artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

渡邊耕一「Moving Plants」

会期:2015/12/15~2016/01/23

The Third Gallery Aya[大阪府]

同名の写真集の刊行に合わせて開催された個展。渡邊耕一は、「イタドリ」という日本では普通に見られる雑草が、「侵略的外来種」としてヨーロッパやアメリカ各地で繁殖している姿のドキュメントを、文献調査と地道なフィールドワークによって、約10年間撮影し続けている写真家である。本展では、イタドリが生い茂る風景写真に加えて、イタドリが海外へ「移動」した歴史的経緯と現代のグローバルな生花市場を捉えた写真を合わせて提示することで、グローバル資本主義、さらには駆除の対象としての外来種=移民の排除を示唆し、より広範な現代的問題へと射程を広げている。
元々は東アジア原産の植物であるイタドリは、19世紀、長崎の出島のオランダ商館医であったシーボルトにより、多数の動植物の標本や種などと一緒にオランダ本国へ送られ、園芸用植物として商品化されたことで、ヨーロッパ各地へ拡散し、さらにアメリカ大陸へと広まった。アフリカやアジア地域の植物を調査し、薬用や園芸用になる「有用植物」は植物園で栽培し、自国の気候に馴化させた後、商品化する。植民地経営と資本主義が両輪となって、獲得した「外来種」の商品化を推し進め、物流や移動手段の発展がさらに加速させる。その構造は、現代でも変わらないことが、明晰な展示構成によって示されていた。シーボルト商会の商品カタログの価格リストを映した映像の上に、現代の世界最大の花市場である、オランダのアールスメール花市場の映像が重ね合わせられる。また、東インド会社の帆船の模型、出島の商館内部、花市場から出荷していくトラックを写した写真が並置されることで、運搬手段は変わっても、より新しく魅力的な商品への欲望が、植物を「移動」させる原動力となってきたことが示される。
渡邊は、そうしたイタドリの拡散の足跡を、植物学者のリサーチのように丹念に辿っていく。オランダのライデン大学付属植物園に始まり、イギリス、ポーランド、アメリカへ。どこにでもある路肩や草原の風景の中にある、イタドリの茂み。あるいは、廃屋を今にも崩しそうな勢いで覆い尽くす姿。茂みの中に入って撮影した写真を見ると、巨大なイタドリの森の中にいるようだ。旺盛な生命力や天敵不在といった要因により、異常に成長したイタドリは高さ2、3mに達し、元の生態系を破壊するため、「侵略的外来種」にリスト化され、巨額の費用をかけた駆除の対象になっているという。
元々は、ある土地に根づいた在来種であったものが、人為的な移動によって、移住先の土地に順応し、群生=コミュニティを作って増殖・拡大するが故に「ローカルな植生を脅かす」侵略者とみなされ、駆除の対象となること。ここに、「イタドリ」の移動という個別的な事例を超えて、移民の排除についての比喩を読むことも可能だろう。渡邊の仕事は、路肩に生い茂る雑草や林の中の群生など、(駆除業者は別として)誰に注視されることもない雑草を、ありふれた風景の中に丁寧に眼差しながら、現実の風景の変容のドキュメントであることを超えて、「現実」の基底層にある様々な力学のダイナミズムをも照らし出している。


(c) Watanabe Koichi「Moving Plants」

2015/12/23(水)(高嶋慈)

野口里佳「夜の星へ」/「鳥の町」

キヤノンギャラリーS/GALLERY KOYANAGI[東京都]

2014年の個展「父のアルバム/不思議な力」(916)を見て、野口里佳の作風が変わりつつあるのではないかと感じた人は多いだろう。亡くなった父親が遺した写真のネガを自らプリントし直した「父のアルバム」、その父が使ったハーフサイズのカメラで、身近に起きる出来事を撮影した「不思議な力」──そこには遠い宇宙の彼方から地上に視線を向けているような、それまでの野口の作品とはやや異質な、親密な感情の交流を感じさせる写真が並んでいたのだ。
今回、ほぼ同時期にキヤノンギャラリーSとGALLERY KOYANAGIで開催された二つの個展もその延長上にある。「夜の星へ」では、ドイツ・ベルリンの仕事場から自宅に向かう2階建てバスの窓から、滲んで広がるイルミネーションや車のヘッドライトの光を、やはりハーフサイズのカメラで撮影していた。「鳥の町」では、「私の家から車で一時間ほど」の場所にある小さな町の上を飛ぶ、渡り鳥の群れにカメラを向けている。どちらも身近な日常の事象を題材としており、それを柔らかに包み込むような雰囲気で写真化しているのだ。
とはいえ。このような「近い」距離感で撮影された写真群が、突然にあらわれてきたのかといえば、そうではないだろう。元々彼女には、近さと遠さ、直観と論理的な構築力を自在に使いこなす能力が備わっており、ベルリンで暮らし始めてから10年余りを経て、それを着実に発揮することができるようになったということだと思う。「夜の星へ」には同時に映像作品も展示されていた。静止画像と同じ被写体を動画化したものだが、その取り組みもまったく違和感なく、自然体でおこなわれている。写真や映像を通過させることで、混沌とした世界の眺めを独自の視点で再構築化していくプロセスが、野口の中にすでにしっかりと組み込まれ、身についていることを、あらためて確認することができた。
会期:「夜の星へ」2015/12/17~2016/2/8 キヤノンギャラリーS
  「鳥の町」2015/12/19~2016/1/30 GALLERY KOYANAGI

2015/12/22(火)(飯沢耕太郎)

プレビュー:コレクション2 ドーミエどーみる? しりあがり寿の場合

会期:2016/01/16~2016/03/06

伊丹市立美術館[兵庫県]

コレクションの方針の一つに「風刺とユーモア」を掲げる伊丹市立美術館。その代表であり、世界有数の規模を誇るのが、19世紀パリで活躍した風刺画家オノレ・ドーミエ(1808~1879)の作品群である。本展では、漫画家のしりあがり寿(1958~)が、ドーミエ作品を元に新作を制作。時空を超えた日仏アーティストの共演が行われる。ドーミエの作品には政治風刺が多数あり、非常に辛辣な表現も多い。昨年のシャルリー・エブド事件でも取り沙汰されたフランスの風刺の伝統を知る意味でも、本展は意義深いと言えるだろう。また、ドーミエを知ってもらうきっかけとして、有名な日本人漫画家とカップリングさせる手法も秀逸だ。

2015/12/20(日)(小吹隆文)

武政朋子 It is mere guesswork それは単なる推測にすぎない

会期:2015/11/28~2015/12/20

Maebashi Works[群馬県]

「絵画」のオーバーホール。武政朋子が手がけているのは、既存の「絵画」を分解、点検、再構成する、きわめて内省的な仕事である。それは、「絵画」の制度を自明視しながらイメージの再生産に勤しむ無邪気なペインターたちとは対照的に、「絵画」の成立条件に根本的な懐疑の視線を向けているという点で、じつに哲学的な身ぶりであると言ってよい。
例えば2014年に秋山画廊で催した個展「Anonymous Days──無名の日々」で発表されたのは、自らの過去作の表面を削り取った平面作品。画面には鮮やかな色彩が茫々と残されているのみで、それらはなんらかの形象として輪郭を結んでいたわけではない。そこに逆説的に立ち現われていたのはイメージを掘削したという強烈な身体性であり、武政はその身体性によってイメージが立ち消えた後、なおもそこに残存する気配、すなわち「絵画の亡霊」を描いてみせたのである。
今回の個展で発表された新作は、武政の内省的な視線がよりいっそう「絵画」の奥深い基底に及んでいることを如実に物語っていた。白い空間の壁面に展示されたのは、大小さまざまな木枠や木片。近づいて目を凝らすと、極薄の木目の一つひとつに丁寧に彩色されているのがわかる。キャンバスの木枠をはじめ建具や木片などに色鉛筆で丁寧に色を塗りつけたのだという。色の重層性が美しい点は以前の作品と変わらないが、以前にも増しているのは執着心を帯びた身体性である。武政の視線は白いキャンバスにとどまることに飽き足らず、それを突き破り、ついにそれを支える構造にまで到達したのだ。
このような破壊的性格からすると、武政の仕事は絵画の解体を実践しているだけのように見えるかもしれない。しかし、そこには明らかに再構成の側面がある。なぜなら壁面に立てかけられた木枠の数々は、壁面に対する正面性の視点によって整然と配置されていたからだ。どれほど絵画を縦横無尽に解体しているように見えたとしても、絵画を制作ないしは鑑賞するためには不可欠な正面性の視点だけは固持されている。いや、むしろそうした絵画意識を準拠点にしながら、絵画というメディアのありようを組み立て直そうとしていたと言うべきか。色分けされた木目の細部より、むしろその先に、未知の絵画のイメージが隠されているのかもしれない。

2015/12/20(日)(福住廉)

潘逸舟 存在を支配するもの

会期:2015/12/05~2015/12/20

高架下スタジオSite-Aギャラリー[神奈川県]

潘逸舟は上海生まれの日本人。中国と日本のあいだで引き裂かれ、あるいは双方を架橋する、アイデンティティの問題を一貫して表現してきた。なかでも優れているのは、昨今の日中外交問題の争点とされている尖閣諸島のイメージを、ゆっくりと水没させる映像作品である。水平線に沈んでいく太陽のように、島のシルエットが徐々に消えていくモノクロ映像は、社会的政治的な意味を超えて、幽玄の美ともいうべき詩情を醸し出していた。
今回の個展では過去作も含めて5点の作品が展示されたが、もっとも注目したのは新作《ミュージカル・チェア》。表裏の二面にそれぞれプロジェクターで映像を投影した映像インスタレーションである。表面には干潮時に海中から現われる小島で5人の男が椅子取りゲームをする映像を、裏面には同じ海の満潮時にその小島が海中に消えていく映像を、それぞれ映し出した。
男たちは海底の石を椅子として椅子取りゲームを繰り広げるが、一人また一人と画面から消えていき、最後に残った一人にしても、ほどなくして島を後にする。結局のところ、島には誰もいなくなり、それもやがて海に消えていくというわけだ。
この映像作品の撮影場所は対馬。言わずと知れた日本と韓国の文化的な接触領域である。だとすれば、男たちの椅子取りゲームは国境線や領土をめぐる政治的な抗争のメタファーとして読めなくはない。だが、潘の視線はここでもそのような表層を超えている。椅子取りゲーム=領土争いというきわめて人為的な振る舞いは、とどのつまり自然の中に雲散霧消するほかないからだ。
潘逸舟の作品に通底しているのは、無為と自然の道を重視する老荘思想なのかもしれない。

2015/12/19(日)(福住廉)