artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
Unknown Image Series no.8 #1 山元彩香「organ」
会期:2019/11/01~2019/11/30
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1983年、兵庫県生まれの山元彩香はこのところ急速に作品世界を深化させている。今回、カトウチカがキュレーションする「Unknown Image Series」の8回目として企画された本展でも、意欲的な作品を展示していた。山元はこれまでラトビア、エストニア、ロシア、ウクライナ、ルーマニアなどロシア・東欧圏の少女たちをモデルに撮影を続けてきた。言葉によるコミュニケーションがままならないので、身ぶりや表情で意思を伝えつつ、モデルとともに神話的といえそうな場面を創出していく。そのプロセスは、ときにやや強引に見えることもあったが、近作では「何を目指していくのか」という目標設定の共有が滑らかになり、写真に説得力が出てきた。それとともに、仮面、彫刻、写真、布などを積極的に画面に取り入れることで、シャーマニスティックな雰囲気を巧みに醸成している。
だが、今回のメインの展示は写真作品ではなく、《organ》と題する7分ほどの映像作品である。映像そのものの構造はいたってシンプルで、黒い木の箱の上に横たわる長い髪の少女を真横から撮影したものだ。手作りの白い衣装を身に纏った少女は、目を閉じ、手と脚を箱から垂らしてじっとしている。あたかも死者のような姿なのだが、彼女の胸が上下しているので、生きていることがわかる。さらに彼女は微かに何か子守唄のような旋律をハミングしている。山元がこの作品にどんな意味を込めたのかは定かではないが、楽器、あるいは臓器という意味を持つ「organ」をタイトルに使ったことから、あらゆるものを受け容れ、歌として吐き出していく少女の存在を、安らぎと緊張感が同居する印象深いイメージとして定着させようとしたのだろう。山元が本格的な映像作品を発表するのは初めてだと思うが、その試みはとてもうまくいっていた。アフリカのマラウイで撮影したという次の作品も楽しみだ。
2019/11/26(火)(飯沢耕太郎)
「みえないかかわり」イズマイル・バリー展
会期:2019/10/18~2020/01/13
メゾンエルメス8階フォーラム[東京都]
まず、映像をやっている奥の展示室へ。日にかざして真っ白に見える1枚の紙。その紙の裏側に指を置くと、そこだけ陰になり、群衆の像が見えてくる。紙を裏返して同じように指を置くと、今度はアラビア文字が浮かび上がる。裏表に画像と文字をプリントした紙を日にかざしただけの映像だが、ひとつのものでも見る角度やなにかを介在させることで、まったく別のものが見えてくることを示唆している。
壁を見ると、山並みのような線が引かれ、その線上に細い針が何百本も刺してある。作品リストを見ると、素材は「ピン」とだけしか書いていない。よく見たら、線を引いているのではなく、壁に刺した針の影の先にまた針を刺して、その影の先にまた針を刺して……を繰り返すことで山並みの線をつくっているのだ。つまり線は影だった。
大きい展示室には入れ子状にもう1つ部屋がつくられ、その内部にいくつかの作品を展示しているのだが、これが絶妙の効果を生み出している。その好例が、壁に小さな板を立てかけ、裏から光を当てた作品。まるで高松次郎の《光と影》のミニチュアだが、裏の壁にスリットを入れて向こう側の光を採り入れているのだ(壁の裏側に回ることができるので確かめられる)。ガラス張りのため日光がさんさんと降り注ぐこのギャラリーの、いささか使いづらい空間特性を生かした逆転の発想だ。
もう1点、気になったのは、台の上に細かい砂が敷かれ、その上にくっきりボールの転がった跡だけが残されている作品。ちょっとシャレててトリッキーでいけすかないなあと思ったが、帰りにエレベーターに乗ったら、ガラス越しにボールがぽつんと置かれているのを発見! オチをつけられたようで、愉快な気分になった。ちょっとした思いつきから発想された作品ばかりじゃないかと思うけど、どれも遊び心にあふれていて楽しめる。作者のイズマイル・バリーはチュニジア出身。
2019/11/23(土)(村田真)
退職記念展 母袋俊也 浮かぶ像─絵画の位置
会期:2019/10/30~2019/11/30
東京造形大学附属美術館+ZOKEIギャラリー+CSギャラリーなど[東京都]
1954年生まれの母袋は、世代的には80年代作家ということになるだろうが、ニューペインティングやらニューウェイブやら次々と登場した80年代の喧噪とは無縁の地平で、1人(孤軍奮闘と言っていい)独自の絵画を厳密とも言える態度で模索してきた画家だ。
80年代にドイツに留学し、キリスト教の精神性や彼が「フォーマート」と呼ぶ絵画形式を研究。帰国後、複数パネルを連結させた絵画を制作し始める。これには中心を持たない偶数枚パネルの「TA」系(アトリエのあった立川のイニシアル)をはじめ、縦長パネルの「バーティカル」、「TA」とは違い中心性を有する奇数枚パネルの「奇数連結」などのシリーズがあり、余白とタッチを生かした風景やキリスト教モチーフが描かれる。ここからさらに、風景を矩形の枠で切り取るための窓を有する「絵画のための見晴らし小屋」へと飛躍。これは母袋には珍しく屋外に展示する作品、というより、風景を見るための装置だ。
世紀の変わるころから、これらに正方形フォーマートの「Qf」系が加わり、豊かな色彩と筆触によるうねるような形態が現われる。よく見ると、キリスト像や印を結んだ手が認められるが、これはルブリョーフのイコンと阿弥陀如来像から引用したイメージだそうだ。この「Qf」絵画は、正方形の像が向こう側の「精神だけの世界」から、こちら側の「現実の世界」に押し寄せてくるものと考え、それを実体化して「Qfキューブ」という立方体の箱に行きついた。きわめて論理的に展開しつつ、精神性も重視している。ほかにも、同一サイズの画面にさまざまな空の表情を描いた「Himmel Bild」のシリーズがあるが、これらはすべてフォーマートと描かれる内容が連動しているだけでなく、シリーズ同士が相互に関係しながら並行的に制作されているという。
こうして見ると、母袋がドイツで学んだ絵画形式やキリスト教の精神性と、日本の風景や仏教美術などの相容れがたい要素を、長い時間をかけて把捉し、撹拌し、融合させ、作品に昇華させてきたことがわかる。それだけでなく、たとえば「Qf」系の作品では、パネルの側面を角皿のように削ったものがあり、これは母袋によると「物理的な絵画の厚みと『像』の厚みを切り離して認識すること(『像』の膜状性)を導くための試み」(解説より)とのこと。作品の見方・見え方にも周到な配慮が施されているのだ。母袋がいかに独自の絵画体系を築こうとしてきたかが理解できるだろう。
今回はこれらの主要作品だけでなく、膨大なプランドローイングをはじめ、映像、論文、これまでの個展のパンフレットまで公開している。系列ごとに整理された展示や、懇切丁寧な作品解説、保存状態のいいドローイングなどを見ると、作者の律儀で厳格な性格がわかろうというものだ。これまで断片的に作品は見てきたものの、本展でようやく母袋の全体像がおぼろげに浮かび上がってきた。
2019/11/18(月)(村田真)
写真新世紀 2019
会期:2019/10/19~2019/11/17
東京都写真美術館地下1階展示室[東京都]
キヤノンが主催する「写真新世紀」は1991年のスタートだから、ずいぶん長く続いてきたものだ。当初は年4回開催されていたが、それが年2回になり、現在は年1回に落ち着いた。立ち上げから20年あまり審査員としてかかわった筆者にとっても、感慨深いものがある。その優秀賞、佳作入賞者の作品を展示してグランプリを決定する「写真新世紀展」にもほぼ毎年足を運んでいるのだが、このところかなり違和感を覚えていた。2015年から「静止画・動画を含むデジタル作品の応募」が可能となったことで、動画による映像作品が増え、また現代美術的なコンセプチュアルな発想の作品にスポットが当たることが多くなっていたからだ。ところが、今年の「写真新世紀展」では、「写真」をベースにした発想、手法、仕上げの作品の比率が上がってきている。いわば「先祖返り」といった趣の会場の雰囲気が興味深かった。
今年の審査員は椹木野衣(美術評論家)、サンドラ・フィリップス(SF MoMA名誉キュレーター)、瀧本幹也(写真家)、ポール・グラハム(写真家)、安村崇(写真家)、ユーリン・リー(台湾高雄市立美術館ディレクター)、リネケ・ダイクストラ(写真家)の7名である。優秀賞を受賞したのは、江口那津子「Dialogue」(ポール・グラハム選)、遠藤祐輔「Formerly Known As Photography」(安村崇選)、幸田大地「background」(瀧本幹也選)、小林寿「エリートなゴミ達へ」(サンドラ・フィリップス選)、田島顕「空を見ているものたち」(ユーリン・リー選)、中村智道「蟻のような」(リネケ・ダイクストラ選)、𠮷田多麻希「Sympathetic Resonance」(椹木野衣選)で、そのうち中村智道の作品がグランプリに選出された。
父親の死の前後の写真と、子供の頃に蟻の胴体をちぎって殺した記憶とを重ねあわせるように提示する中村の作品をはじめとして、身近な他者の生と死とを微視的に拡大し、重層的に組み上げていく写真のあり方は、日本の「私写真」の重要なファクターであり、1990年代から2000年代初頭にかけての「写真新世紀」の出品作品にもよく見られた。今回の優秀賞受賞者でいえば、アルツハイマー型認知症の母と歩いた街の記憶を辿る江口那津子や、亡くなった母親のポートレートの延長として、彼女が愛していた植物を撮影した幸田大地の作品もそうである。先ほど「先祖返り」という言い方をしたのはそのためだが、むろん当時と比較すれば写真家たちの表現意識はより高度なものとなり、厚みを増している。次年度の「写真新世紀展」がどうなるのか、この傾向が続いていくのかどうかが気になる。
2019/11/14(木)(飯沢耕太郎)
川崎祐 写真展「光景」
会期:2019/11/13~2019/11/26
銀座ニコンサロン[東京都]
川崎祐は2017年の第17回写真「1_WALL」展でグランプリを受賞し、2018年にガーディアン・ガーデンで開催した個展「Scenes」で同年度の木村伊兵衛写真賞の最終候補に選出された。今回の銀座ニコンサロンでの個展「光景」は、滋賀県在住の家族(父、母、姉)とその周辺の環境と出来事を撮り続けてきた一連の作品の最終ヴァージョンというべきものであり、赤々舎から同名の写真集も刊行している(装丁・寄藤文平+岡田和奈佳)。
「みずうみのそば、数年前に改修されたばかりの駅を中点に見立てて描いた半径三キロメートルの想像上の円」のなかに見えてくるのは「いかにも地方近郊と呼ぶにふさわしい、ありふれていて、退屈な、日本のどこにでもありそうなとくべつここでなくてもいい風景」である、と川崎は写真展に寄せたテキストに記す。展示されているのは、たしかにその通りとしか言いようのない写真群なのだが、彼の視点の置き方、被写体の切り取り方は、けっしてありきたりというものではない。身近な家族を撮るときに、主観性と客観性のバランスをどのように保つのかというのはかなりの難題なのだが、川崎はぎりぎりのところで紋切り型になりそうな解釈を回避し、彼らの生の輪郭をじわじわと浮かび上がらせていく。彼が家族に対して抱いている違和感とシンパシーとがない交ぜになった感情は、多くの人たちが抱え込んでいるものであり、誰もが当事者として直面せざるをえない状況といえる。「日本のどこにでもありそうなとくべつここでなくてもいい風景」だからこそ、川崎の眼を借りてその場面に直接的に対峙しているような切実なリアリティを感じてしまうのだ。今回の展示では、シークエンス(連続場面)を効果的に使って、観客を写真の世界に引き込んでいく工夫も凝らされていた。
川崎は一橋大学大学院言語社会研究科修士課程でアメリカ文学を研究していた。そういう経歴を見ても、言葉に並々ならない執着を抱いているのではないだろうか。写真集には幼年時代からの記憶を辿って「かつて私が憎しみ、出ていったこの郊外の街と家」について綴った「小さな場所へ」と題する長文のエッセイがおさめられていた。次作はより言葉の比重を上げてもよさそうだ。なお、本展は12月5日〜12月18日に大阪ニコンサロンに巡回する。
2019/11/13(水)(飯沢耕太郎)