artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

ヤングムスリムの窓:撮られているのは、確かにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?

会期:2023/02/19~2023/03/04

京都精華大学サテライトスペースDemachi[京都府]

「ヤングムスリムの窓」は、イスラームが専門の研究者、映像作家と、日本に暮らすヤングムスリムたちが、映像制作を通して協働する学際的なアートプロジェクトである。参加した20代のヤングムスリム3名は、イスラーム圏出身の親のもと日本で生まれ育った2世、改宗した日本人と、多様な背景を持つ。本プロジェクトの特徴は、ヤングムスリム3名が当事者それぞれの視点や関心から映像制作を行なうと同時に、その制作プロセスを映像作家がドキュメントし、さらに双方に対して研究者がカメラを向けてインタビューするという、視線の多層的なレイヤーにある。「映像」を介して、映像の専門家と非専門家、異なる文化的背景、立場、世代の者たちの複数の視点が交差する。タイトルが示唆するように、「窓」とは「視線のフレーム」の謂いであり、「撮る視点」と「見る視点」の双方を含む。そこには、「他者」を一方的に視線の対象としてきた文化人類学や、「マジョリティの日本人」自身の視線に対する批評も含まれるだろう。

まず、ヤングムスリム3名が制作した映像作品は、出自や文化的背景に加え、三者三様の個性やキャラの違いが際立つ。長谷川護は、イスラームに改宗した経緯を生い立ちとともにまとめた。東京の下町で銭湯を営む実家で育ち、宗教上の理由で銭湯を利用できないムスリムがいると知ったこと。インドネシアでのホームステイなどムスリムとの交流、大学でのゼミ、断食体験を経ての改宗。メッカへの巡礼で得た共同体意識。プレゼンのようにまとめた資料からも、まじめな人柄がにじみ出る。作品タイトルの《湯けむりの中で》は、日本社会で可視化されにくいムスリムの存在のメタファーでもある。

一方、トルコ人の父と日本人の母を持つエルトゥルール・ユヌスは、「ムスリムあるある」ネタをユーチューバー風でノリの良い映像にまとめた。《仕事中の金曜礼拝》では、都内で会社員生活を送るなか、昼休みを利用してモスクへ寄り、身を清めて礼拝する様子が、実況風に紹介される。当事者、特にこれから社会に出る若者に対しては、生き方のヒントになり、普段ムスリムと関わりのない日本人にとっては、「ムスリムも普通に日常生活を送っている」ことを肩肘張らずに示す。

また、パキスタン出身の両親を持つアフメド・アリアンは、コンサル会社の経営、大学での哲学研究、芸術という「3つの顔」について、自己省察的な映像にまとめた。本人もインタビューで語る通り、「わかりやすくプレゼンする」というより、「自分の根幹を忘れないための、自分自身にとってのしおり」のようなものだという。

このように、写真や文章を交えて展示された3名の映像作品は、「日本社会で不可視化されがちな、ムスリムの日本人」とその多様性を当事者の視点から提示した点で意義がある。ただし、3名とも「20代のムスリム男性」であり、「ムスリム女性の不在」という点で「マイノリティの中でさらに見えにくいマイノリティ」に言及されていないことが惜しまれた。



会場風景


一方、「視線の交差」をメタ的に組み込むのが、映像作家の澤崎賢一によるドキュメント《#まなざしのかたち ヤングムスリムの窓:撮られているのは、確かにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?》である。映像制作中のヤングムスリム3名を撮影・インタビューした映像と、映像や視線についての省察的なナレーションが交互に展開する。ここで重要なのは、「カメラを構えるヤングムスリム」を入れ子状に映すと同時に、「ヤングムスリム自身が撮った映像」も密かに混在している点である。ひとつのポイントが、長谷川の作品に登場していた「メッカの巡礼」の映像に、「撮る/撮られる」についての語りが重なるシーンだ。深夜のメッカ、巡礼者の人混み、広場を取り囲むまばゆい高層ビル群。「カメラを構える私の姿は、現地のメディアに撮影され、レンズの向こう側で好奇の眼差しで見つめられているのかもしれない」と語り手は想像する。



会場風景




澤崎賢一《#まなざしのかたち ヤングムスリムの窓:撮られているのは、確かにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?》(2023) 映像スチル


映像を撮る「私」は、「撮られる」ことで「彼/彼女」という三人称に変換され、レンズや画面の「向こう側」には常に「他者」が存在する。あるいは、「向こう側」という距離感こそが「他者」を発生させてしまう。だが、「向こう側」が存在することさえ想像できないこともある。カメラのフレーム、画面を眼差す視線のフレーム、表象として固定されてしまうことと、外部への通路。「窓」のメタファーもまた、多重的に交錯する。当事者の発信、当事者と研究者とアートの協働、映像それ自体についてのメタ的な考察など、多様な意義をもつプロジェクトだった。なお、今後、プロジェクト全体を記録したドキュメンタリー映画の公開も予定されている。


公式サイト:https://project-yme.net/exhibition2023/

2023/02/19(日)(高嶋慈)

FACE展2023

会期:2023/02/18~2023/03/12

SOMPO美術館[東京都]

11回目を迎える公募展、今回は1,064人の応募作品から81点の入選作品を展示。そのなかからグランプリはじめ9点の受賞作品が選ばれた。入選倍率は約13倍、そのうち受賞倍率は9倍という狭き門。さぞかし秀作が集まっていると思いきや、漫画やイラストみたいな薄っぺらい絵や、どこかで見たことあるような図柄、子どもが描いたような拙い作品が目につく。あれ? こんなもん?

確かに野口玲一審査員長がカタログのなかでいうように、「ここには美術史が語ってきた時代様式も、前衛のグループも存在しない。メインストリームに乗る必要も、時代遅れを気にすることもない。描くことにおいて何でもありの自由な選択肢を手に入れているのだ」とは思うけど、それで果たして「絵画についていま、私たちは何と豊かな世界を手に入れたのだろう」といえるだろうか。学芸会ならいざ知らず、100号前後の大画面に油絵具なり岩絵具なりを使って描くのだから、曲がりなりにも後世に残るような普遍的な絵画を目指すもんじゃないの? 豊かになったどころか、むしろ薄く、貧しく、刹那的になった気がするんだけど。

と思ったら、藪前知子審査員のコメントがしっくりきた。若い世代の作家たちは、ひとつの選択肢として「今この現在の瞬間における、鑑賞者との共感のためのプラットフォームとして絵を描く」というのだ。なんとなく感じてはいたが、改めてうなずいた。そうか、彼らは絵画に普遍性なんか求めていないんだ。紙に落書きでもするように、いや、SNSで発信するように描いているのか。それで「いいね!」をもらえればいいのか。もはや絵画に対する考え方というか、構えが違うらしい。そう思ってカタログで出品作家の生年を調べてみたら驚いた。入選者の最年少が16歳の現役高校生というのもすごいが、最年長は74歳の独立美術協会会員で、かつて安井賞展にも入選したことがあるというからびっくり。この公募展には年齢制限がないんだね。ちなみに今回は8歳から87歳までの応募があったという。「FACE展」は懐が深い。

いやそういうことではなく、作家の生年と作品図版を比べてみたら、年齢と絵に対する構えにはほとんど相関関係がないらしいことがわかって愕然としたのだ。マンガチックなドローイングが中年男の作品だったり、渋い日本画の作者が21世紀生まれだったりして、まさに野口氏のいうとおり。なんだかぼくだけが時代についていけてないだけなのかもしれない。がっくし。でも藪前氏が個人賞に選んだ柳澤貴彦の《bonfire》をはじめ、受賞作品の多くが構築性の高い作品なので少し安心した。

ほかに言及すべき作品はいくつかあるけど、1点だけ触れたい。桃山三の《花兜─ただ春を乞う》だ。画面全体が花兜を被った幼児たちや色鮮やかな花の装飾で丁寧に、オールオーバーに覆われている。まずそれだけでも目を惹くが、少し離れてみて驚いた。背景に赤茶けた戦車が浮かび上がってきたからだ。花兜の幼児たちが戯れているのは廃戦車の上なのだ。そもそも兜は戦いで使う武具であり、これが子どもまで犠牲に巻き込む戦争に対する抵抗の表現であることはタイトルからも想像できる。「共感のためのプラットフォーム」はこういうものであってほしい、とジジイは思うのだ。


公式サイト:https://www.sompo-museum.org/exhibitions/2022/face2023/

2023/02/17(金)(内覧会)(村田真)

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バンコク・アート・ビエンナーレ2022と国立美術館

会期:2022/10/22~2023/02/23

バンコク芸術文化センター、JWDアートスペース、サイアム博物館ほか[タイ、バンコク]

バンコク市内の複数の会場を用いて、コロナ禍を意識したバンコク・アート・ビエンナーレ2022が開催されていた。メイン会場は、ニューヨークのグッゲンハイム風に吹き抜けのまわりに螺旋スロープの空間をもつバンコク芸術文化センター(BACC)である。外壁にはアマンダ・ピンボディバキア(Amanda Phingbodhipakkiya)の作品が大きく描かれていた。BACCでは、館内の上層を会場に用い、タイの作家が多いのは当然として、ダミアン・ジャレ(Damien Jalet)、キムスージャ(Kimsooja)、片山真理ほか、ロシア、モンゴル、ドイツ、オーストラリア、イタリア、インドネシアなどから参加しており、思いのほか賑やかだった。そして身体の痛みを伴う作品が目立つ。ビエンナーレの全体テーマは「カオス」であり、35ヵ国から参加している。なお、入場は無料だが、街中でも分散展示していた。今回、全会場をまわる時間はなかったが、おそらくワット・ポーやワット・アルンなどの有名寺院では、作品を見るために、拝観料を支払う必要がある。またサムヤーン・ミッドタウンセントラル・ワールドなどのショッピングモールでは、屋外に作品を展示していた。



バンコク芸術文化センター




バンコク芸術文化センター(左はキムスージャ)




バンコク芸術文化センターの吹き抜けの展示


倉庫のフロアを転用した本格的なギャラリー、JWDアートスペースは、作品数が多く、第2会場というべきエリアだった。ここは東南アジア、アフリカ、ギリシア、ロシア、南米の作家でかため、辺境へのまなざしが強い。サイアム博物館も、ビエンナーレの街なか会場として活用され、敷地内の別棟や屋外に宮島達男らの作品を展示している。なお、これは1922年に竣工した洋風近代建築を保存した施設だが、展示はインタラクティブな仕かけが多い分、内容は薄い。もっとも、タイ的とは何かという全体テーマの設定は興味深く、もしこれを日本でやったら、どうなるか考えさせられる。

ところで、タイの美術の流れを知るために訪れた国立美術館は、西洋の様式建築の外観をもつ。ここは改修中のため入れないエリアが多かったため、こじんまりとした展示だったが、1949年に開催された政府主導の美術展を起点に、アートの洋風化と近代化の流れを紹介していた。またアートの教育活動に貢献したイタリア人の彫刻家シン・ピーラシーに関する企画展を開催していた。




JWDアートスペース。Nengi Omukuの作品展示風景




ビエンナーレ 会場風景、サムヤーン・ミッドタウンの屋外展示。Maitree Siriboonの作品




宮島達男の作品 展示風景、サイアム博物館




シン・ピーラシーの作品 展示風景、国立美術館


公式サイト:https://bab22.bkkartbiennale.com

2023/02/16(月)〜2023/02/19(木)(五十嵐太郎)

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台

会期:2022/11/12~2023/02/19

東京都現代美術館[東京都]

植民地主義、移民、ジェンダーといった問題について、多様なバックグラウンドをもつ人々が即興的に対話する場をしつらえることで、どう過去と現在を重層的に接続させることができるか。オランダ出身のウェンデリン・ファン・オルデンボルフの国内初個展である本展は、こうした多層的・多声的な彼女の作品群を貫く問題意識が空間構成とともに十全に提示された、秀逸な個展だった。

オルデンボルフの制作手法の特徴は、「シナリオを設定せず、協働的なプロセスそのものを見せる、開かれた映像制作」といえるものだ。キャストとして参加するのは、さまざまな専門分野の研究者、アーティスト、ジャーナリスト、ミュージシャン、建築家、看護師といった多様な職能に加え、文化的背景、世代、国籍、ジェンダーの異なる人々。撮影や録音スタッフの姿もしばしば映像内に映り込み、時に彼ら自身も発言し、公開撮影の場合は偶然居合わせた観客も対話の参加者となる。また、対話の場をしつらえる重要な仕掛けが、テーマに関わる歴史的建築物を「舞台」に用いる点と、歴史的テクストの「(複数人による)朗読」を組み込む点である。

本展では、代表作から新作を含む6点が展示された。2チャンネルの映像インスタレーション《マウリッツ・スクリプト》(2006)では、17世紀半ばに旧オランダ領ブラジルの総督を務めたヨハン・マウリッツ・ファン・ナッサウに焦点を当て、書簡などの資料を元に構成した脚本を、キャストたちが朗読する。オランダでは人道主義的だったと評価されているマウリッツだが、例えば奴隷船の劣悪な環境を改善すべきという提案が、「商品価値の下落や死亡=経済的損失への対策」「ポルトガルとの競合に勝つ」といった経済合理主義によるものであったことが浮き彫りになる。一方、もう片面の映像では、植民地時代に描かれた先住民や「混血」の子どもの表象をどう分析するかを起点に、対話は複数の方向へ枝を広げ、当事者として直面する現代オランダ移民社会のさまざまな差別構造や矛盾について語られていく。対話の「舞台」は、マウリッツの旧居であるマウリッツハイス美術館の「黄金の間」であり、金箔の装飾が施された空間は、植民地支配の(負の)遺産を「視覚的な声」として示す。



《マウリッツ・スクリプト》(2006)「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展(東京都現代美術館、2022年)展示風景[撮影:森田兼次]



《偽りなき響き》(2008)では、オランダ領東インド(現在のインドネシア)での植民地統治の道具として、ラジオ放送が利用された歴史を扱う。歴史資料の朗読と交錯する対話では、近代化=ヨーロッパ化やナショナリズムの形成にラジオが果たした政治的役割から、「“多様性”は政治的に無垢である限り、ビジネスの手段として歓迎される」といった現代社会批判が展開する。その合間には、約100年前にインドネシア独立運動家が記した挑発的なマニフェストを、移民系オランダ人のラッパーが朗読するシーンが挿入される。撮影の舞台は、作中で「コンクリートの聖堂」と評されるかつてのラジオ放送局。大聖堂のような建築は国家や大企業の権威をまさに体現する。



《ふたつの石》(2019)「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展(東京都現代美術館、2022年)展示風景
[撮影:森田兼次]


そして、日本で制作された新作《彼女たちの》(2022)では、1920~40年代に活躍した2人の女性作家、林芙美子と宮本百合子のテクストの朗読を通して、ジェンダーと政治、フェミニズムと戦争協力、クィアな欲望の表出/抑圧についての対話が展開する。流行作家となり、戦時中は軍や新聞社の依頼で占領各地に派遣された林芙美子の小説『ボルネオダイヤ』では、日本の軍政が「ダイヤモンドの価値を知らない日本の女のこころ」にたとえられ、共にボルネオ島を占領した日本とオランダの植民地支配の歴史がつながり合う。ロシア文学者でレズビアンの湯浅芳子と同棲生活を送った宮本百合子は、湯浅との往復書簡の朗読・分析を通して、セクシュアリティを「後ろめたいもの」として封印していたことが当事者によって痛みとともに語られる。一方、林の別の小説の朗読では、「男性の視線」を借りて、ヒロインに対するクィアな欲望が語られていることが分析されていく。撮影の舞台は、林自身が設計した自邸や図書館など複数の場所にまたがり、ゆっくりとスクロールする左右2つの画面は境界が混ざり合っていく。また、しばしば左右両面に同一人物が分裂的に映り、「セクシュアリティの葛藤」といった内面的矛盾や、「女性の自立と戦争協力」の二面性の同居といった政治的状況について視覚化する。



《彼女たちの》(2022)「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展(東京都現代美術館、2022年)展示風景
[撮影:森田兼次]


こうしたオルデンボルフの映像作品では、「朗読テクストを持つ手」がしばしば映される。「歴史的テクストとの対話」と「参加者どうしの対話」という二重の手続きによって、過去と現在を重層的に接続させる手法は、シャンカル・ヴェンカテーシュワランと和田ながらが共同演出した『「さようなら、ご成功を祈ります」(中略)演説『カーストの絶滅』への応答』(2022)とも共通する。この演劇作品では、80年以上前に差別的なカースト制度の撤廃を訴えた活動家による、実際には読み上げられなかった演説原稿が、インド人2名と日本人の俳優によって朗読される。同時に、クリエーション過程での対話が再現的に挿入され、社会的な役割分担を強いる抑圧的な構造がジェンダーの権力構造とも重ねられ、「日本人の演出家、俳優、そして『聴衆』役を担う観客自身が、どうこのテクストと向き合えるか」が上演されていた。



《彼女たちの》(2022)「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」展(東京都現代美術館、2022年)展示風景
[撮影:森田兼次]


オルデンボルフの作品の場合、観客は「聴衆」役として多声的な「声の再現」と「対話」の場に直接立ち会うわけではない。だが、それを補うのが、作家自身による秀逸な空間構成だ。広場や劇場のような階段状の座席。作品どうしは、壁で隔てられながらも、開口部や窓を通してつながり合う。「私たちを隔てているのは何か?」について比喩的に問うと同時に、「自ら能動的に動いて視点を変えることで、“向こう側”が見えて、風通しが良くなり、“あちらとこちら”が接続される」ことを空間的・身体的に体感させる。また、撮影の舞台の選択と緻密なカメラワークも映像ならではの利点だ。「舞台セット」として用いられた歴史的建築物もまた、「さまざまな政治性や権力性が書き込まれる重層的なテクストであり、器である」ことを示しつつ、緻密に練られたカメラワークによって、「強固な器」としての建築を解体していく手つきも秀逸だった。

公式サイト:https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/Wendelien_van_Oldenborgh/

関連レビュー

「さようなら、ご成功を祈ります」(中略)演説『カーストの絶滅』への応答|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年01月15日号)

2023/02/11(土)(高嶋慈)

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佐喜眞美術館収蔵品展 ─戦争と戦争の狭間で─

会期:2022/11/16~2023/02/27

佐喜眞美術館[沖縄県]

沖縄県那覇市内から高速バスに乗って宜野湾市に向かう。2月というのに半袖で十分。バスを降りてアスファルトが割れ切った坂道を進んだ。陽の光をたっぷり浴びて力強く育った草木の間をマングースのようなネズミのようなものがガザガザガザガザ走り回る。しばらくして爽やかな住宅地と宜野湾中古車街道を抜け、佐喜眞道夫による佐喜眞美術館に到着した。

館内に入るとすぐに沖縄を代表する報道カメラマンの國吉和夫の作品が目に飛び込んでくる。米軍強制土地接収に反対する反基地運動を主導した阿波根昌鴻が自ら開設した私設反戦資料館である「ヌチドゥタカラの家」の前で撮影された肖像写真。大きくへこみのある沖縄戦当時の水筒。窓からの光を受けて写真が反射する。それぞれの写真には短いが端的な被写体についての説明書きがあって、読んだり見たりしながら、美術館の回廊を進む。窓のないホワイトキューブに入っていくと、兵士として送り出した息子、孫もまた戦死したドイツの版画家で彫刻家であるケーテ・コルヴィッツによる《女と死んだこども》をはじめとした喪失の様と、日本の版画家で彫刻家の浜田知明による自身の戦争の体験を描いた「初年兵哀歌」シリーズが向かい合うように並ぶ。奥には丸木位里に丸木俊……といずれも佐喜眞美術館の収蔵作品だ。

佐喜眞美術館のコレクションは、館長である佐喜眞の先祖の土地が米軍基地となり、そこで毎年国から支払われることになった地代で形成されている。企画文にあるとおり、本展における「戦争と戦争の狭間で」というのは、第二次世界大戦とロシア・ウクライナ戦争といった現状のみならず、作者たち、企画者たちが向き合ってきた戦争の狭間にある「いのち」のかけがえのなさにまっすぐに静かに向かい合うことを助けてくれる、この場そのものであった。屋上からみえる空は広く、直下にある米軍基地との境界を示すフェンスはところによって錆び、それを越えた路傍をマングースのようなものが駆け抜け、風が吹きつけた。

入館料は800円でした。


会場写真


会場写真



公式サイト:https://sakima.jp/exhibition/e2230571.html

2023/02/11(土)(きりとりめでる)

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