2020年01月15日号
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artscapeレビュー

エッケ・ホモ 現代の人間像を見よ

2016年02月15日号

会期:2016/01/16~2016/03/21

国立国際美術館[大阪府]

キリストの受難を表わす「エッケ・ホモ(この人を見よ)」をタイトルに掲げ、戦後以降の現代美術における人間表象を三部構成で紹介する展覧会。出品作の大半が国立国際美術館のコレクションで占められている。
「エッケ・ホモ」というタイトルが示すように、第二次大戦後、安易なヒューマニズムが成立しえず、合理的精神や理性では規定できない人間存在が提示される。とりわけ戦後美術に焦点を当てた第一章では、犠牲者、戦争という受苦を受けた身体表象、傷を負った生々しい肉体(肉塊)の露出が示される。フォートリエの《人質の頭部》に始まり、鶴岡政男の《重い手》、ルポルタージュ絵画、石井茂雄や池田龍雄が戯画的に描く、抑圧され奇形的にねじれた身体、荒川修作が棺桶に収めた不気味な肉塊や、工藤哲巳が造形した、腐臭を放ちながら機械と融合して培養される肉塊……。なかでも、ウォーホルのシルクスクリーンのシリーズ《マリリン》の前に、戦死広報と拳銃を向き合わせてガラスケースに収めた村岡三郎の《タナトス・D》が置かれていたのは、意表を突かれてはっとさせられた。マスメディアに流通するイメージがさらに版によって反復されることで、「死」の重ささえも(限りなくポップな様相をまといながら)希釈されていく情報資本主義社会の明るく平坦な暴力性と、戦争という国家が犯した罪の犠牲者である個人の死がたった一枚の紙で通告されること。両者は、ポップな明るさ/シリアスな重さ、反復可能性/唯一性においては両極端だが、「死」が扱われる「軽さ」の一点において収束する。
「肉体のリアル」と題された第二章では、身体の欠損、傷(傷痕の残る皮膚を接写した石内都、自らに施した美容整形手術のプロセスを記録したオルラン)、肥満体の女性のヌード(ローリー・トビー・エディソン)など、(女性の)リアルな肉体を提示することで、美とジェンダーをめぐる表象の問題を鋭く浮上させている。ただし、この文脈に、両義的な小谷元彦の作品を入れたことには疑問が残る。出品作の《Phantom-Limb》は、磔刑像を思わせるポーズ、手首の切断のようにも見える赤く染まった掌、少女のまとうワンピースの「白」という色が想起させる「無垢」や「純粋」によって、「無垢で純粋な、聖なる存在としての美少女」への願望が結像するとともに、(握りつぶした果実の果汁で染まった掌の鮮烈な赤が「血」や官能性を喚起するように)無垢で純粋であるがゆえに侵犯したいという欲望がほのめかされているからだ。
また、両足義足のアーティスト、片山真理が登場する映像作品《Terminal Impact(featuring Mari Katayama “tools”)》では、義足を付けた片山が歩いたり腰かけたりする動作を淡々と反復するとともに、黒子が機械を操作して、取り付けられた義足が回転運動や落下を繰り返す。ただし、リビドーの稼働装置のような機械が動き続ける舞台の上で、下着の見える衣装を片山にまとわせることで、義足は身体機能の代替物としての役割を超えて、人格や身体全体から切り離された文字通りの物象化、つまりフェティッシュの対象としても見えてしまう。また、義足を用いた反復行為は、「訓練」さらには「調教」を想起させるだろう。こうした両義的な小谷作品を組み込むことで、オブセッショナルな「美」への願望(男性の視線への同一化)とそこからの解放が、再び「幻想」の領域へと囲い込まれてしまう。
一方、「不在の肖像」と題された第三章は、それぞれの出品作自体は興味深いものの、全体を貫くキュレトリアルな軸が定まらず、散乱・拡散している印象を受けた。身体表象そのものの「不在」によって逆説的に存在の痕跡を喚起する作品(オノデラユキの《古着のポートレート》、塩田千春の黒い毛糸に絡めとられたワンピースなど)、同一性と差異の間で不安定に揺らぐアイデンティティの曖昧さ(顔を前後左右に動かして撮ったセルフポートレートの連作によって、物理的な運動=自己同一性の揺らぎとして提示するブライス・ボーネン)。後者には、ある状況や社会的身分を共有する個人のポートレートを数十人分重ね、ブレの中にひとつの曖昧な「顔」が浮かび上がる北野謙の写真作品も該当すると思うが、こちらは明確な「肖像(画)」を集めた一室に展示されていた。ここでは、トーマス・ルフの巨大なポートレート写真、ゲオルク・バゼリッツの逆さまの肖像画、フィオナ・タンの静謐で美しい映像による動く肖像画と呼べるビデオ作品がある一方で、ジャン=ピエール・レイノーの白タイル貼りの直方体を還元化された人体として提示した立体作品が置かれている。「肖像(画)」というくくりだろうが、ざっくり感は否めず、「不在」はどこへ行ったのかという疑問が浮かぶ。展示のラストは、ヒューマニズムの回復を謳うように、ボイスと島袋道浩の作品で締めくくられる。「約9割がコレクション」という制約もあるかもしれないが、意欲的な展示だっただけに、キュレトリアルな意識の軸線が定まっていないと展示が散乱して見えてしまう点が惜しまれた。

2016/01/30(土)(高嶋慈)

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