artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

フランス絵画の宝庫 ランス美術館展

会期:2017/04/22~2017/06/25

東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館[東京都]

パリ東部に位置するシャンパーニュ地方の最大都市ランスの美術館から、17-20世紀の絵画を借りてきたもの。シェイクスピア劇を絵画化した画中劇ともいうべきドラクロワの《ポロニウスの亡骸を前にするハムレット》と、同じくシェイクスピア劇に取材したシャセリオーの《バンクォーの亡霊》は、どちらも小さいながら佳品だ。驚いたのは、革命期に描かれたダヴィッドによる《マラーの死》がひっそりと展示されてること。でもこれは再制作のひとつで、オリジナルはベルギーにあるという。そして最後のセクションに展示されているのが、レオナール・フジタの作品の数々。フジタは晩年ランスにノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂を建立して内壁を飾り、死後この礼拝堂に夫人とともに(40年以上の時差はあるが)埋葬された。その縁で、フジタの旧蔵作品や資料など2千点余りがランス美術館に寄贈されたというわけ。1920-30年代の作品もあるが、大半は戦後、それも最晩年の礼拝堂を飾る壁画のための素描や習作で占められている。それらには聖性も崇高さも感じられず、ただキッチュでグロテスクなばかりだが、なにがあろうと筆を折らず最後まで描き続けた点は見事というほかない。

2017/04/21(金)(村田真)

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チン・ユウジュウ「軍歌と恋歌」

会期:2017/04/12~2017/04/23

元・淳風小学校[京都府]

「台湾語の流行歌が日本語の軍歌に改変された」という史実を基に、歴史、ジェンダー、文化的アイデンティティへの考察を織り交ぜた秀逸な映像作品。左側の画面には、無表情のまま遠くへ視線を送る若い女性たちが映され、右側の画面には、海から見た陸地、都市の河辺、波の打ち寄せる浜辺、そして穏やかな水面が淡々と映し出されていく。日本と台湾両国で撮られた、女性たちと水辺の情景の上に流れるのは、懐かしさとエキゾティックな印象を与える甘美な歌声である。逢えない恋人への思慕を月夜に歌う台湾語の歌が流れた後、同じメロディに乗せて日本語で歌われるのが、戦死の覚悟を決めて海の向こうへ出征した夫への想いと、「泣きはせぬ」という軍人の妻としての覚悟である。この2つの歌は、1933年に作曲された台湾語の流行歌「月夜愁(月の憂愁)」が、日本統治時代の台湾で1937年に始まる皇民化教育によって、日本語の軍歌「軍夫の妻」へと変えられた史実に基づく。
「恋歌から軍歌へ」というこの改変は、享楽的な世相を軍国主義へと塗り替えるとともに、支配者の言語へと同一化する、という二重性をはらむ。だが重要なのはそれだけではない。この改変から透けて見えるのは、巧妙に内包されたジェンダー的な意味づけである。「軍夫の妻」の歌詞は、確かに軍国主義的な要請によるものだが、「遠く隔てられた男女の別れ」という切ないシチュエーションを女性の視点から歌う、という点では元の「月夜愁」と同質である。元の流行歌の甘いメロディが勇壮な歌詞には向かなかったという事情もあるかもしれない。だが、単に勇壮で愛国的な歌詞に書き換えるよりも、恋愛感情を通して「国への忠誠」にすり替える操作は、より巧妙なジェンダー的仕掛けをはらむ。そこには、「国に従う夫」に従う妻、つまり国家>夫>妻というヒエラルキーが内包されているのであり、この歌を聞き、口ずさむ女性は、恋愛イデオロギーと国家イデオロギーの両方への奉仕を要請されているのだ。
だが、チン・ユウジュウの本作に登場する女性たちは、どこか彼方へと視線を送るものの、その口元は閉じられている。現在の日本、台湾の風景の中に佇む彼女たちは「歌ってはいない」のだ。そのことに気づいたとき、本作は、文化の改変・剥奪とジェンダーの巧妙な利用という歴史への注視とともに、それへの抵抗点として立ち現われるはずだ。


チン・ユウジュウ《軍歌と恋歌》

2017/04/21(金)(高嶋慈)

伊島薫「あなたは美しい」

会期:2017/04/15~2017/06/11

京都場[京都府]

80年代より広告やファッション写真で活躍しつつ、アーティストとしての発表も行なう伊島薫の作品は、「写真、女性、美」をめぐって極めて両義的である。代表作の《死体のある風景》シリーズは、ハイブランドの華やかな衣装をまとった女優やモデルが、都市空間や室内、自然の中で「死体」を演じる様子を撮影したものだ。このシリーズには、以下のような「解釈」が可能だろう。完璧なメイクと最先端のファッションを提示する商業写真に、タブーとされる「死(死体)」を組み合わせることで、ファッション写真のフォーマットを利用しつつ、それが規範化する「美/醜」の基準それ自体を撹乱する。「ファッション写真/凄惨な事故現場写真」といった写真ジャンルの区別を無効化させる。あるいはここに、目を閉じて横になる女優をひたすら写した《眠る 松雪泰子》を加えるならば、それらの写真は、「眠り」と「死」の写真における弁別不可能性を示唆し(写真=瞬間的な死)、写された光景がフィクションかどうかを判断する手立ては、写真それ自体には備わっていないことを自己批判的に提示する……。
こうした「美/醜」の基準や写真ジャンルの自明性への疑い、写真というメディアへの自己参照性を読み取ることが可能な一方で、これらの伊島作品は、写真におけるジェンダー的な視線の不均衡をより増幅・強化させる両義性を構造的にはらんでいる。「殺される無垢で美しいヒロイン」というイメージは、死体写真よりも映画のスチルを想起させる。《死体のある風景》シリーズは、シンディ・シャーマンの《アンタイトルド・スチル・フィルム》をより過激化かつ美的化かつ性化を推し進めたものなのであり、しばしば大きく脚を開き、争った痕跡のように衣服をはだけ、低いアングルから窃視的に写される彼女たちは、「眠れる美しい死体」として男性の欲望の視線に供されているのだ。そこで再生産されているのは、西洋絵画における「眠る女性」という主題とエロティシズムの結びつきであり、「死体を演じている」という設定を取り払えば、被写体が取るポーズはポルノグラフィックなそれと同質である。
本展で展示された《あなたは美しい》もプロブレマティックな作品だ。超高精細のデジタルカメラで撮影された女性のヌードが、10mを超える巨大な画像へ引き伸ばされ、目の前に屹立する。一枚の画像を拡大するのではなく、9分割して撮ったそれぞれを引き伸ばすことで、より高精細な画像が得られるのだという。ここでは、作品との距離の取り方によって、「見えるもの」が変化する。全体が一望できる十分な距離を取れば、無防備でありながらも非人間的なスケールで威圧感を与える、モニュメンタルな大きさのヌード像が出現する。9分割のフレームは、まるで檻の中に閉じ込められているような印象を与える。一方、作品に近寄ると、修正を一切加えていない画像には、剥がれたネイル、毛穴、吹き出物の跡、体毛の一本一本までが精密に写し取られており、「ヌード写真=美」という(男性の視線にとっての)価値観を裏切っていく。
だがそれは、デジタル修正が常識となったTVや広告写真に対して、「ありのままの肯定」を訴える素朴なものだろうか。「メディアに流通する、修正された美」へのアンチを提示したいなら、ここまで巨大化させる必然性はどこにあるのか。むしろ本作は、「超高精細のデジタル巨大写真」というアート市場における「商品」と、「女性ヌード」という「商品」という2つの魅惑的な商品をハイブリッドに掛け合わせ、対峙する者を「見ること」の終わりのない往還のうちに誘い込もうとするのだ。

2017/04/21(金)(高嶋慈)

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2017 山城知佳子「土の唄」

会期:2017/04/15~2017/05/14

堀川御池ギャラリー[京都府]

山城知佳子の近作から、最新作《土の人》までを紹介する個展。全体を貫く通奏低音として、「声と身体」というキーワードを強く感じた。
《あなたの声は私の喉を通った》(2009)は、サイパン戦の生き残りである老人が、目の前で家族が自決した光景について震え声で語る証言を、山城が身体的にトレースする映像作品。男性の語りに合わせて口の動きを模倣する山城の顔が映し出されるが、初めは「口パク」状態で、被せられた男性の声が違和感を与える。涙を流しながら口を動かし続ける山城の姿は、耐えがたい痛みに共感しているのか、他者の記憶を物質的な「声」として身体に入れる苦痛に耐えかねているのか。だが終盤、山城の顔の上にうっすらと男性の顔の映像がオーバーラップすると、2人の声は重なり合い、ラストは山城自身の「声」だけが響く。他者の声の憑依、記憶の共有の困難さと苦痛、そして「声」の回復と継承への可能性を感じさせる作品だ。


山城知佳子《あなたの声は私の喉を通った》 2009
© Chikako Yamashiro, Courtesy of Yumiko Chiba Associates

また、類似した歴史を持つ沖縄と韓国の済州島で撮影された《土の人》(2016)は、あいちトリエンナーレ2016でも実見したが、本展で強く感じたのは、多言語の声による音響世界の多層性だ。ブツブツと発せられ、死者の声も混ざっているのではと思わせる、聞き取りがたい呟き。歌うような節回しで繰り返される、韓国語の響き。沖縄戦の記録映像に被せてヒューマンビートボックスが発する爆撃音は、いつしか、クラブで爆音でかかるダンス音楽の熱狂へと変貌する(それは、戦争とポップカルチャーという「アメリカ」の二面性を聴覚的に示す)。「ボゴぼごボゴぼご……」という呟きは、言葉遊びを駆使して音響的に戯れながら、地下の湧き水のような豊かな水脈を持つ「母語」について語る:「ことばを持たない自立はない」。
長い眠りから目覚めた「土の人」たちが通り抜ける地下空間や洞窟は、「母語」の空間、共同体的な記憶の空間であり、それは鍾乳洞の内部を撮影した写真作品《黙認のからだ》(2012)において、内臓や乳房といった肉体や胎内のイメージとして差し出される。「他者の声の憑依と記憶の継承」から始まる山城の試みは、「声が通りぬけ、蓄積される器」としての身体を、沖縄の鍾乳洞という現実の場所やそれがはらむ歴史と結びつけながら、より神話的なスケールと深度へと拡張してきたのである。そうした作品どうしの関連性と展開の厚みが十分に示された、充実した個展だった。


山城知佳子《土の人》 2016
© Chikako Yamashiro, Courtesy of Yumiko Chiba Associates

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2017 公式サイト:http://www.kyotographie.jp/

関連レビュー
未来に向かって開かれた表現──山城知佳子《土の人》をめぐって|荒木夏実:フォーカス


2017/04/21(金)(高嶋慈)

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堤加奈恵タペストリー展 Forest of gretel

会期:2017/04/18~2017/04/23

同時代ギャラリー[京都府]

綴織などによる大きなタペストリー作品7点が並んでいる。一番大きな作品は《Forest of gretel》といって、童話の『ヘンゼルとグレーテル』から着想したものだ。深い森の中に一軒家があり、森の木々の中には人間の顔を持つものもいる。土葬された曾祖母を偲んだ《還るところ》、粘菌に着目した《生命力》、画廊の柱にへばりつくように展示された《moss》など、生命や死生観をテーマにしたものが多い。織物は一つひとつの作業を気が遠くなるほど繰り返してつくられるが、大作を7点も仕上げてきた作者の熱意には感心せざるをえない。

2017/04/19(水)(小吹隆文)