安定するのかとの疑念」(118頁)、「説得力ある定義を示すことはかなり難しく」(120頁)と述べられ、ごく簡単な定義として「アイヌ民族の創造の歴史を踏まえたうえで、それを継承しつつ、現在の社会に自己の表現を提示し、新たな世界を切り拓く造形表現」(233頁)と述べられるに留まる。ここに抜け落ちているのは、「アイヌ・アート」の定義とその困難さをめぐる議論である。なぜ困難なのか。まず横たわるのは、「アイヌ」とは誰を指すのかという問いである。血縁、名前、容姿、出身地といった多様な要素のどれをどこまで満たし、何世代前まで遡れるなら「正統なアイヌ」なのか。「和人の血」はどこまで許容されるのか。こうした「問い」は、純血主義や民族原理主義の罠に陥ってしまう。また、北海道内/東北地方北部/樺太/千島といったルーツの地理的差異や、現在の国境線の「越境」をどう考えるのか。さらに「認定」するのは誰なのか。誰が誰に「証明」するのか。また、吉原秀喜(元・平取町立二風谷アイヌ文化博物館学芸員)が述べるように、 ひとりの人間が複数の民族的アイデンティティをもつ場合もある。アイヌとしての自認や民族的帰属意識の有無、濃淡、単数/複数性について、個人の自己決定権ではなく、他者による一方的な線引きや規定を行なうことは、歴史的抑圧の再生産という暴力的な事態に他ならない。こうした「定義」とその不可能性をめぐる議論に向き合い、その過程で浮上する問いを考えることにこそ、意義があるのではないか。

また、定義のもうひとつの困難は、「アート」という(便利な)用語ゆえにはらむ、表現媒体や技法、受容形態の多様性と拡張可能性である。本書で紹介される5名の作家だけを見ても、伝統技法を用いた木彫りや刺繍といった工芸性の強いものから、「現代美術」の文脈に位置付けられる抽象彫刻、商品化・大量複製可能なイラストなど多岐にわたる。そうした多様な制作物を受け入れ可能な概念として暫定的に措定した先に、「現代美術」「工芸」「イラスト」といった既存の制度とヒエラルキーを問い直す契機となりうるのか。

一方、本書の「アイヌ・アート」は造形表現に特化しており、アイヌ文化にとって重要な歌唱や舞踊のアーティストは抜け落ちている。また、アボリジニにルーツを持つ作家がディレクターを務め、世界各地の先住民族にルーツを持つ作家が参加する「シドニー・ビエンナーレ2020」のように、鋭い社会批判性のある現代美術作品も含まれていない。

最後に、本書におけるアイヌ語の表記の不統一が内包する問いについて指摘したい。凡ミスやささいな瑕疵ではなく、本質的な問題に関わるからである。本書内では、樹皮を材料にして織る布やその布でつくった着物の名称について、「アットゥㇱ」/「アットゥシ」「アッツシ」が混在している。「トゥ」および小文字の「ㇱ」表記の前者はアイヌにルーツを持つ作家2名とアイヌ文化専門の元学芸員が用い、「ツ」および大文字の「シ」表記の後者はアイヌ文化専門ではない和人研究者2名が用いている。より発音に近いローマ字表記では「attus」なので、原音に近い正しいカナ表記は前者の「アットゥㇱ」である。本書執筆陣のひとりでアイヌ語研究者の中川裕は、監修した『ゴールデンカムイ』の主要女性キャラクター「アシㇼパ(Asirpa)」の表記について、「r」の後に母音がないことを示す小文字の「ㇼ」は、アイヌ語と日本語が異なる言語であることを端的に示す表現であると重要視している。この「表記のズレ」は、図らずも、文化の「他者性」への配慮や、(とりわけ文字を持たない)他文化の歪曲や領有化という問題を露呈している。

2020/10/20(火)(高嶋慈)

TOKYO MIDTOWN AWARD 2020

会期:2020/10/16~2020/11/08

東京ミッドタウン プラザB1[東京都]

アートとデザインの2部門のコンペ。「DIVERSITY」をテーマにしたデザインは、入選作を陳列ケースに入れて一列に並べているので見やすいが、テーマ自由のアートは、「東京ミッドタウンという場所を活かしたサイトスペシフィックな作品」という条件つきなので、あっちこっちに散らばって探すのが大変。ま、それがサイトスペシフィックたるゆえんなのだが。

なかでもサイトスペシフィックの極北を行くのが、船越菫の《つながり》。地下プラザの壁の凹んだ部分にぴったりハマるようにキャンバスをつくり、緑の植物をピンボケで撮ったような壁の模様をそのままキャンバスにつなげて油絵で描いている。つまり絵が壁に擬態しているのだ。これは見事。いちおう絵の前にはプレートを立てて作品であることを明示しているのだが、道行く人の大半は気づかないし、気づいたところで壁がもう1枚あるだけなので通り過ぎてしまう。それほど見事に壁と同化しているのだが、作者としてはこうした手応えのなさを成功と見るか、失敗と見るか、微妙なところ。それに、この「壁画」はこの場所以外に展示できないし、たとえ展示できてもまるで意味がない。だから会期が終わればこの絵の有効期限も切れてしまう。その意味で、まさにこの場所、この期間だけのテンポラリーな「不動産美術」と言うほかないのだ。



船越菫《つながり》[筆者撮影]


その隣の川田知志による《郊外観光~Time capsule media 3》も、優れてサイトスペシフィックな作品だ。これも壁面に穴だらけのボロボロのトタン塀を置き、向こう側に植栽や看板があるかのように描いている。一種のトリックアートであり、のぞき見趣味であり、なによりこぎれいなミッドタウンにダウンタウンの雑音を持ち込んだ批評精神を評価したい。この作品はほかの場所でも展示できるが、やはりこの場で発想された以上、この場でこそ破壊力を発揮できるだろう。ちなみに船越も川田も京都市芸(ウリゲーじゃないよ)の油画出身なのは偶然だろうか。


川田知志《郊外観光~Time capsule media 3》[筆者撮影]


この2作品以外はサイトスペシフィックとは言いがたいものの、いずれ劣らぬ力作ぞろい。坂本洋一の《Floating surface》は、4カ所で支えた黒いヒモを上下に動かし、あたかも波のように見せる作品。波といえばいまだ津波を思い出し、また、かつては六本木にも波が打ち寄せていたかもしれないことを再確認させてもくれるのだが、それ以上にたった1本のヒモだけで波を表現してしまう技術力に感心する。

和田裕美子の《微かにつながる》は、髪の毛をつなげてチョウやテントウムシのレース模様に編み上げたもの。おそらく公共の場でのコンペなので、当たり障りのない人とのつながりや虫のモチーフを前面に出したのだろうけど、誰のものともしれぬ髪の毛を編む行為は、ナチスの蛮行について教わった世代から見れば薄気味悪さを感じるし、スケスケのレース模様の全体像がブラジャーかパンティを連想させるのも、憎い仕掛けといえる。作者はかなりの確信犯だな。で、コンペの結果は、船越がグランプリ、川田が準グランプリ。真っ当な結果だと思う。

2020/10/20(火)(村田真)