artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

羽永光利アーカイブ展

会期:2016/07/23~2016/08/20

AOYAMA|MEGURO[東京都]

写真家・羽永光利(1933-1999)の写真アーカイヴを見せる展覧会。前衛芸術、舞踏、演劇、世相というテーマに整理された約400点の写真が一挙に展示された。会場の白い壁面を埋め尽くすかのように並べられたモノクロ写真の大半は、戦後美術史の現場を物語る貴重な写真ばかりで、たいへん見応えがあった。
平田実であれ酒井啓之であれ、美術の現場を記録する写真家には「時代の目撃者」という常套句が用いられることが多い。だが、とりわけ60~70年代に撮影された羽永の写真を見ていると、目撃者というより「共犯者」という言葉のほうがふさわしい気がしてならない。よく知られているように、ハイレッド・センターの《ドロッピング・イベント》(池坊会館屋上、1964年10月10日)の写真は、あらかじめ待機していた羽永が確信的に撮影したものだ。また今日、反芸術パフォーマンスとして歴史化されている、ダダカンこと糸井貫二の《殺すな》(1970)やGUNの《雪のイメージを変えるイベント》(1970年2月11日、15日)の記録写真も羽永が撮影したものである。それらの作品の作者がパフォーマンスを実行したアーティストであることは疑いないにしても、本来的にはその場かぎりで消え去ってしまう身体行為を写真として定着させた写真家の働きを過小評価すべきではない。事実、羽永によって撮影された糸井とGUNのパフォーマンス写真は、いずれも雑誌のグラビアに掲載されることで、その決定的なイメージを大衆に届けることに大いに貢献したのである。今日誰もが思い浮かべることができる、そのようなパフォーマンスのイメージは、羽永の視線と手に由来しているのだ。
翻って今日、はたして「共犯者」としての写真家はありうるだろうか。戦後美術の現場を記録した羽永の写真群を見ているうちに気づかされるのは、それらと今日における写真家の位置性と役割との偏差である。かつての写真家は、アーティストとして自立していないわけではなかったにせよ、美術家の作品を記録する役割を負わされていた。やや極端な言い方だが、写真家は美術家に従属していたと言ってもいい。だが今日の写真家は、「フォトグラファー」という呼称が定着しているように、アーティストとしての評価を高め、美術家の作品を記録する役割から相対的に解放されつつある。それは、端的に言えば、美術家自身が写真を撮影する役割を担うようになったからだろうが、より根本的には、写真そのものの性質が変容してしまったからではなかろうか。今日の写真は、とりわけデジタル技術の普及以降、大量に撮影することが可能となった反面、一回性の強度が失われ、「カメラ」に写真と動画の撮影機能があらかじめ組み込まれているように、相対的には映像との境界が曖昧になりつつある。パフォーマンスの現場を記録するという点で言えば、写真より映像のほうがふさわしいのかもしれないが、視覚的イメージの強度という点で言えば、羽永が盛んに撮影していた60~70年代に比べると、今日の写真は著しく脆弱になっていると言わざるをえない。羽永のような決定的なイメージを見せる写真家も、あるいはまた、そのような決定的なイメージに足る肉体表現を見せるパフォーマーも、今日のアートシーンのなかから見出すことは難しいからだ。
本展で発表された羽永の写真の背後に垣間見えたのは、写真による記録という表現行為に揺るぎない価値が与えられていた時代である。逆に言えば、そのように価値が機能していたからこそ、反芸術パフォーマンスはあれほどまでに強力な肉体表現を繰り返すことができたのだろう。今後、私たちはある種の信頼関係に基づく共犯関係を取り戻すことはできるのだろうか。

2016/08/17(水)(福住廉)

12 Rooms 12 Artists 12の部屋、12のアーティスト UBSアート・コレクションより

会期:2016/07/02~2016/09/04

東京ステーションギャラリー[東京都]

スイスのグローバルな金融グループ、UBSは現代美術作家を長年にわたって支援してきたことで知られている。本展は、その3万点に及ぶというUBSアート・コレクションから厳選して、東京ステーションギャラリーの展示スペースを「12の部屋の集合に見立て」、12人の作家の作品、約80点を展示するという試みである。荒木経惟、アンソニー・カロ、陳界仁、サンドロ・キア、ルシアン・フロイド、デイヴィッド・ホックニー、アイザック・ジュリアン、リヴァーニ・ノイエンシュヴァンダー、小沢剛、ミンモ・パラディーノ、スーザン・ローゼンバーグ、エド・ルーシェイという出品作家の顔ぶれは、まったくバラバラだし、何か統一したテーマがあるわけではない。たしかに現代美術の多面性をよく示しているといえそうだが、このままではあまりにも場当たり的、総花的といえるだろう。
だが、写真という表現メディアを、12人中5人(荒木、ホックニー、ジュリアン、ノイエンシュヴァンダー、小沢)が使用しているという点は注目してよいだろう。台湾の歴史と社会状況を繊維産業の女性労働者の視点から再構築しようとする、陳の映像作品《ファクトリー》(2003)を含めれば、じつに半数のアーティストが写真/映像を最終的な発表の媒体としている。絵画や彫刻などの伝統的表現が、20世紀後半以降、急速に写真/映像化の波に覆い尽くされていったことが、くっきりと見えてくる展示といえそうだ。
特に注目すべきなのは、「国内未発表」という荒木経惟の連作「切実」(1972)である。荒木はこの頃、広告代理店の電通に勤務しながらゲリラ的な作品制作・発表の活動を続けていたのだが、UBSの購入時は「The Days We Were Happy」と題されていたというこの7点組のシリーズも、その時期の彼の表現意欲の高まりをよく示している。広告写真として撮影されたと思しき、タレントが登場するカラーTV、電気毛布などの写真を、まっぷたつに切断し、セロハンテープでつなげるという行為には、高度消費社会のイメージ操作を逆手にとって、批評的な写真表現につなげていこうとする荒木の意図が明確に形をとっている。『ゼロックス写真帖』(1970)や『水着のヤングレディたち』(1971)とともに、荒木の初期作品として重要な意味を持つ仕事が、このような形で出現してきたことは、驚き以外の何物でもなかった。

2016/08/16(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00035936.json s 10127496

高倉大輔 作品展「monodramatic/loose polyhedron」

会期:2016/07/29~2016/08/18

Sony Imaging Gallery[東京都]

デジタル化によって画像合成が自由にできるようになると、1人の人物が多数のポーズをとった画像を、同一画面に合成するような作品が簡単に制作できるようになった。高倉大輔のように、もともと演劇に関わっていた写真家にとって、演出力が問われるこの種の写真は、自家薬籠中の物なのではないだろうか。漫画喫茶、映画館、コインランドリー、公園などの日常的な空間に、さまざまなポーズの若者たちをちりばめるように配置していく「monodramatic」のシリーズには、その才能がのびやかに発揮されており、清里フォトアートミュージアムが公募する2015年度ヤングポートフォリオに選出されるなど、評価が高まりつつある。
今回のSony Imaging Galleryでの個展では、その「monodramatic」に加えて新作の「loose polyhedron」のシリーズが展示されていた。モデルに自分自身の喜怒哀楽について「感情のバランスチャート」を書いてもらい、それにあわせて表情をつけ、「レンズからの距離感」を調整して撮影した写真を、モノクロームの画面にはめ込んでいくというポートレート作品である。こちらも、アイディアをそつなく形にしているのだが、そのバランス感覚のよさが逆に物足りなく思えてしまう。感情を喜怒哀楽という4種に固定したことで、そこからはみ出してしまうような部分がカットされ、どの写真も同じように見えてくるのだ。モデルが、若い男女(おそらくほとんどは日本人)に限定されていることも、全体にフラットな印象を与える要因になっているのだろう。
高倉に望みたいのは、あらかじめ結果が予想できてしまうような手際のよさを、一度捨て去ることだ。持ち前の演出能力を発揮する場を、より大胆に拡張していってほしい。例えば、海外で撮影するだけでも、画面のテンションは随分違ってくるのではないだろうか。

2016/08/15(飯沢耕太郎)

開発好明:中2病展

会期:2016/07/16~2016/09/19

市原湖畔美術館[千葉県]

某女子大の教え子3人と千葉県の高滝湖畔にピクニック。東京駅から高速バスで市原鶴舞に出て、路線バスに乗り換えて湖畔美術館へ。ここは2年前の「中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス」の拠点になったところ。そのとき《モグラTV》で人気を博したアーティスト、開発好明の個展が開かれている。タイトルの「中2病」とは、性や自我や社会意識に目覚める思春期特有の背伸びしがちな言動を自虐的にいう造語で、そういえばぼくも中2のころっていちばん思い出したくない時代だったなあ。同展は日替わりのイベントやサービスがあり、今日は中学生の格好をしていけば入場無料になるというので、制服姿で来るように指示したら、みんな本当にセーラー服とかで来たのでタダで入れた。ちなみにぼくも黒いズボンに白いシャツ姿。全員で写真を撮られ、どこかにアップされた模様。
会場には巨大なポロック柄シャツやビュレン柄パンツ(まるでカーテン)、校長の顔写真に落書きした《らくがお校長先生》、墨が塗られた文章を想像で復元する《黒塗りテスト》など、おもに学校ネタの新旧インスタレーション約50点が並ぶ。来場1万人目の人にはグァム旅行が当たる! というサービスもあるが、会期なかばにして1,530人ほど。1万人にはほど遠い(もちろん1万人も入らない前提での企画だが、万一入ったら嬉しい誤算)。どの作品もポップでダサくて手づくり感にあふれ、幾何学的でオシャレな美術館に対する批評になっている。それは館外の作品により顕著で、エントランス前には竹を舟形に組んだインスタレーションの下に洗濯機が置いてあり、洗濯物が干してある。これは《洗濯船》という作品で、自由に服を洗っていいというが、だれがこんなとこで服を脱いで洗濯するか。ちなみに「洗濯船」とは、ピカソやモディリアーニがアトリエを構えていたというパリの伝説的な安アパート「バトー・ラヴォワール」のこと。前庭にはやはり角材を組んでハンガーを吊るした《青空クローク》が設置されてるが、だれがこんなとこに服や荷物を預けるか。これらは夏休みにピクニックがてら美術館を訪れるスノッブなプチブルへの強烈な批判であろう。いやー痛快っつーか。帰りは再び高速バスで東京駅に出て、近くの飲み屋に入ったら年齢を確認された。そうだ、みんな中学生の格好してたんだ!

2016/08/13(土)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00035873.json s 10127519

ヤノベケンジ シネマタイズ

会期:2016/07/16~2016/09/04

高松市美術館[香川県]

喫茶店・城の眼で休み、高松市美術館の「ヤノベケンジ シネマタイズ」展へ。彼の主要作が集合しているが、これまで多くのプロジェクトの初登場を見てきたので懐かしい。今回の目玉は、林海象、永瀬正敏らとの映像プロジェクトと、ウルトラに対峙する風神の塔である。あいちトリエンナーレ2013では、館内で水を使うことがどうしても許可されず、ヤノベさんに諦めてもらったが、ここでは思い切り実現している!

2016/08/12(金)(五十嵐太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00036145.json s 10127020