artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
心ある機械たち again
会期:2019/12/28~2020/02/02
BankART Station+BankART SILK[神奈川県]
2008年に開かれた「心ある機械たち」の続編。機械といってもハイスペックなITやAIとは無縁の、どちらかといえばローテクで、思わず笑ってしまうユーモラスな動きを見せ、突拍子もない音を奏でる、なんの役にも立たない愛すべき機械たちだ。
役に立たない機械といえば、やっぱり牛島達治だ。今回も役立たずの意味不明な作品をいくつか出している。《まっすぐなキュウリたちの午後(競争)》というタイトルからして意味不明の作品は、細長いサーキット上をモニター搭載の2台の貨車が追いかけっこをする装置。なにが目的なのかさっぱりわからないが、そのモニターに映し出されるのは、隣にある《まっすぐなキュウリたちの午後(砂の街)》という対作品に仕掛けたカメラの映像だ。こちらの作品は、西洋風の街のミニチュアを回転させ、その上からレール上を往復する貨車が砂をかけるという、これまたワケのわからない機械。考えるだけ無駄なようだ。
西原尚もレールを敷いて2台の車を往復させる《まじめなキカイ》を出している。こちらは太鼓代わりのドラム缶とノイズを発するスピーカを載せて、調子はずれのアジテーションを奏でながらゆっくり進む。レトロな味わいのあるポンコツ機械だ。武藤勇の《不測の事態》は、台座の上に小さなベルトコンベアを載せた作品で、ボタンを押すと作動する仕掛け。手前には壷や皿やハニワなどが台座の上に置かれ、床には陶器の破片が散らばっているので、誰かが陶器を載せてボタンを押したに違いない。
器といえば、今村源の《まわってアルコト・ウツワ》は、パッと見お椀が置いてあるだけ。でもよく見ると高速回転していることに気づく、後日もういちど見に行ったらお椀がブレて、回転しているのがバレバレだった。機械はメンテナンスが必要だから大変だ。回転といえば、タムラサトルも《回転する3頭のシカ(前)》と《回転する3頭のシカ(後)》を出品。シカの上半身3頭分と下半身3頭分を型どって青く塗り、それぞれ放射状につなげて回転させるのだが、なぜシカが3頭なのか、なぜ前後で分かれているのか、ナゾだ。例えば、上半身が馬で下半身が鹿なら「3馬鹿大将」でわかりやすいが、アーティストはそんな安易な発想はしない。
もう1人、回すのが好きなのが片岡純也だ。カフェのカウンターに置かれた《Coffee cup》は、一見ただのコーヒーカップだが、中をのぞくと、なんとコーヒーが渦を巻いているではないか! カウンターの下から機械で回しているのだが、思わずミルクを注ぎたくなる。《ソファーの足を回る電球》は、文字どおりソファの脚の周囲を電球がクルクル回転しているし、《回る時計・進まない秒針》は、掛け時計の秒針だけ天を指したまま止まり、時計本体を回転させている。時計・秒針といえば、三浦かおりの《秒の音》は、秒針だけの時計を60個ずらりと並べたもの。針の先に小さな鈴をつけているのでシャラシャラかまびすしい。このように同展は、作者を超えて作品同士が共鳴し合っているのが特徴だ。
三浦はほかにも、本を細かく刻んで箱に入れ、文字(の書かれた紙片)を撹拌する二つの作品、《うごめく》と《機微―百科事典13巻/subtleties-encyclopedia vol.13》を出品。たしか、夜中に本の文字が混ざり合い、意味を失ってしまうんじゃないかと心配した文学者がいたが、この作品は文字を分子に見立ててシャッフルし、意味のない混沌スープに仕立て上げた優れものだ。
2019/12/27(金)(村田真)
梅田哲也 うたの起源
会期:2019/11/02~2020/01/13
福岡市美術館[福岡県]
サウンド、光、重力といった物理現象を取り込み、場所の特性とともに成立させるインスタレーションと、パフォーマンス作品を手がける梅田哲也の、美術館での初個展。看視スタッフの誘導によって鑑賞者が展示可動壁を押し、奥のホワイトキューブ空間で起こる「何か」を体験する作品《うたの起源》のほか、水の重量の移動によって上昇/下降する物体、明滅する光を惑星の回転のように壁に投げかけるライトの運動、回転する三つの拡声器から流れる人声や楽器の音が混じり合うハーモニックな音響など、さまざまな作品が美術館内のあちこちに仕掛けられている。メイン空間のほか、コレクション展示室、入口ロビーと階段、普段は入れない倉庫など複数の空間に作品が設置されているため、「館内ツアー」の側面ももつ。
このツアー的な要素を「ギャラリーツアーを模したパフォーマンス」として昇華した公演が、年末の1日限りで開催された。出演者は、梅田自身に加え、ダンサー・振付家のハイネ・アヴダルと篠崎由紀子、捩子ぴじんら。美術館の外→梅田作品の点在する展示室内→バックヤードという三層構造でツアーは構成されている。
観客はまず、ガイド係の看視員に導かれ、美術館の「外側」を歩く。かつては博多湾の海底だったという説明を聞きながら隣接する庭を抜けて、裏側の搬入口へ。パフォーマーの存在感は、偶然居合わせた通行人と見紛うくらいのささやかさだ。搬入用のエレベーターに乗って館内に戻り、ガラス張りの通路を進むと、「樹のあいだに赤い実が見えますか」とガイドに問いかけられる。ガラス越しに何かを凝視する男が佇む。角度によって現われたり見えなくなったりする「赤い実」は、ガラスに反映した館内の赤いライトだ。コレクション展示室内に入ると、再び看視員のガイドにより、ダリや田中敦子、アニッシュ・カプーアの作品の解説が始まる。だが少し離れたところでは、3人の男女が謎めいた儀式風の所作を繰り返している。梅田作品を通過したあとは、階段を降りてバックヤード空間へ。機械空調室の重い扉を開け、暗闇をライトで探るパフォーマー。機械のたてるノイズ、内臓のように壁を這う太いチューブ、暗闇に明滅する無数の赤い光。天井板を剥がした開口部からは、何かが動く不可解な物音が響く。ドアのない狭い空間に誘導されると、突然明かりが消え、暗闇のなかで一瞬のハミングに包まれる。古美術の展示室で薬師如来像の解説を聞き、ピアノの爪弾きが聞こえるホールを通り抜け、入口ロビーに戻ったときには、胎内巡りを終えて「日常」に帰還したような感覚に包まれていた。
普段は表から見えない「バックヤード」をあえて見せる。とともに、看視員など「裏方スタッフ」を「パフォーマー」として作品の要素に取り込む。内/外の空間を裏返し、知覚を研ぎ澄ませるよう促し、非日常を通り抜けて日常へと回帰する感覚を味わわせる。その意味で本公演は、劇場空間の機材や裏方スタッフの「運動」そのものを舞台上で見せながら非日常的なイリュージョンの旅を体験させた舞台作品『インターンシップ』の、「美術館バージョン」と言える。
公式サイト:https://umeda.exhb.jp/#event
関連記事
周年を迎える美術館が見せるもの──「アジア美術、100年の旅」と「梅田哲也 うたの起源」|正路佐知子:キュレーターズノート(2019年11月15日号)
TPAM2018 梅田哲也『インターンシップ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年03月15日号)
2019/12/27(金)(高嶋慈)
笹岡啓子「PARK CITY」
会期:2019/12/06~2019/12/26
笹岡啓子が「PARK CITY」のシリーズを撮影しはじめたのは2001年、photographers’ galleryで最初に同シリーズを展示したのが2004年だから、すでにかなりの時間が経過している。そのあいだに東日本大震災の被災地を撮影した「Difference 3.11」(2012〜)や海岸線をモチーフに「地続きの海」の景観を探る「SHORELINE」(2015〜)など、いくつかのシリーズを発表しているので、この作品だけに集中してきたわけではない。だが、これだけ長く続くと、その時間の厚みをどのように新作に組み込んでいくかが、大きな課題として浮上してくるのは当然だろう。
笹岡は2009年に写真集『PARK CITY』(インスクリプト)を刊行している。そのときは、6×6判のモノクロームフィルムで撮影した写真を集成していた。それと比較すると、今回の展示ではよりヴァリエーションが増えてきている。カラー写真が中心になり、ネガの状態に色を反転してプリントした作品もあった。笹岡の出身地でもある広島の平和記念公園を中心とした地域を、傍観者的な距離感で撮影していく、被写体の選択の方向性に大きな変化はない。だが、以前の冷静なアプローチとは異質な、どこか感情的な要素を強調した写真が目につくようにも感じた。
このシリーズが、今後どのように展開していくのかはまだよくわからない。笹岡自身にも迷いがあるのではないだろうか。この時期を抜けることで、これまで撮影してきた広島平和記念資料館の展示物の観客たちや、慰霊のために川の周辺に群れ集う人々などの諸要素が、よりくっきりと構造化されてくることを期待したい。なお本作品の一部は、同時期に刊行された『photographers’ gallery press no.14』にも掲載されている。
関連レビュー
笹岡啓子「PARK CITY」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2017年07月15日号)
笹岡啓子「PARK CITY」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年07月15日号)
笹岡啓子「PARK CITY」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年01月15日号)
笹岡啓子『PARK CITY』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2010年03月15日号)
2019/12/25(水)(飯沢耕太郎)
安村崇「態態」
会期:2019/12/01~2020/01/19
MISAKO & ROSEN[東京都]
安村崇は「その事物が写真としてどう現われるのか」、つまり写真の画面上での「見え方」にこだわって作品を制作し続けてきた。その禁欲的ともいうべき営みは、今回のMISAKO & ROSENでの個展「態態」で、ひとつの結節点を迎えたようだ。
彼のデビュー作である『日常らしさ』(オシリス、2005)を知る者は、今回の展示を見て懐かしさを覚えるのではないだろうか。革靴や靴下や酒の徳利などをクローズアップで撮影した何枚かは、日常の事物がどこか偽物っぽく見えてくるあり方を追求した『日常らしさ』に通じるものがあるからだ。出品作には、公共施設の建造物の一部を切り取って、画面上に等身大に再現した『1/1』(オシリス、2017)と共通性を感じるものもある。つまり、安村は旧作の2作品の「間」に狙いを定めているということだろう。とはいえ、中途半端な折衷ではなく、そこには新たな「見え方」を意欲的に模索していこうという姿勢がはっきりとあらわれていた。
はじめて挑戦したという映像作品もとても興味深い。映像作品でも被写体はほぼ同じで、見慣れた日常の事物を縦、あるいは横にスクロールして捉えている。つまり観客は、対象物の一部しか見ることができないわけで、スクロールしていくと、次第にその眺めが変わり、違う「見え方」があらわれてくる。その画角、構図、スクロールの速度の選択が的確かつ絶妙で、見慣れた被写体が、奇妙な異物に見えてくることに驚かされた。今後は静止画像と動画をより複雑に組み合わせた、インスタレーション的な展示も考えられるのではないだろうか。次の展開が楽しみだ。
2019/12/21(土)(飯沢耕太郎)
青木野枝 霧と鉄と山と
会期:2019/12/14~2020/03/01
府中市美術館[東京都]
青木はこれまで美術館で何度も個展を開いてきたが、これは並大抵のことではない。なんてったって美術館は広いから、展示室を埋めるだけの作品がなければいけない(もちろんそれ以前に、質の高い作品をつくって美術館に認めてもらわなければならない)。特に青木は鉄の彫刻で、しかも場所に応じてサイズも形態も変えるから、搬入・設置・撤去も大変な作業になる。ほんと、彫刻家はつらいよ。
でも今回の個展を見て、なるほどと思った。彫刻は全部で17点ほどあるが、インスタレーションとして見れば8点と数えることもできる。特に三つある企画展示室には各1点ずつ。たった1点でも「もつ」のは、作品自体がデカイこともあるが、なにより空間全体をひとつのインスタレーションとして成立させているからだ。まず展示室1では、溶断した鉄の環を二つ組み合わせ、一部にガラスをはめ込んだユニットを数百個つなぎ合わせて、直径7、8メートルほどの巨大ドームをつくる。大きすぎて搬入できないので、その場で組み立てたはず。これが彫刻作品《霧と鉄と山―I》だが、それだけでなく、周囲のガラスの陳列ケースに波形の板を掛け軸のように掛け、全体でひとつのインスタレーションとしているのだ。
展示室2には、石膏によるやはりドーム型をした《曇天I》《曇天2》の2点が置かれている。彫刻としては2点だが、この部屋も周囲をガラスの陳列ケースが囲んでおり、ひとつのインスタレーションとして捉えることができる。展示室3も同じく空のガラスケースに囲まれ、1にあった鉄の環のドームを少し扁平にして耳を生やしたような、どことなくユーモラスな形の《霧と鉄と山―II》が鎮座する。これでインスタレーションとしては3点。数は少ないが見応えはある。
ほかにも企画展示室の前室とロビーに、デビュー当時の作品や使い古しの石鹸を積み重ねた新作を展示している。驚くのは、版画やドローイングも含めて大半が2019年の制作であること。青木は制作時間の9割方を鉄板の溶断に割くとどこかで述べていたが、アトリエではひたすら溶断し、部分的に溶接もするが、作品の全体像が姿を現わすのは展示場所においてだという。美術館を新作で埋めることができるのも、こうしたユニークな制作方法を確立しているからだろう。
2019/12/20(金)(村田真)