artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

須田一政「民謡山河」

会期:2016/01/05~2016/01/31

JCIIフォトサロン[東京都]

「民謡山河」は『日本カメラ』に1978年から2年間にわたって連載されたシリーズである。各地に伝えられた民謡や祭礼をテーマに、写真評論家の田中雅夫(濱谷浩の実兄)が軽妙洒脱な文章を綴り、須田一政が写真を撮影した。富山県越中城端の「麦や節」を皮切りに、全国22府県、24カ所を巡るという力の入った企画で、須田にとっては、初期の代表作である『風姿花伝』(朝日ソノラマ、1978)から、より普遍的な「起源にある視覚」(M・メルロ=ポンティ)を探求した『人間の記憶』(クレオ、1996)に向かう過程に位置づけられる重要な作品といえる。
今回展示された70点は、掲載された写真のネガの多くが見つからず「手元に残るプリントの中から選んだ」ものだという。「民謡山河」の全体像を再現することはできなかったが、逆にこの時期の須田の、6×6判のフレーミングに目の前の事象を封じ込め、魔術的ともいえるような生気あふれる空間に変質させてしまうイメージ形成の手腕を、たっぷりと味わい尽くすことができた。また撮影時から40年近くを経て、須田自身が「その時代と民謡を守る人々の姿に日本の根っこのようなものを感じてもらえれば」と書いているように、失われた世界の記録としての意味合いも強まっているように感じた。風土と人間が緊密に結びつき、地域社会のコミュニティがいきいきと機能していた時代が、ちょうどこの頃に終焉を迎えつつあったことが、感慨深く伝わってくるのだ。

2016/01/07(木)(飯沢耕太郎)

夷酋列像─蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界─

会期:2015/12/15~2016/02/07

国立歴史民俗博物館[千葉県]

夷酋列像(いしゅうれつぞう)とは、松前藩の家老、蠣崎波響(かきざきはきょう)(1764-1826)が描いたアイヌの指導者たち12人の肖像画。本展は、それらの全点と関連する資料を一挙に展示したもの。比較的小規模な企画展だが、絵画のなかに描かれたアイヌの表象と、彼らが身につけた装飾品の実物が併せて展示されているため、知られざるアイヌの世界を垣間見ることができる。
日本美術史において北海道はある種の空白地帯である。そこは民族学的にはアイヌが先住しており、地政学的には「蝦夷」として長らく周縁化されてきたからだ。しかもアイヌには「北海道旧土人保護法」(1899~1997)により財産を奪われ文化を否定されてきたという背景がある。「日本」からも「日本美術史」からも排除されたアイヌの造形表現は、依然として解明されていないことが多い。したがって夷酋列像は類稀なアイヌの表象として希少価値をもつ。
注目したのは、その人物表現。いずれも一見して異様な風貌として描かれているのがわかる。一本につながった太い眉毛や口元を覆い隠すほどの濃い髭、そしてずんぐりとした巨体に不敵な印象を残す三白眼。なかにはラッコの毛皮を敷物にしたり西洋風の外套を羽織ったりしている者もいるから、当時のアイヌが文化的にも経済的にもロシアと密接な関係にあったことが伺える。
しかし、もっとも特徴的なのは、それらの人物像の異様さが陰影法によって増幅されている点だ。眼の下はいずれも色彩が濃いため面妖な印象が強いし、とりわけ脛は陰影を明確に描き分けることで筋肉の剛性を立体的に強調している。このような描写法は、基本的には陰影や濃淡を排除しながら平面性を一貫させる大和絵の画風とはじつに対照的だが、どちらかといえば現在のアニメーションに近い。北海道博物館の学芸員、春木晶子によれば、「陰影(法)は、自分たちと異なる者を示す記号」(図録、p.13)だったのだ。
他者としてのアイヌの表象。夷酋列像はアイヌ自身によるアイヌの肖像画ではなかった。蠣崎波響が松前藩の家老だったように、夷酋列像は和人によって表象されたアイヌのイメージである。事実、そこに描き出された12人のアイヌの指導者たちは、1789年に和人の圧政に耐えかねたアイヌが蜂起した「クナシリ・メナシの戦い」で、争いを終息させるために松前藩に協力した者たちだった。つまり夷酋列像とは、アイヌという他者の表象にとどまらず、野蛮な彼らを支配下に置く松前藩の統治能力を訴える、じつに政治的な絵画だった。会場には時の天皇が夷酋列像を謁見したという記録や、諸藩による模写も展示されていたから、この絵画の政治性は全国的に行き届いていたようだ。
かつてエドワード・サイードが『オリエンタリズム』で指摘したように、西洋近代は他者としての東洋を一方的に表象することで西洋の知の体系を再生産してきた。むろん日本もまた西洋に表象されてきたわけだが、夷酋列像が示しているのは、その一方で、日本が他者としてのアイヌを表象する権力を行使してきたという事実である。すなわち日本は西洋に表象される客体であり、同時に、アイヌを表象する主体でもあった。ここから類推しうるのは、単一民族国家として信じられがちな「日本」が、じつはさまざまな民族が混在した群島であり、そこには西洋と東洋の不均衡な関係性と同じように、表象をめぐる権力関係が随所で入り乱れているという仮説である。これを実証する余裕はないが、例えば「アイヌ」を「沖縄」に置き換えてみれば、その妥当性はある程度実感できよう。
夷酋列像はアイヌの生態をロマンティックに描いた記録画ではない。それは、歴史の深淵から現在のポスト・コロニアリズム的な状況を照らし出す、きわめてアクチュアルな絵画なのだ。

2016/01/07(木)(福住廉)

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山本爲三郎没後50年 三國荘展

会期:2015/12/22~2016/03/13

アサヒビール大山崎山荘美術館[京都府]

アサヒビールの初代社長・山本爲三郎(1893~1966)の没後50年を記念して、彼が生前に民藝運動をあつく支援した証である「三國荘」を再考する展覧会が開催されている。三國荘は元々、民藝運動の創始者である柳宗悦が1928年の御大礼記念国産振興東京博覧会に出品したパビリオン「民藝館」であり、博覧会終了後に山本が買い取り、大阪・三国の自宅に移築して「三國荘」と命名した。本展では、山本コレクションの陶磁器・調度品など三國荘ゆかりの品々を展示しているほか、三國荘の応接室と主人室を実寸大で再現しており、当時の様子をリアルに体感できる貴重な機会となっている。山本は民藝以外にも様々な美術工芸品をコレクションしており、それらのうち少なからずが関西の美術館・博物館に寄贈されている。我々はその恩恵を受けている立場であり、彼の業績に深く感謝を捧げるべきであろう。

2016/01/07(木)(小吹隆文)

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超細密! 明治のやきもの 幻の京薩摩

会期:2016/01/02~2016/01/31

美術館「えき」KYOTO[京都府]

明治時代に海外で人気を博し、外貨獲得の輸出品として大量生産された薩摩焼。本家は鹿児島だが、大阪、京都、神戸、横浜でも生産され、大阪薩摩、京薩摩などと呼ばれた。本展はそれらのうち京薩摩に注目し、清水三年坂美術館の所蔵品で振り返るものだ。薩摩焼の特徴は人間離れした超細密な絵付けと金彩の多用だが、本展の作品も超絶技巧のオンパレードであり、あまりにも細かい装飾ゆえに途中で目が疲れ、何度も根負けしそうになった。しかしこれらの見事な工芸品を見て思うのは、昔から変わらぬ日本人の性質である。薩摩焼では極限的な技術を徹底的に追求し、器本来の実用性を超えて装飾が肥大化していく。それは現在の国内メーカーの一部に見られるガラパゴス化にも通じるのではないか。京薩摩のゴージャスな美しさに魅了される一方で、そんな思いが脳裏を横切るのであった。

2016/01/07(木)(小吹隆文)

狩野一信の五百羅漢図展(後期)

会期:2016/01/01~2016/03/13

増上寺宝物展示室[東京都]

五百羅漢図といえば幕末の狩野一信のそれが有名だが、タイトルにあえて「狩野一信の」とつけているのは、森美術館で「村上隆の五百羅漢図展」が開かれ話題になっているので、便乗しようとしたのか掩護射撃しようとしたのかは別にして、こっちが本家本元だと主張したかったからに違いない。もちろん五百羅漢図は一信以前から描かれていたけど、一信の作品はスケールにおいても表現においても空前のもので、これがなければ村上の五百羅漢図も発想されなかったはず。今回(後期)は軸装の全100幅のうち第41幅から第60幅までの公開。わずか20幅とはいえ、一信にとってはもっともノッていた時期ではないかと思わせるほど奇想天外な表現に満ちている。例えば修行する羅漢を描いた第45図。これが描かれた幕末は西洋美術のさまざまな技法・知識が導入されつつある過渡期だったが、遠近法や陰影表現などは正確に伝わらないまま見よう見まねで駆使されていたため、光線の逆の「影線」みたいなありえない表現が見られるのだ。同じケレン味でも、村上が戦略的にケレン味を狙ったとすれば、一信は意図しない天然のケレン味にあふれているのだ。

2016/01/06(水)(村田真)

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