artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

村上慧 移住を生活する

会期:2020/10/17~2021/03/07

金沢21世紀美術館[石川県]

美術館の奥まった通路の壁に貼られた地図に導かれて展示室に入ると、屏風状のボードが林立し、さまざまな建物のスケッチや日記風のメモ、写真、映像などが展示されている。村上は東日本大震災をきっかけに、手づくりした発泡スチロール製の「家」を担いで国内外を巡り歩く「移住を生活する」というプロジェクトを続けてきた。その歩いたルート、泊めてもらった建物のスケッチ、出会った人たちの写真、日々の出来事をつづった日記などを公開しているのだ。

三角屋根の発泡スチロール製の「家」はいかにも日本家屋風に仕立てられ、見ようによっては籠か、宮型霊柩車のようでもある(サイズ的には横になって寝るだけなので棺桶を連想させる)。そんな「家」を担いで歩く姿はちょっとイカれた兄ちゃんで、すれ違う人はどう反応したらいいのか戸惑う様子が映像からうかがえる。いやそんなことより、このプロジェクトで興味深いのは、本来不動産である家を動かすこと、それによって家にまつわるさまざまなしがらみをあぶり出し、「家」とはなにか、「住む」とはどういうことかをわれわれに突きつけてくることだ。たとえば、夜はさすがに路上泊は危ないので、地元の人に頼み込んで建物内に泊まらせてもらう。「家」があるのに土地を借りる交渉をしなければならず、成立すれば「家」が家に泊まることになる。すると村上は、定住者であると同時に移住者になり、また二重の「家」に守られたホームレスということになる。そんなジレンマに満ちた境界線上を綱渡り的に歩き続けること自体が、現代の管理社会に対する優れた批評にもなっている。

2021/02/25(木)(村田真)

ミヒャエル・ボレマンス マーク・マンダース|ダブル・サイレンス

会期:2020/09/19~2021/02/28

金沢21世紀美術館[石川県]

緊急事態宣言で諦めかけていたが、やっぱり誘惑には勝てなかった。なにしろボレマンスとマンダースというヤバイ顔合わせだからな。しかも2つの個展ではなく、2人でひとつの展覧会をつくっているのだから見ないわけにはいかない。2人ともベルギー在住だが、ベルギーは美術史において特異な位置を占めている。イタリアのルネサンスに対する北方ルネサンスの中心だし、19世紀の印象派に対する象徴主義、20世紀の抽象に対するシュルレアリスムなど、ある意味「裏街道」を歩んだ画家を多く輩出している地だ。そういえば数年前、「ベルギー奇想の系譜」という展覧会も開かれたっけ。ファン・エイク以来、ベルギー美術に通底するのは、不穏なまでの具象性ではないか。特にこの2人は絵画と彫刻の違いはあれど、主に人物をモチーフにしている点、人体の一部が分断されたり異物が挿入されたりしている点に共通項を見出せる。

展示は、マンダースだけの部屋もあればボレマンスだけの部屋もあり、両者が混在した部屋もあるが、実にうまく調和しているように見える。パッと見、マンダースの彫刻のほうがサイズがでかくて嵩ばり、しかも半透明の膜で展示室を仕切ったインスタレーションもあるので、目立っていそうなもんだが、でもなぜか小品の多いボレマンスの絵画のほうが、重厚で存在感があるように感じられないだろうか。そこで思い出したのが、レオナルドとミケランジェロのあいだで交わされたといわれる「絵画・彫刻論争(パラゴーネ)」だ。実際のやりとりはさておき、おおむね、絵画は平面なのに立体感を表わせるし、背景や雰囲気まで描くことができる(だから絵画のほうが優れている)のに対し、絵画は立体感を暗示するだけだが、彫刻は立体そのものを現実につくり出すことができる(だから彫刻のほうが優れている)といった論争だ。

時代を感じさせる議論ではあるけれど、この2人に当てはめてみるとおもしろい。ボレマンスの絵画は大半が人物画で、しかも上半身しかなかったり顔になにかを被せられていたりして、背景はほとんど描かれていない。つまり物体のみを描いている、という意味で彫刻的といえる。一方、マンダースの人物像も分断されたり部分的だったりするが、無表情で動きに乏しく、ボレマンス以上に現実感が希薄だ。しかも半透明の膜を使って空気感まで出そうとしている。決定的なのは、素材を粘土や木などに見せかけて実はブロンズ製という、目を裏切るような錯覚を仕掛けていること。これって絵画的といえないか? 絵画的な彫刻と、彫刻的な絵画。両者の組み合わせが絶妙に感じられるとすれば、それぞれが領域侵犯し合っているからではないだろうか。

2021/02/25(木)(村田真)

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栗林隆展

会期:2020/11/21~2021/03/21

入善町 下山芸術の森 発電所美術館[富山県]

黒部宇奈月温泉駅前でレンタカーを借りて、娘の運転で発電所美術館へ。なにしろここは発電所を再利用した美術館だけに交通の便が悪く、娘が同行してくれなかったらタクシーで行くしかなかった。20年前は美術館に連れて行くと泣き叫んでいた娘も成長したもんだ。ただし帰りに黒部市で寿司をたらふく食わせたので、タクシーのほうが安かったかも。

さて「栗林隆展」だが、美術館内はスゴイことになっていた。がらんとした展示室に木材を巨大なドーナツ型に組み、中央に球形、その上に円筒形を載せ、周囲を鉄パイプの足場で囲っている。バベルの塔にしては小さすぎるし、宇宙船にしては木製だし。かたちやサイズ、そして《元気炉》というタイトルから原子炉を連想しなければならないが、それにしてはポンコツすぎるなあ。もちろんそれが手づくりの味ですが。かつて発電所の取水口だったらしき大きな穴を脱衣場にし、そこからドーナツ型の通路をくぐり抜けて中央の球形の部屋に入る。内部は六角形のサウナ室になっており、椅子もついている。見上げると万華鏡のような煙突が伸び、天に空が見えるが、これはリアルではなく栗林が福島で撮った写真だという。屋外にある釜で火を焚いて蒸気を配管で送り、実際にサウナとして使っていたそうだが、残念ながらこの時期はコロナの緊急事態により稼働していなかった。

元発電所という立地の下、原発事故から10年目というタイミングで、サウナに入って元気になろうというこの企画、サイコーだぜ。ここでは水力(発電所)、火力(サウナ)、原子力(原発)という3つの文明の力が、アーティストの回路を通して芸術かつ娯楽に変換されている。これこそプロメテウスの火に対抗できるアートの力というものだろう。いっそ美術館をやめてサウナとして営業を続けたらどうだろうか。



展示風景[筆者撮影]

2021/02/25(木)(村田真)

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シンビズム4 ─信州ミュージアム・ネットワークが選んだ作家たち─

会期:2021/02/13~2021/03/14

サントミューゼ 上田市立美術館[長野県]

「シンビズム」とは、長野県内の学芸員が協働して県ゆかりの美術家を紹介する試みで、信州+美+イズムの造語らしい(ほかにも「新美ズム」「真美ズム」などの語呂合わせもあるようだ)。4回目を迎える今回の出品作家は、戸谷成雄、辰野登恵子、母袋俊也、小山利枝子の4人。いずれも1950±5年の生まれで、70年代前後に活動を始めたいわゆる「ポストもの派」と呼ばれる世代だ。ポストもの派とはごく簡単にいえば、ミニマルアートやもの派によって解体されたモダンアートを問い直し、ゼロ地点からもういちど「絵画」や「彫刻」を立ち上げようとした作家たちといえるだろう。わざわざ金沢に行く道すがら途中下車して見たかったのは、ぼく自身が世代的に近いからであり、彼らが長野出身であることなどはどうでもいいことだ。

展示順に見ていこう。最初は、花をモチーフにした絵画で知られる小山利枝子。1993年から30年近くに及ぶ大作を10点ほど展示している。1点だけ絵画ではなくメッシュを丸めて壁に取り付けた作品を出しているが、「再制作」とあるので初期の作品だろう。彼女は早い時期にいったん制作を中断しているので、この作品は明らかに異質だ。花を描き始めるのは80年代からで、90年代はまだ花の実体感が残っているが、次第に花弁が湧き上がる液体のように流動化し、近作では物質感がほとんどなくなって気体化してきている。このような絵画の漸進的展開を目の当たりにできるのは眼福といっていい。彫刻家の戸谷成雄は、シンプルに「ミニマルバロック」シリーズの《双影景》1点を、ドローイングとともに出品。1点といっても、ひとつの大きな木の塊を分割して切り出した角柱にチェーンソーで複雑な斬り込みを入れた26本のセットだ。戸谷は一貫して彫刻の原点である「彫る」「刻む」という行為にこだわり続けているが、初期の概念的な彫刻を脱し、現在の表現主義的なスタイルに結実したのはやはり80年代のこと。

上田市出身の母袋俊也は、屋外を含めて30点近く(シリーズの小品をカウントすれば100点以上)出品し、集大成的な展示となった。導入部として、通路の左右の壁から正方形の「Qf」シリーズを交互に突き出して展示。このシリーズは、絵画の出発点ともいうべき3つの宗教美術、すなわちイコンの三位一体とキリストおよび阿弥陀如来の手の図像によって構成されている。大きい展示室には、郷里(まさにこの地)の風景を描いた「TA」シリーズを中心に出品。また館内の窓や屋外にも、山を借景にした《絵画のための見晴らし小屋》をはじめとする「絵画論」的作品を設置している。いずれも画面の比率や枠など絵画のフォーマットを考察し、絵画を原点からもういちど立ち上げようという姿勢がうかがえる。最後は7年前に亡くなった辰野登恵子。70年代の格子パターンの版画も出ているが、大半は表現主義的なペインティングから奥行きのある色彩絵画まで、80年代以降の作品で占められ、約40年に及ぶ画業の足跡をたどることができる。

4人とも初期はミニマル、コンセプチュアルに感化されたものの、その影響を脱して80年代に自分のスタイルを確立している点で共通している。これはポストもの派ならではのプロセスといえるだろう。だが今回、それ以上のことに気づかされた。それこそ「シンビズム」というほかないものだ。小山は、花弁の輪郭が山の稜線と酷似していると語り、戸谷は、山の輪郭が山肌ではなくその上を覆う樹冠で決まることを、彫刻の表面の問題として捉えていた。母袋は先述のように、郷里の山をモチーフにシリーズを展開しているし、岡谷市生まれの辰野は、小学生のころ諏訪湖をよく描いていたことについて語っている。彼らの作品から「長野」らしさなど感じられないし、「信州」をイメージすることもできないが、しかし意外にも彼ら自身は山や湖など長野の自然からインスパイアされていたのだ。そしてこのことは今回「シンビズム」として一堂に会されなければ気がつかなかったに違いない。まあ気づいたところで、長野県人以外にはどうでもいいことだけど。

2021/02/25(木)(村田真)

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岡本光博 「オキナワ・ステーキ」

会期:2021/02/06~2021/02/27

eitoeiko[東京都]

「オキナワ」をモチーフにした岡本の個展。岡本と沖縄といえば、2017年に沖縄の伊計島にあるスーパーのシャッターに、墜落するヘリコプターやパラシュートなどを黄地に黒でペイントした《落米のおそれあり》(2017)を発表して物議を醸したことが記憶に新しい(その2年後、同作品は「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」に出品され、さらに有名になった)。しかし岡本と沖縄の関係はさらに10年以上も前に遡り、2004年から2年ほど岡本が沖縄の大学の非常勤講師を務めていたときに始まるという。今回の出品作品も《落米のおそれあり》を除き、大半はこの時期につくられたものだ。

展覧会名にもなった《OKINAWAN STEAK》(2005)は、日米のコックが巨大なステーキを料理する姿をポップに描いた作品で、このコックは沖縄の有名な2店のステーキハウスの看板から引用したものだという。ステーキは沖縄本島のかたちをしており、日米に翻弄される現状を表わしている。街で見かける「工事中」の看板が「演習中」に書き換えられている作品も2点ある。「ご迷惑をおかけします」と書かれた言葉の下には、それぞれ兵士姿の白人と黒人がおわびしている。床には赤く塗られた紙が数百枚、赤絨毯のように敷かれているが、これは摩文仁の丘に建つ戦没者24万人の氏名が刻まれた「平和の礎」を赤鉛筆でフロッタージュしたもの。そのとき削った赤鉛筆のカスを泡盛の小瓶に詰めた作品もある。

《to MANKO》(2005)と題された映像は、那覇にある前島アートセンターから漫湖までボートで川沿いに遡上するパフォーマンスを記録したもの。しばらく見ていたけど、映像そのものはおもしろくもなんともない。漫湖は現在ラムサール条約にも登録される干潟になっているが、別に環境保護を訴えるわけでもなく、ただ漫湖に行ってそれをタイトルに使いたかっただけなのでは? こういう下ネタも岡本の得意とするところだ。ちなみに同展をキュレーションした工藤健志氏は展覧会名を「to MANKO」にするつもりだったが、広報がやりにくくなるのでやめたらしい。「オキナワ・ステーキ」なら「沖縄・素敵」とも読めるし。

この個展にあわせ、渋谷の水野学園に併設されたHOLE IN THE WALLという展示スペースでも「MUNI」と題する個展を開催しているので(2/15-27)、ついでに足を伸ばしてみた。こちらは岡本のもうひとつの得意技であるブランドいじり。「MUNI」とは無印良品とユニクロを合体させた偽ブランドで、実際に両製品を半分ずつ使ってシャツやパンツを仕立て上げている。ほかにも、サンローランやポール・スミスなどブランドタグをつぎはぎして一枚のシャツに仕立てたり、ルイ・ヴィトンのロゴの入った革でバッタをつくったり、いじり放題。さらにブランド企業から送られた抗議や警告文をそのまま大理石に刻字した「作品」もあって、とても楽しめる。


MUNI

会期:2021年2月15日(月)〜27日(土)
会場:HOLE IN THE WALL(東京都渋谷区渋谷1-20-5)

2021/02/24(水)(村田真)