artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
至近距離の宇宙 日本の新進作家 vol.16
会期:2019/11/30~2020/01/26
東京都写真美術館2階展示室[東京都]
毎年、年末から年始にかけて東京都写真美術館で開催されている「日本の新進作家」展も16回目を迎えた。今回は「至近距離の宇宙」というテーマで、藤安淳、井上佐由紀、齋藤陽道、相川勝、濱田祐史、八木良太の6人が出品している。写真表現の歴史において、クローズアップで撮影された写真の登場は大きな意味を持っていた。肉眼で見る世界とは、まったく異なる世界の眺めを捕獲することができるからだ。そこに見えてくる現実世界の姿は、親密さと違和感とを同時に感じさせるのではないだろうか。今回の展示でも、6人の若手写真家たちは、作品制作を通じて、身近なはずの被写体を撮影したときに生じる驚きや不思議さを引き出そうとしていた。
とはいえ、展覧会の前半に並ぶ藤安、井上、齋藤と、後半の相川、濱田、八木の作品の印象はかなり違う。自身も双子の片割れである藤安は、さまざまな双子たちのポートレートを撮影し、井上は生まれたばかりの赤ん坊の瞳にカメラを向ける。聾唖の写真家である齋藤は、世界がみじろぎするその一瞬を捉えようとする。現実世界のあり方をストレートに描写し、「感動」とともに定着させようとする彼らに対して、プロジェクターやタブレット端末の液晶画面の光を光源として制作する相川、山や海のイメージを身近な素材で再構築する濱田、鏡や「驚き盤」などの装置を介した視覚的な変容を扱う八木の作品は、むしろ「近さ」という認識そのものをクールに見直そうとしている。この二つの対照的な作品世界を並置することは、試みとしては面白いが、やや混乱を招いていた。前半部分と後半部分の作品の違いを、もう少し丁寧に浮かび上がらせるべきだったのではないだろうか。
2019/12/18(水)(飯沢耕太郎)
飛鳥アートヴィレッジ2019
会期:2019/11/23~2019/12/15
飛鳥坐神社、奈良県立万葉文化館、南都明日香ふれあいセンター 犬養万葉記念館[奈良県]
公募で選出された作家が、奈良県明日香村でのアーティスト・イン・レジデンスを経て成果発表を行なう「飛鳥アートヴィレッジ」。6回目となる今回は、2ヵ月以上という例年より長い滞在制作の時間が充てられた。3名の作家の展示からは、明日香村の風景やモノと向き合いながらそれぞれの思考を深めていった、充実した過程を見ることができた。
佃七緒は、飛鳥坐神社の境内に、米の脱穀に使われていた古い農機具、竹や藁、古代米などを組み合わせ、架空の農耕の神事を思わせるインスタレーションをつくり上げた。古代米が奉納された祭壇のような装置に付いたハンドルを回すと、ガラガラという音とかすかな風が起こる。神社での参拝の行為を、「道具の交代とともに消えていく動作」に置き換え、場所や道具のもつ機能と人の行為の関係性に光を当てている。装置の背後には、竹や藁など自然の素材でできた不思議な造形物が、白布とともに吊られている。民具や供物を思わせる一方、ひらがなの形にも見え、四角い枠は原稿用紙のマス目を思わせ、解読できない古代の文字で書かれた呪文のようだ。佃によれば、農業に関する土地の言葉が入っており、飛鳥が万葉仮名の発祥の地であることから、「かな」をモチーフに使ったという。
野原万里絵は、ユーモラスで謎めいた有機的な黒い形象と、それを計測・分割するような赤い直線を組み合わせた平面作品を、明日香村の風景が見渡せる奈良県立万葉文化館のガラス壁に展示した。野原の関心を引いたのは、子孫繁栄、五穀豊穣、悪疫退散を願って飛鳥川に毎年掛け替えられる「男綱」づくりの作業だったという。一本の藁という「線」を寄り合わせて「面」を形づくり、立体物をつくっていく過程にデッサンとの共通性を見出したことが、制作の出発点となった。野原は、メインの大型作品とともに、そこに至るまでの複数のプロセス──デッサンによる形の抽出、アウトラインの正確なトレース、原寸大の「型」、さらに拡大した「型」──も併せて展示した。デッサンの対象となったのは、家屋のラインや田んぼに残る黒い焼け跡など、「具体的に何を表わすのかは不明だが、形として認識できるもの」、具体的な風景や事物から抽出されたゲシュタルトである。野原の関心は一貫して、「絵を描くための道具」として雲形定規のような「定規」やステンシルのような「型紙」をつくることにある。それは、野原にとって初めて触れる土地や事物に接近するための方法であるとともに、「形態の認識」「二次元化という圧縮作用」「定規や型=描画のための共有可能なツールの開発」をめぐる造形的な実験でもある。
一方、徳本萌子は、「ミシンで木の葉を縫う」行為を通して、明日香村の風景への介入を試みている。展示会場の中庭に立つ木の葉は、霜で銀色に光るように見えるが、じつは細い銀の糸で葉脈をなぞるように縫われている。「朽ちていく存在や自然のなかの一瞬の美を、縫う行為を通して留めたい」気持ちが込められた繊細な作品であり、アンディー・ゴールズワージーの作品を想起させる。また、寺跡の草原を舞台に、村の住民がミシンを持ち寄って参加し、巨大な「葉っぱの輪」をつくり上げた作品も発表された。地元の素材、幅広い層の住民との協同、ミシンの輪=「人の輪」の連想といった点だけを見ると「レジデンス成果作品」の教科書的模範解答に映るが、徳本の試みは、それだけにとどまらない。「手芸」すなわち女性性の領域と結びつけられやすい「手縫い」ではなく、「ミシン」がもつ工業性や機械的な匿名性。また、「家庭用ミシン」を「家の外」の公共的な空間へ持ち出す越境的な行為は、ジェンダーの文脈における批評性を合わせもつ。
このように、各作家が充実した発表を行なうことができた背景には、滞在制作期間の長さに加え、制作場所の好環境も大きく影響していたと思われる。廃校になった幼稚園(現在は村の公民館として活用)の建物が制作場所として提供され、広い空間で制作に集中することができた。その結果、制作場所の確保を必要とする造形タイプの作家がじっくり制作に取り組めたのではないか。例えば、徳本は、「葉っぱの輪」の作品は過去にも制作しているが、一般の参加者を募っての屋外での大がかりな制作は、今回初めて実現できたという。このように、作家にとってはステップアップにつながる機会となり、明日香村にとっては単に消費されない関係が積み重なれば、「質の高い展示が実現できる/見られる」ことが作家/観客双方にとって強い魅力になり、「飛鳥アートヴィレッジ」自体の意義や評価も高まっていくだろう。
2019/12/15(日)(高嶋慈)
小林紀晴 写真展 孵化する夜の啼き声
会期:2019/12/11~2019/12/24
銀座ニコンサロン[東京都]
小林紀晴は、このところ、日本各地の祭事や祭礼を撮り続けている。じつは、小林と同世代、あるいは彼よりやや若い写真家たちのなかで、同じような題材を選ぶ者がかなり多い。それらの写真を見るたびに、なぜ祭事や祭礼なのかという疑問を覚えることがよくある。民俗学をバックグラウンドとして祭事を撮り続けてきた芳賀日出男や須藤功の場合には、その動機ははっきりしている。日本人の宗教観や死生観が、最もよくあらわれてくるのがそれらの行事であり、撮影によって視覚的なデータを得ることができるからだ。だが、小林らが何を目的として撮影しているのかは、写真を見ている限りではうまく伝わってこない。
小林が会場に掲げていたコメントに以下のように記しているのを読んで、「なるほど」と思った。祭事や祭礼は夜通しおこなわれることが多いので、漆黒の闇に包まれてじっとしていると「奇妙な感覚」に襲われることがある。眼前の人の姿や光景が裏返って「千年前と千年後、現実と異界、ケとハレ、明と喑といったものがゆっくりと反転し、時間と空間が奥行きをもってねじ切れたとき、亀裂が生じ、やがて激しく割れる」。そこで「私はぷっくりと生まれ出でた“モノタチ”を目撃する」というのだ。これは、客観的な記録を基調とする従来の民俗学的な写真のあり方とはまるで違う、写真家の個人的な体験に根ざした撮影の動機といえる。祭事や祭礼は、その「時間と空間が奥行きをもってねじ切れ」るという感覚を引き出すための装置と見るべきだろう。
それはそれでよいが、それならば、その個人的な体験にもっと集中し、写真の選択、配置の仕方をより厳密におこなってほしい。展示されている写真には、祭礼の前後の日常を撮影したものがかなり多く含まれているが、それらは明らかに緊張感を欠いている。大小の写真をズラしながら、重ねていくような展示構成も、視点が拡散してしまうので一考の余地があるだろう。なお、本展にあわせて赤々舎から同名の写真集が刊行された。本展は2020年1月9日〜1月22日に大阪ニコンサロンに巡回する。
2019/12/12(木)(飯沢耕太郎)
ホンマタカシ『Symphony その森の子供』
発行所:Case Publishing
発行日:2019年11月
ホンマタカシは2011年に福島の森のきのこを撮影した。2012年には東京・代々木のBlind Galleryで「その森の子供」と題する個展を開催し、同名の写真集も刊行している。同作品は2015年4月〜7月にボストン美術館で開催された「In the Wake: Japanese Photographers Respond to 3/11」展にも出品された。今回、Case Publishingから出版された『Symphony その森の子供』は、その完成版といえる。同書には福島に加えて、スカンジナビア、チェルノブイリ、ストーニーポイントで撮影されたきのこの写真がおさめられていた。
スカンジナビア(スウェーデン、フィンランド)と、チェルノブイリ(旧ソ連、現在はウクライナ)で撮影されたきのこの写真は、福島のそれとつながっている。2011年の東日本大震災直後の津波による福島第一原子力発電所の大事故、1986年のチェルノブイリ原子力発電所4号機の爆発事故によって放出した放射性物質が、森のきのこたちに吸収・蓄積され、摂取規制が長く続いてきたからだ。チェルノブイリからかなり離れたスカンジナビアでも、爆発事故後に、風の影響によって放射性物質が集中してふりそそいだのだという。
写真集の最後のパートにおさめられた、アメリカ・ニューヨーク郊外のストーニーポイントのきのこたちは、やや違った意味を持っている。現代音楽家のジョン・ケージは、1954年にストーニーポイントに移り住んだ。ケージは同地の野生のきのこたちに魅せられて、その研究を開始する。ケージはのちにニューヨーク菌類学会の創設者のひとりとなり、「きのこ狂」として知られるようになる。きのこの持つ魔術性、偶有性、多様性はケージの音楽活動にも多大な影響をもたらした。ストーニーポイントは、それゆえ、世界中のきのこ愛好家(マイコフィリア)にとって、聖地というべき場所となった。
この4つの土地を巡礼のように彷徨うことで、『その森の子供』は、さらにふくらみを増し、きのこの世界の豊かさを、静かだが力強いメッセージで歌い上げる作品に成長した。森で採取したきのこたちを、その場で白い紙の上にそっと載せて撮影した写真と、それぞれの森のたたずまいを、やや引いたアングルで押さえた写真とを組み合わせる写真集の構成もとてもうまくいっている。ホンマタカシの写真家としての美点が、最大限に発揮された作品といえるだろう。
関連レビュー
ホンマタカシ「その森の子供 mushrooms from the forest 2011」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2012年02月15日号)
2019/12/10(火)(飯沢耕太郎)
安楽寺えみ『Balloon Position』
発行所:赤々舎
発行日:2019年9月7日
何ともとらえどころがない本である。25.7×36.4センチメートル(B4変型)という、かなり横長の判型の208ページの作品集には、モノクロームの写真がぎっしりと詰め込まれている。タイトルにもなっている「Balloon」、あるいは黒と白のドット(球体)がたびたび登場するが、それ以外は身体の一部、風景、モノなど、とりとめがないとしか言いようがない内容だ。とはいえ、ページをめくっていくと奇妙な浮遊感、トリップ感が生じてくる。あらゆる事物が流動化し、溶解していく世界をあてもなくさまよっている気分というべきだろうか。どこに連れていかれるかはわからないが、不安感よりはむしろ陶酔の感覚が強まってくる。そしてその感覚は、どこか懐かしさをともなっている。
本書は、安楽寺えみが20年前に制作した「幻の手製本」をもとにしている。20年前といえば、安楽寺がデビュー写真集『HMMT?』(スタジオワープ、2005)を刊行する以前のことで、長い闘病生活から回復して、写真作品を本格的に制作し始めた頃である。安楽寺はその時期に、ザラ紙にプリントした写真を束ねた手製本をいくつか試作していて、この『Balloon Position』もその中の一冊である。つまり、彼女が写真というメディアを通じて、世界をどう見ていたのか、捕獲したイメージをどのように組織していこうとしていたのか、その初心がここにはくっきりとあらわれているということだ。
安楽寺は、その後アメリカのNazraeli Pressから『Emi Anrakuji』(2006)、『Ipy』(2008)など、性的なオブセッションをより強く打ち出した写真集を刊行し、より高度な構想力を発揮するようになっていく。この復刻された「幻の手製本」にうごめきつつかたちをとっている、彼女の作品世界の原型は、まだナイーブで荒々しいが、それはそれでとても魅力的だ。
2019/12/09(月)(飯沢耕太郎)