artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
感覚のあそび場─岩崎貴宏×久門剛史
会期:2016/07/26~2016/09/11
京都芸術センター[京都府]
日用品を解体・再構築して繊細なオブジェをつくり、見立てを駆使して意味やスケール感の転倒をはかる岩崎貴宏と、音や光といった現象をモノや空間と組み合わせ、時空間をそっと揺さぶるようなインスタレーションを手がける久門剛史の2人展。
岩崎の《アウト・オブ・ディスオーダー(コラプス)》は、綿棒、歯ブラシ、タオル、モップなど「白い清掃用具」を組み合わせて、植物が生い茂る野原の中に「壊れた送電塔」が佇む風景のジオラマをつくり上げている。不気味な樹海のように繁茂する植物群、壊れて放置されたままの送電塔…。福島第一原発周辺地域を否応なく連想させるこの風景は、病的な白さで覆われている。その「白」は、原子力エネルギーの「クリーンさ」への皮肉とも、「汚染の除去」を待つ土地への示唆とも受け取れる。また、壁面に展示された《コンステレーション》は、一見すると、夜空にきらめく無数の星の美しい写真に見えるが、白い光の粒をルーペで拡大して見ると、コンビニやファーストフード店、クルマのメーカー、大手小売チェーン店の極小のロゴが混ざっている。小麦粉やベビーパウダーがバラ撒かれてできた一つひとつの点は、民家の灯りだろうか。「夜の日本」を上空から俯瞰した電力消費図が、極めて美しい星空の光景とのダブル・イメージとして重ね合わせられている。
一方、久門の《after that.》は、鏡面でできた時計盤を何十個も組み合わせてミラーボールを形づくり、光の反射が空間全体に乱舞する幻想的なインスタレーション。動かないはずの部屋そのものが回転し、あるいは足元の床がぐるぐると回っているような錯覚に全身が包まれる。また、和室を使った《Quantize #6─明倫小学校 和室─》では、ライトの明滅や、雨音や鈴虫の鳴き声などの音響的仕掛けが施されることで、室内/外の境界や時間感覚を撹乱させ、空間内に独自のリズムが息づいていく。
見立てや擬態といった空想的な手法によって、電力の消費という問題を日常生活へ直結させる岩崎と、「いまここ」の確かさを揺るがし、複数の知覚的現象へと開いていく久門。想像力のそれぞれのありようが対照的に示された展示だった。
2016/07/31(日)(高嶋慈)
プレビュー:S/N×ガールズ・アクティビズム パフォーマンス『S/N』記録映像上映&トーク
会期:2016/09/10~2016/09/11
同志社大学 寒梅館 クローバーホール[京都府]
7月、古橋悌二《LOVERS》の展示期間中に行なわれたダムタイプの作品上映会で、『S/N』(1994年初演)を見逃した方へ。ゲイや障碍者といったマイノリティの問題を扱っていると考えられることが多い『S/N』だが、記録映像の上映と合わせたトークでは、「女性のセックスワーカー」「パスポートコントロールを受ける日本人女性」が作中に登場することに焦点を当て、「女性」という視点から『S/N』を考える予定だという。弾丸のように繰り出されるテクストの投影、モノローグ/ダイアローグの挿入など、情報量の多さとあいまって、見る度に新たな思考を触発する『S/N』とともに拝聴したい。
2016/07/31(日)(高嶋慈)
第32回東川町国際写真フェスティバル2016
会期:2016/07/26~2016/08/31
東川町文化ギャラリーほか[北海道]
今年も北海道東川町で「東川町国際写真フェスティバル」(通称、東川町フォトフェスタ)が開催された。もう32回目ということで、長年にわたって企画を継続してきた行政や町の方々の地道な努力に敬意を表したい。このところの充実した展示を見ると、その成果は着実に実を結びつつあるのではないかと思う。
東川町文化ギャラリーで作品展(7月30日~8月31日)が開催された第32回東川賞の受賞者たちの顔ぶれは以下の通りである。海外作家賞:オスカー・ムニョス(コロンビア)、国内作家賞:広川泰士、新人作家賞:池田葉子、特別作家賞:マイケル・ケンナ(イギリス→アメリカ)、飛騨野数右衛門賞:池本喜巳。毎回、東川賞のラインナップを見ていて思うのは、審査員(浅葉克己、上野修、笠原美智子、楠本亜紀、野町和嘉、平野啓一郎、光田由里、山崎博)が、広く目配りをしつつ、新たな角度から写真の世界を見直していこうとする人選をしていることだ。今回の受賞者でいえば、オスカー・ムニョスや池田葉子がそれにあたる。写真以外にも版画、ドローイング、映像作品、彫刻など多様な媒体で仕事をするアーティストであるムニョスの、画像や文字が水に溶け出したり、手のひらに溜まった水に自分の顔が映り込んだりする作品は、ある意味、東洋的な無常観を表現しているようでもある。池田葉子の三次元空間を、ボケや光の滲みのような写真的なフィルターを介して二次元平面に置き換えていく、多彩で軽やかな手つきもとても印象的だった。彼らのような、あまり日本では評価されてこなかった写真作家にスポットを当てていくことに、東川賞の大きな意義があると思う。
受賞作家作品展以外にも、さまざまな催しが行なわれた。そのなかでは、昨年に続いて廃屋になった商店の建物で開催された「フォトふれNEXT PROJECT」展(南町一丁目ギャラリー)が面白かった。「フォトふれ」(フォトフェスタふれんず)というのは、過去のフォトフェスタにボランティアとして参加したメンバーたちのことで、今年の展示にはフジモリメグミ、伯耆田卓助、堀井ヒロツグ、正岡絵里子が参加している。このうち正岡絵里子は、やはり今年のフォトフェスタの企画である「赤レンガ公開ポートフォリオオーディション」にも参加し、グランプリを受賞した。10年間かけて、生と死のイメージを共存させた厚みのある作品世界を作り上げた正岡をはじめとして、それぞれ「NEXT」が大いに期待できそうだ。同会場では、やはり「フォトふれ」の一人で、東川町にアーティスト・イン・レジデンスで参加した石川竜一(2015年に第40回木村伊兵衛写真賞を受賞)も作品を出品していて、クオリティの高い展示空間になっていた。
2016/07/30(土)(飯沢耕太郎)
アートアワードトーキョー丸の内2016
会期:2016/07/25~2016/08/03
丸ビル1階マルキューブ+3階回廊[東京都]
昨年度の美大の卒業・修了制作展から選抜した20作品を展示。吉田桃子は木枠に張らないキャンバス作品2点の出品。どちらも映像の一部を拡大して描いたものらしいが、画像がキャンバスのやや上に寄り、下部に余白を残しているため、絵具の滴りが何十本もの線条として流れている。水谷昌人は小さなキャンバス作品3点。キャンバスの上に絵具を何層にも塗り重ねて表面を平らにし、中央に縦長の穴を掘って赤系の絵具をチューブから絞り出してるため、まるで内臓がはみ出してるように見える。どちらも描かれた画像より、媒体・形式に目を向けている点で異彩を放つ。ふたりとも京都市立芸大大学院というから、この傾向は偶然ではないだろう。まったく違うが、渡邊拓也はカナヅチ、ペンチ、ハサミ、懐中電灯、ハンガーなど思いつく限りの道具をテラコッタでつくって並べている。すべて茶褐色でフリーハンドの造形のため、道具の機能性より形態の多様性に目が向く。
2016/07/30(土)(村田真)
指田菜穂子 十二支
会期:2016/07/19~2016/09/03
西村画廊[東京都]
「百科事典の絵画化」に取り組んでいる指田菜穂子の5年ぶりの個展。特定の言葉から連想される古今東西あらゆるイメージをひとつの画面に凝縮させる画風で知られているが、今回の個展では「十二支」をテーマにした連作を一挙に展示した。
曼荼羅のような秩序立てられた画面構成と年画のような華やかな色彩。指田の緻密な絵画に通底しているのは、そのような定型である。しかし、その定型を破綻させかねないほどの膨大な情報量を詰め込むところに、指田絵画の醍醐味がある。大小さまざまな図像や記号が重複しながら同居している画面に眼を走らせると、あまりの知の物量に軽い目眩を覚えるほどだ。事実、それぞれの絵画の傍らには、イメージを言葉で図解した照応表が掲示されていたが(同じ内容は個展にあわせて発行された図録にも掲載されている)、そこには映画のワンシーンからギリシャ神話の伝説、哲学者の逸話まで、実に微細な情報が書きこまれており、指田の博覧強記に、ただただ圧倒されるばかりである。
しかし今回の個展で思い至ったのは、指田絵画が「百科事典の絵画化」を成し遂げていることは事実だとしても、その可能性の中心はむしろ「絵画の百科事典化」にあるのではないかということだ。言い換えれば、「百科事典」に重心があるように見えるが、実はそうではなく、むしろ「絵画」の方に傾いているところに指田絵画の真骨頂があるのだ。というのも指田絵画は、非常に豊かで、かつ、実にまっとうな絵画経験を鑑賞者に堪能させているからである。
例えば今年の干支である「申」。高村光雲の《老猿》や映画『猿の惑星』、ゲーム「ドンキーコング」などは誰もが知るイメージだろう。発見したときの快楽も大きい。だがナスカの地上絵や熱帯アメリカ原産の常緑高木「モンキーポッド」、小説『類猿人ターザン』を書いたエドガー・バロウズなどは、照応表で確認しないと、まずわからない。つまり既知の図像や記号は突出して見えるが、未知のそれらは後景に退いて見える。指田絵画は、鑑賞者の脳内に格納された知識の質量に応じて、その視線に奇妙な立体感と運動性を体感させるのだ。そこが面白い。
むろん絵画であるから平面性に則っていることにちがいはない。けれども平面という定型を保持しつつも、それらと対峙する鑑賞者の視線に平面という条件を内側から突き破るほどの豊かなイメージを幻視させる点は、実は絵画という芸術の王道ではなかったか。単に三次元的な奥行きを感じさせるわけではない。それぞれの図像と記号が目まぐるしく凹凸を繰り返すことで、平面を基準にしながら激しい前後運動を生じさせるのだ。それこそが、平面の純粋還元を唱えた俗流のモダニズム理論を真に受けた人々が現代絵画から放擲してしまった絵画的なイリュージョンである。それを指田は「百科事典の絵画化」によって見事に奪還した。
思えば、現代絵画の隘路は百科事典が体現するような言説空間からの切断に始まっていたのかもしれない。俗流のモダニズム理論においては、彫刻と重複する三次元性はもちろん、文学と重複する言語性も、徹底した排除の対象とされたからだ。だが、そのようにして平面性を純粋化することは、結果的に絵画という芸術を世俗世界から隔絶することになってしまった。世界との関係性を失った絵画は、貴族的なスノビズムに貢献することはあっても、その世界を生きている庶民の視線を奪うことはできない。それゆえ現代絵画に必要なのは、言葉や文字、あるいはイメージによって世界との再接合を図る「絵画の百科事典化」というプロジェクトにほかならない。
2016/07/29(金)(福住廉)