artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
ガエ・アウレンティ《カタルーニャ美術館》
[スペイン]
ガエ・アウレンティが改修を手がけた《カタルーニャ美術館》へ。教会から剥がした壁画を空間インスタレーションのように展示するロマネスクのコレクションはすごい。巨大な古典主義建築の内部にロマネスクとゴシックを挿入するプログラムゆえに、様式の矛盾を調停する入れ子建築的なリノベーションが興味深い。カタルーニャ美術館では企画展「INSURRECCIONS」を開催し、物理的なレベルから社会・政治レベルまで、蜂起、反乱などに関するアートを紹介する。
2017/03/29(水)(五十嵐太郎)
ホセ・ルイ・セルト《ミロ美術館》
[スペイン]
ポストモダン的な《カタルーニャ美術館》に対し、ホセ・ルイ・セルトによるジョアン・ミロ財団は、品がよいモダニズムによるストレートな展示空間で、美術家と建築家の相互信頼さえ感じられる。弧を描く採光装置が屋根に並ぶ特徴的な外観、床レベルをゆるやかなスロープでつなぐシークエンスなど、清々しい。ミロ財団では、企画展「Self-organization」で1960年代以降の、自らが主体となる語りを回復するアートの流れをたどる。
2017/03/29(水)(五十嵐太郎)
《サグラダ・ファミリア》
[スペイン]
学部生のとき以来だから、27年ぶりにバルセロナに滞在した。午後に到着し、まず、《サグラダ・ファミリア》に行くと、すさまじい行列で驚かされる。前は天井もなかったが、巨大なコンクリートの塊が並ぶ土木現場のように、正面のファサードも着工している。最新技術を取り入れた新しい部分はやはりどこかヘンで、ガウディのオーセンテイシティという意味ではもう微妙な建築だが、さまざまな人の思惑と新技術が入り、別の意味で大変に興味深いヘンなモニュメントに変貌している。
写真:左上3枚、右上2枚=《サグラダ・ファミリア》、左下=再建された付属学校、右下=逆さ模型
2017/03/28(火)(五十嵐太郎)
菅野ぱんだ「Planet Fukushima」
会期:2017/03/28~2017/04/10
新宿ニコンサロン[東京都]
菅野ぱんだの出身地である福島県伊達市は、東日本大震災で大事故が発生した福島第一原子力発電所から北西に約50キロ、宮城県との県境に位置している。強制避難の対象地域からは外れたものの、市内には放射能のホット・スポットが点在し、自主避難をした住民もいた。今回の展示は、彼女が震災直後から撮り続けた、同地域の写真群をまとめたものだ。
人物あり、建物あり、出来事ありの、やや雑多にさえ思える写真を撮り続けるうちに、菅野は視界が3つの領域に分断されているように感じてきたのだという。「遠景(風景)」と「近景(人間)」とのあいだに、「中景(放射能という異物)」が挟み込まれているのだ。そして同時に、過去─現在─未来という滑らかな時間の流れも、震災という大きな裂け目によって分断されることになる。そのような認識を表現するために、彼女はフレームの中に大小さまざまな複数の写真をおさめ、それらのフレームをさらに縦横に連ねていく展示方法をとることにした。それは、観客の固定した視点を攪乱するとともに、彼女が体験した時空間のズレや違和感を共有させるために、とてもうまく働いていた。
展示された写真のなかで特に強く印象に残るのは、何度も登場してくる放射能の線量計のクローズアップと、汚染土の処理施設の異様な景観を、上空から俯瞰して捉えたカットである。福島の出来事を特定の地域だけの問題として押し込めるのではなく、ミクロからマクロまで伸び縮みする視点を設定し、まさに宇宙規模の「Planet Fukushima」のそれとして捉え直そうとする意欲的な取り組みといえる。またひとつ、「震災後の写真」の優れた成果が、しっかりと形をとってきた。写真集としてもぜひまとめきってほしい。なお、本展は4月27日~5月3日に大阪ニコンサロンに巡回する。
2017/03/28(火)(飯沢耕太郎)
大﨑のぶゆき「マルチプルライティング」
会期:2017/03/28~2017/04/22
ギャラリーほそかわ[大阪府]
絵具で描画されたイメージが溶け出し、おぞましくも美しく崩壊していく映像作品。一見何も描かれていない白いキャンバスだが、下地の上に特殊調合したエマルジョン塗料でイメージが描かれ、経年変化による黄変によって潜在的な像が未来において結像する「見えない絵画」。それらの傍らに置かれた円形の鏡の作品《観測者》は、刻々と変わる「現在」の相をその表面に映し出す。
大﨑のぶゆきの本個展において、いずれも問題となっているのは、「表面」とその複数性(表面の物質的な同一性とイメージの現われの複数性)であり、「絵画」というメディウムに不可逆的な時間性と現象性を導入することで、それは映像的な皮膜へと近づいていく。大﨑の関心はおそらく、「過去/現在/未来」という時間のあり方とともに、メディウムの差異とその撹乱にある。描画が溶け出す映像作品《untitled album photo 2017-01》は、何かの行事の記念に撮られた、晴れ着を着て自宅の傍に立つ男の子のスナップ、つまり「写真」を下敷きにしている。つまりその描かれたイメージは、「写真」を原資としつつ、描画材の流出という操作を仕掛けることで、イメージが変容/消滅する時間性を胚胎させている。像の輪郭がぼやけ、曖昧に溶けだしていく様子は、時とともに薄れゆく記憶のプロセスの追体験を思わせるとともに、個人の生のかけがえのない一瞬が、匿名的で交換可能な「記念写真」「家族スナップ」の集合的な性質へと溶解していく過程も想起させる。一方、溶け出した絵画をスチルとして撮影した写真作品も制作されている(変容/消滅へと向かう時間の流れの一時停止)。また、上述の「見えない絵画」は、数十年後、100年後の未来において徐々に像が現われるものであり、可視化すなわち「現像」までの時間が極端に引き伸ばされた「ネガ」であると言えるだろう。このように、いずれの作品も、絵画/写真/映像という媒体の性質を互いに含み持つことで区分を無効化し、判断を宙吊りにしてしまう。
本個展は、これまで個別のシリーズとして発表されてきた大﨑の試みに新たな試みを加えて編集的な視点から見せるものであり、複数のシリーズの並置によって、メディウムが相互浸透する界面と時間の関わりに大﨑の関心軸があることを示していた。
2017/03/28(火)(高嶋慈)