artscapeレビュー
前谷開「Drama researchと自撮りの技術」
2017年01月15日号
会期:2016/12/14~2016/12/20
Division[京都府]
写真家・前谷開の本個展は、先立って上演された舞台作品に前谷自身が写真家として出演し、舞台上で同時進行的に「撮影」した写真を展示するというものだ。この舞台作品『家族写真』は、演出家・振付家と写真家が協働して制作する企画『わたしは、春になったら写真と劇場の未来のために山に登ることにした』のひとつとして、2016年8月に上演された(この上演の詳細は、以下のレビューをご覧いただきたい)。
『家族写真』は、舞台中央に置かれた簡易テーブルの周囲に、男女の出演者6名が集い、「父親」役が自分の死と生命保険について語ったり、激しい動きのソロやデュオが展開される作品だった。そこで描かれる「家族」「家庭」は、テーブルが象徴する一家団欒の温かい光景とは裏腹に、不協和音や痙攣的身体に満ちた不穏なものだった。前谷はこの「家族」の一員を演じつつ、時折、舞台の端に身を引いては三脚に据えたカメラを操作し、三脚を移動させ、内部と外部、見られる客体と見る視線を行き来しながら撮影を行なっていたが、上演時にはそれらのイメージ自体を見ることはできなかった。
本展で展示された「上演時に撮影された写真」は、奇妙な印象を与える。「自撮り」と題されているように、それらはすべて、ダンサーたちが激しく交差する舞台上でただ一人、静止してこちらを見つめる前谷自身の「セルフ・ポートレイト」なのだ。前谷は、自分が写らない舞台上の光景を「外から」撮影していたのではなく、レリーズ(カメラのシャッターボタンに取り付けるケーブルで、遠隔でシャッターを切るための道具)を舞台上で操作し、密かに「自撮り」を行なっていたのである。これらの写真を眺めていると、舞台の鑑賞時と見え方の印象が反転する。生の舞台の鑑賞時、私の眼は動いているダンサーに注がれ、前谷の地味な動作は後景に退きがちだった。一方、写真では、ダンサーの激しい動きはブレやボケとなって曖昧に希薄化し、フレームアウトして「意味の中心」から退くのに対して、こちらを見つめ返す前谷の存在が突出して前景化し、「異物」として見えてくる。
加えてここでは、舞台のフレームと写真撮影のフレームという、視線のレイヤーの二重化が起きている。自撮りという身体的行為の介在によって、舞台のフレームの正面性が撹乱され、解体され、瞬間的な凍結がいくつもの切断面に切り分けていく。連続した時間の流れはコレオグラフィの構成という必然性から切り離され、「シャッターの遠隔操作による自撮りのタイミング」という別の必然へと転送される。
この転送の結果として切り取られたイメージでは、作為と偶然、静止した一瞥と運動の軌跡の揺らぎが一つの画面内に奇妙に同居する。そこでは、「予め厳密に振付られた動き」がむしろ予測不可能なブレやノイズのように現われ、「振付られた身体の運動」というフィクションが曖昧なブレによって意味を解消させられていく一方で、その合間を縫って遂行された「撮影(自撮り)」が、強い作為性をまとって屹立し、写真という別のフィクションの機制を浮かび上がらせる。前谷は、舞台という「一方的な視線に晒される場」に自らも立ちながら、しかし同時にこちらを「見つめ返す」ことで眼差しの主体性を取り戻そうとする。そのとき、写真の中の前谷の眼差しを受け止め、(疑似的に)視線を交わす観客は、フレームの解除と再設定、眼差しの主体性の回復という企てに立ち会う目撃者として、共犯関係に巻き込まれるのだ。
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2016/12/20(火)(高嶋慈)