artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

佐伯祐三 自画像としての風景

会期:2023/01/21~2023/04/02

東京ステーションギャラリー[東京都]

昨年開館した大阪中之島美術館の佐伯祐三コレクションのお披露目展、といっていいだろう。なにしろ出品作品の4割近くを同館のコレクションが占めるのだから、開催は東京が先だけど、展覧会の主体は大阪だ。

昨年、その大阪中之島美術館の開館記念展で佐伯作品を見たら、近くに展示されていたヴラマンクとユトリロの作品にそっくりだったので唖然とした。いや似ているのは周知の事実だが、美術館がここまであからさまに見せつけていいのかと驚いたのだ。佐伯は30歳という短命、パリでの客死、表現主義的な激しいタッチ、自画像からうかがえるイケメンぶりで、日本では根強い人気を誇るが、海外ではエコール・ド・パリの末席にも入れてもらえないローカルな猿真似画家、といった評価なのか。

展示は、自画像を集めたプロローグ、日本での風景画、2度にわたるパリ滞在時の風景画、パリ郊外のヴィリエ=シュル=モランでの風景画、そして最晩年のエピローグという構成。肖像画や静物画もあるが、大半は風景画なので、描いた場所によって違いが現われている。佐伯というとパリの風景画が知られているせいか、やはり日本を描いた風景画には違和感を感じてしまう。それはおそらく、吹けば飛ぶような木造家屋の脆弱さや、遠近感を出しにくい街並みの無秩序さが、堅牢な油彩のマチエールにはそぐわないからだろう。例外的に油彩風景画として成り立っているのは、量塊感のある高架の開口部から向こう側の街景が見通せる《ガード風景》(1926-1927頃)くらい。余談だが、それにしてもなんと電信柱の多いこと。数点ある《下落合風景》(1926頃)はいずれも電信柱が主役といっていいくらい。こうした電信柱のある風景が近代日本美術を特色づけていることは、数年前の「電線絵画展」で検証されたが。

そんな日本の風景に比べれば、パリの街並は絵になる。逆にいえば、どこを描いても陳腐な絵葉書にしかならない。そんなパリのありふれたイメージを広めたのがユトリロであり(絵葉書を元に描いていた)、日本ではそれに影響を受けた佐伯祐三だったのは当然かもしれない。それでも佐伯はユトリロよりは絵画への意識が高かったのか、次第に風景の奥行きや建物の量塊感より正面性や平面性に傾いていく。あえて遠近感をなくし、建物の壁や窓を正面から描くようになる。壁が絵肌と同化し、そこに看板やポスターなどの文字が表われてくる。佐伯といえばこのころのイメージがもっともよく知られたものだろう。

だが、これらの文字は明らかに画面から浮いている。風景に同化した線ではなく、あくまでアルファベットとして読めるように書かれているからだ。ペインティングというよりライティング、いやペインティングの上にライティングしている、といってもいい。これでは鑑賞者は見るよりも読むほうに熱中してしまいかねない。佐伯自身もそれに気づいたのか、文字は短期間で影を潜めていく。

そしてたどりついたのが最後の2点、《黄色いレストラン》(1928)と《扉》(1928)だ。どちらも正方形に近い画面に扉を正面から捉えたもので、とりわけ絶筆ともいわれる《扉》は人物もなく、モノクロームに近い彩色でほぼ正方形の黒い扉のみを描いている。いわゆる佐伯らしい作品ではないが、これが佐伯にとっての究極の絵画といえるのではないか。あえて比べれば、マティスの《コリウールのフランス窓》(1914)か、マレーヴィチの《黒い正方形》(1915)か……。もっともどちらの作品も《扉》より10年以上早いけどね。ただし、この作品に限らないが、装飾的な額縁が画面を邪魔しているのが残念なところ。額縁をなくすか、シンプルなフレームに代えれば、もう少し佐伯の先進性が伝わるんじゃないかと思うんだけど。


公式サイト:https://saeki2023.jp/

関連レビュー

電線絵画展─小林清親から山口晃まで─|村田真:artscapeレビュー(2021年04月15日号)

2023/02/08(水)(村田真)

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金サジ『物語』

発行所:赤々舎

発行日:2022/12/22

在日コリアン三世という自らの出自を踏まえて、独自の神話的世界を構築し、写真作品として提示する仕事を続けている金サジが、最初の写真集をまとめあげた。ジェンダー、植民地主義、戦争、自然破壊、文化的軋轢など、さまざまな問題を抱え込んだ老若男女が展開する壮大なスケールの「物語」は、複雑に絡み合いつつ枝分かれしていく。それだけでなく、大地、樹木、岩、さらに火や水などの神話的形象が随所にちりばめられ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの西洋絵画のイコノロジーまでが取り入れられている。野心的なプロジェクトの成果といえるだろう。

ただし、それぞれのヴィジョンに対する思いが強すぎて、それが金の神話世界においてどのような位置にあるのか、どう展開していくのかが伝わりきれていないように感じた。彼女自身の短いテキストが写真の間に挟み込まれ、巻末には早稲田大学教授の歴史学者、グレッグ・ドボルザークによる解説「トリックスターとトラウマ」が付されているのだが、それでもなかなかうまく全体像が形をとらない。もしかすると、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』のような、長大なテキストが必要になるのかもしれない。また、主人公にあたるようなキャラクターが成立していれば、「物語」としての流れを掴みやすかったのではないだろうか。

とはいえ、金の写真家としてのキャリアを考えると、これだけ豊かなイマジネーションの広がりをもち、しかもそれらを説得力のある場面として定着できる能力の高さは驚くべきものだ。日本の写真界の枠を超えて、国際的なレベルでも大きな評価が期待できそうだ。

関連レビュー

金サジ「物語」シリーズより「山に歩む舟」|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年12月15日号)

2023/02/05(日)(飯沢耕太郎)

六本木クロッシング2022展:往来オーライ!

会期:2022/12/01~2023/03/26

森美術館[東京都]

六本木クロッシングは、森美術館が3年に一度、日本の現代アートシーンを総覧する企画として2004年に始めた展覧会である。7回目の本展は、4名のキュレーターにより、「日本の現代アート」という枠組を越えた22組の作家によって構成されている。多文化性や脱植民地的思考、メディアテクノロジーによって再編される時空間の認識、個人の属性に対する眼差しなど、私たちの認識に働きかける試みは、現在ならではの問いを内包している。と同時に、展覧会という制度のなかでこの問いをいかに切実なものにできるのかは、一考の余地がある。主催者・企画者の意図と作品がもつメッセージとの関係、作品のなかで取り扱われている主題と作家との関係、これらの関係性を表象することによって鑑賞者との間に生じるパワーバランスの問題を避けて通ることができないからだ。

こうした問いへの応答として際立っていたのは、石内都の「Moving Away」(2015-2018)シリーズである。展覧会の中盤に位置づけられた石内の作品は、極めて私的な色合いが強い。金沢八景(神奈川)のスタジオ周辺を被写体とし、彼女の生地でもある群馬県桐生市へ移転するまでのスナップショットが大きくプリントされ、配置されている。その一点ずつを見ていくと、カーテンに触れるような仕草が収められたショットは、彼女が同年代の女性たちの手や足を撮影した「1・9・4・7」を彷彿とさせ、芽の伸びた玉ねぎは、「Mother’s」で母の遺品が撮影された台所を思い起こさせる。そして、カーブミラーに小さく写る控えめなセルフポートレートとは対照的に、43年にわたりプリントを行なったという暗室からは、米海軍基地の街、赤線跡を撮影した「絶唱、横須賀ストーリー」「連夜の街」など、粒子の粒が際立つような初期の白黒写真が連想されるのだ。「引っ越し」という過去からの切断を主題としながらも、石内が取り組んできた数々の主題を想像させることにより、鑑賞者が自らに向き合うマインドセットが立ち上がる。



石内都《Moving Away》(2015-2018)、Cプリント
「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」森美術館(東京)展示風景、2022-2023年[撮影:木奥惠三 Courtesy:サードギャラリーAya(大阪)]


一方、やんツーの新作《永続的な一過性》(2022)は、自律搬送ロボットが多様なオブジェのなかから一つを選択して運び、展示・撤去を繰り返すというインスタレーションで、物流倉庫が着想の源にあるという。あらゆるものを「輸送する」という地平において等価に扱う物流のシステムをシミュレーションすると同時に、展示行為になぞらえた作品である(名和晃平の《Untitled》(プロトタイプ)を含め、借用された3点が「多様なオブジェ」の一部として扱われている点も、見どころのひとつであろう)。やんツーの作品ではオブジェが台座に設置された際にのみ、鑑賞者がキャプションを読むことができる。ロボットにより作品が搬入されるのを待ち、作品と解説を対照しながら鑑賞する行為もまた、システムに組み込まれているというアイロニーとも読み取れる。興味深かったのは、前述のキャプションや解説はすべてQRコードで読み込む仕組みとなっており、展覧会会場の外部から書き換え可能であることを示唆している点だ。やんツーによるシステムの模倣は、展覧会という制度を相対化し、パロディとして扱うことにとどまらない。私たちの生活に浸透するメディア技術を想起させ、グローバル資本主義下の監視や検閲、規格化・均質化といった問題への問いとしても機能している。





やんツー《永続的な一過性》 (2022)、ミクストメディア、サイズ可変
制作協力:浅井飛人、稲福孝信(HAUS Inc.) 作品提供:個人蔵(トム・サックス《グレーのケリー・バッグ》)、EVERYDAY HOLIDAY SQUAD(《tappi君》)、名和晃平(プロトタイプ〈Untitled〉)
「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」森美術館(東京)、展示風景、2022-2023年[撮影:木奥惠三 画像提供:森美術館]


今回の展示で気になったのは、共同企画者一同によるステートメント以外に明確な章立てを示していない点であろう。その狙いはどこにあるのか。タイトルの「往来オーライ!」は誰に向けられた言葉なのか。本稿では2人の作品を対比的に解釈することを試みたが、会期中複数の解釈が生まれるところに往来の可能性が託されているに違いない。


公式サイト:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/roppongicrossing2022/index.html

2023/02/04(土)(伊村靖子)

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クリストとジャンヌ=クロード “包まれた凱旋門”

会期:2022/06/13~2023/02/12

21_21 DESIGN SIGHT[東京都]

2021年9月18日から10月3日にかけて、パリのエトワール凱旋門がシルバーブルーの布地に包まれた。1961年に構想されたクリストとジャンヌ=クロードによるプロジェクト《包まれた凱旋門》が、60年越しで実現した瞬間である。本展では、彼らのこれまでの活動を踏まえ、プロジェクトの計画から実現までを追うことができるように構成されていた。アーティストによるドローイング(複製)、マケット、記録写真のスライドショー、布とロープによる部分的再現のほか、プロジェクトに関わったさまざまな立場の人々のインタビュー映像などが展示されていた。



[写真:吉村昌也]


《包まれた凱旋門》は本来、2020年4月に予定されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で延期され、その間にクリストが他界した。したがって、作家二人が不在のもと、プロジェクトが実現したという経緯がある。興味深いのは、作家不在の状況において、残された作品や資料から考える行為のなかに、彼らが実現しようとした一過性の表現の真価を問う要素が含まれていた点だ。つまり、《包まれた凱旋門》は作家によって構想された後、その意志を引き継いだ他者によって読み解かれ、実現される一連のプロセスを通じて、第二の生を受けたように思われたのである。

《包まれた凱旋門》の構想が私たちを魅了する理由のひとつに、「モニュメントの不在」が挙げられるだろう。とりわけ、エトワール凱旋門は、パリの度重なる都市計画を象徴するモチーフである。戦勝記念碑としてナポレオン・ボナパルトの命により1806年に建設を開始されて以降、1921年には第一次世界大戦中の無名戦士が眠る墓として知られ、聖火が灯される場所でもある。世界有数の観光地として知られるエトワール凱旋門が布によって覆い隠され、一時的に不在となる現象は、会期中に訪れた何百万人もの観客によって目撃されただけでなく、メディア・イベントとしても機能している。筆者自身、2021年の《包まれた凱旋門》を直接観ることは叶わなかったが、高さ50m、幅45m、奥行き22mの巨大な新古典主義様式の建築がすっぽりと覆われた様相を写真で見て、凱旋門のモニュメントとしての政治性を改めて強く認識すると同時に、書き換え可能な未来を想像させる爽やかなヴィジョンとして記憶していた。加えて、本展を通して、作家のドローイング(複製)からそのヴィジョンを読み解き、実現可能なプランに落とし込むまでのさまざまな工程に関わった人々の証言を知ることで、そこにメタ・モニュメントとも言うべき共通の関心で結ばれた共同体が生まれたことに気付かされたのだ。



[Photo: Wolfgang Volz ©2021 Christo and Jeanne-Claude Foundation]


このプロジェクトが実現するまでには、プロジェクトを推進するディレクターはもとより、凱旋門の保護管理を担うフランス政府機関、フランス文化財センター(CMN)の協力が欠かせなかった。そして、凱旋門を傷つけずに布を取り付け、墓所で日々行なわれる儀式や聖火を妨げることなく進行するために、布やロープの選定、制作、支持構造の設計や施工を計画する構造家や風洞試験やロープワーク工事の専門家が関わっている。布の設置には70人のクライマーが参加し、展示の運営にはボランティアスタッフが携わった。設置のプロセスから完成までのすべての工程を演出し、展示期間中の週末はエトワール広場周辺の車両交通を完全に止めて歩行者天国とすることまでを含めて、細部に至るまでこのプロジェクトを完成させようという強い意志が漲っていた。



[Photo: Benjamin Loyseau ©2021 Christo and Jeanne-Claude Foundation]



公式サイト:https://www.2121designsight.jp/program/C_JC/

2023/02/01(水)(伊村靖子)

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渡邊耕一「毒消草の夢 デトックスプランツ・ヒストリー」

会期:2022/12/20~2023/02/05

Kanzan Gallery[東京都]

渡邊耕一は前作『Moving Plants』(青幻舎、2015)で、日本原産の植物、イタドリ(虎杖)が、ヨーロッパ各地で繁茂している状況を追ったシリーズを発表した。やはり植物をテーマとした今回の「毒消草の夢 デトックスプランツ・ヒストリー」では、江戸末期の本草学者、馬場大助が、自著に「コンタラエルハ(昆答刺越兒發)」という不思議な名前で記している植物を求めて世界各地に足を運んだ。その足跡は香港、インドネシア、オランダ、日本(和歌山)、メキシコにまで及び、その謎の植物の姿が、少しずつ明らかになっていった。

風景写真、図鑑等の複写、映像などを使って、その旅の過程を示した展示もしっかりと組み上げられている。同時期に青幻舎から刊行された同名の写真集とあわせて見ると、体内の毒を消すデトックスの効果があるというこの薬草の分布の状況が、立体的に浮かび上がってくる。渡邊の写真家としての視点の確かさと、知的な探求力とが、とてもうまく結びついた写真シリーズといえるだろう。

イタドリや「コンタラエルハ」は、植物学者ではない限り、単なる雑草として見過ごされてしまいがちな植物である。だが、それらを別な角度から眺めると、歴史学、人類学、経済学などとも関連づけられるユニークな存在のあり方が見えてくる。渡邊が次にどんなテーマを見出すのかが興味深い。彼のアプローチは、植物以外の対象でも充分に通用するのではないかと思う。


公式サイト:http://www.kanzan-g.jp/watanabe_koichi.html

関連レビュー

渡邊耕一「Moving Plants」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年04月15日号)
渡邊耕一「Moving Plants」|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年01月15日号)

2023/01/31(火)(飯沢耕太郎)